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アイノナイバショデ  作者: 笛み
番外編
154/159

10+154 虚

 ヤマカガシが搾血(さっけつ)場の扉を開けた時、スッポンはちょうど作業が一段落したところだった。出産直後の体をおして、よく頑張ったと思う。自分で自分に感心する。


 自分の不調と目の前の仕事で立っているのもやっとだったから、それ以外のことなどもちろん何も考えていなかった。だからその一報もまた、上手く処理しきれなかった。


 頭が働いていなかったのかもしれない。または故意に休ませていたとか。とにかくスッポンは初め、それの意味を理解出来なかった。


「…トカゲとジュウゴを逃がすために囮になられたそうです。リクさんは上手く巻くつもりやったがかもしれませんけど、カエルの囲い込みの方が早かって…」


 リクが何?


「ジュウゴはリクさんを助けようとしたがです。カエルの団子の中に突っ込んで行きました。でもカエルの集団戦術には歯が立たんくって左目くり抜かれて…」


 『とられた』って何? どいういうこと? スッポンは後処理を待つばかりのカエルたちを見つめる。


「…しとったがで自分が落としました。処置は済んどりますけどまだ寝とってトカゲが付き添っとります。

 イシも重症ですけどさっき目ぇ覚まして…」


 搾血(さっけつ)後のカエルを見つめる。折り重なって動かなくなった体、自分が締めた男たち。自分たちが生きていくために腹を満たすために飲むために男たちが獲ってきた…


「イシは!?」


 シマヘビがヤマカガシに駆け寄った。「重症って何したが!? 意識無かったって…!!」


「スーちゃん!!」


 ヤマカガシの両腕にしがみついてまくしたてるシマヘビの後ろで、スッポンが倒れた。


「スーちゃん!?」


「スッポンさん!」


「マタ呼んで来られま!」


「スッポンさん、気ぃ確かに…」


「スーちゃん!!」


 女たちに囲まれて、青ざめて震えるスッポンを直視できないヤマカガシが、じっと固くなって立ち尽くした。



 *



 赤ん坊が泣いている。腹を空かせて泣いている。母の腕に抱かれて、すぐそばに求めるものがあるにもかかわらず手が届かなくて、全身を使って空腹を訴え続けている。


 スッポンは座っていた。その腕に息子を抱きかかえて、授乳をするはずだったことも忘れてただ呆然と、乾ききった目は中空を見つめたまま時間が完全に止まっていた。


 女たちに呼ばれて妻を迎えに行ったアカマタは、無言で妻の横顔を視界の端に捉えている。義姉に預けられていた赤ん坊はサキシマハブが連れてきてた。


―あんたがちゃんと見てやらんなん―


 赤ん坊をアカマタの腕の中に押しつけると、サキシマハブは満足そうな顔をして帰って行った。何も知らないで。


 シマヘビの話だと、妻は従弟の重傷の報告を受けて卒倒したらしいが、そうではない。以前下の従弟(クサガメ)がやられた時は一目散に見舞いに飛んで行ったのだ。イシガメも大怪我を負っていたが同じ従弟ならば同じ様に駆けつけただろう。ではなぜ妻はここにいるのか。その理由を知るアカマタは、奥歯を噛みしめ項垂れる。


「……泣いとるぞ」


 妻に声をかけた。返事は無い。


「腹ぁ減っとんがやろ。早よ飲ませてやらんか」


 まるで聞いていない。


 赤ん坊の泣き声がうるさい。けたたましく鳴り続ける目覚まし時計のように、頭に響いてうんざりする。この騒音で自分の声がかき消されて、妻の耳に届いていないのかもしれない。そんなわけないのだけれども。


 アカマタは息を吐く。それから胸一杯に空気を溜めこみ、声量は抑えたままで極力声色も変えないようにして、


「大事にしてやられ。リクガメ君の子やろ」


 言い切った。


 唇が渇く。狩り合いの後だ、当然だ。まともに休む間も無かったし風呂にさえ入っていない。唇だけでなく喉の奥まで干乾びて、全身の水分を搾りとられているような心地がした。おそらく今ごろ、リクガメがされているように。


「………え?」


 妻が顔を上げた。あの男の名前には反応する。狩り合いから帰った自分の息災には何一つ労いも無かったくせに、あの男の名前を出した途端に。


「知らんとでも思っとったがか」


 冷静を装いながらアカマタは顔を上げた。血走った目は女の裏切りを睨みつける。その額に汗は無い。頭の芯は破裂寸前に熱いのに、体は冷水に浸かっているかのごとく冷えていた。手が震える。


「その目元、見れば見るほどよう似とるのう、リクガメ君に。かわいくて仕方なかろう。父方の名前付けたい言う気もわかっちゃ」


 赤ん坊が泣く。


「俺もだら(・・)やわ。『お父さん』いうがにすっかり騙されて」


 口に出すと笑えてくる。頬と目尻の相反するひくつきが煩わしくて、アカマタは手の平で顔を覆う。


「楽しかったけ」


 手の甲で感じる妻の視線。


「笑っとったがやろ? なんも知らんで自分の子だとばっかり思って浮かれとんが見て馬鹿にしとったんやろ。楽しかったがやろ? 俺を笑い(もん)にしてあの男と陰でこそこそ……」


 噛みしめた口の中で笑ってみれば、鼻の奥で変な音が鳴った。


「盛り上がったんやろうのう」


 自分とよりも。


「子ども拵えるくらいやしのう」


 自分より先に。


「あばずれ」


 指の間から妻を睨みつけ、最大限の侮蔑を込めて罵った。


 赤ん坊が泣き続ける。口の中の水分などとうの昔に使い果たしていそうなのに、その小さな体のどこにそれほどの力があるのか、絶え間なく息継ぐ間もなく泣き続ける。


「……ごめんなさい…」


 妻がぽつりと言った。今さら何を? 何について誰のためにどうしてそんなことを!


「謝って済む問題け!!」


 アカマタは怒鳴り散らした。握った拳を振り下ろし、ちゃぶ台の天板が音を立てて揺れて跳ねて湯呑が倒れて茶がこぼれる。


「どの面下げて自分…ッ!!」


「はい」


 妻は無抵抗に首を垂れる。赤ん坊が泣いている。湯呑が転がり茶が滴り、床まで濡れている。


 なんだこの状況は。アカマタは部屋の中を見回した。これではまるで、自分が悪いみたいではないか。


 謝れば済む問題なのか? 無抵抗を装えば許されるのか? 謝られたら許さなければいけないではないか、許せるわけがないのに。許せない方が悪いのか? 許さなければいけないのか? 耐えねばならないのか、抑えねばいけないのか、ならばこの怒りはどこへ行けばいい。


 された方が押し黙って受け入れて、した方は神妙なふりをしてお咎め無しで、何も失わずにしたいことをしていい思いをして謝罪一つで全て終わらせられるなら、そんなのやった者勝ちではないか。そんな理不尽が許されるのか。


「いつからけ」 


 頭の中に渦巻く轟音と熱波などおくびにも出さずに、アカマタは努めて静かな声で尋ねた

 目を覚ましたイシガメはまだ目の赤い弟を小突きながら、しばらくはうつ伏せ寝しかできなさそうなリュウキュウヤマガメと談笑していた。当初はどうなることかと心配されたリュウキュウヤマガメの傷は意外に浅く、リュウキュウヤマガメ自身が背中の傷を笑い話をしたりしている。不安が限界を超えて泣き続けていたその妻も夫の丈夫さに胸を撫で下ろし、娘と共に一旦部屋に戻ろうかとしていた時だった。


 全員が肩をびくりと上下させた。それくらいの勢いで扉は開かれた。


「シマ……?」


 鼻水を啜りあげながら言ったクサガメには目もくれず、シマヘビは肩を上下させながらイシガメを見つめる。視線を受け取ったイシガメは一瞬たじろいだが、すぐにいつもの調子かそれ以上にちゃらけて憎まれ口を叩いたりした。


「なした? 俺が死んでなくてがっかりしたか?」


「お前、せっかく見舞いに来てくれた子になんて態度だよ」


 笑いを含みつつもリュウキュウヤマガメがそれを注意する。そのやり取りにさえシマヘビは表情を動かさず、


「シマちゃん?」


 リュウキュウヤマガメの妻のキクザトサワヘビが少女に歩み寄った。


 シマヘビに遅れて駆けつけたヤマカガシや、リュウキュウヤマガメ班の班員たちが集ってくる中で、シマヘビはぽつぽつと、イシガメたちがまだ知らなかった事実を告げる。キクザトサワヘビが手の平で口元を覆い、リュウキュウヤマガメが瞬きを忘れ、クサガメが首を横に振った後ろで、


「……嘘だ」


 イシガメが呟いた。


 兄の声に振り返りかけたクサガメを押し退けて、


「イシ!」


 誰の制止も聞き入れず、イシガメは裸足で通路に飛び出した。

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