10+1 カメの駅
「……元気な、男の子…」
歓声が上がった。笑顔も泣き顔も皆、一様に喜びを表現している。新しい命が駅に加わったのだ、当然だろう。ましてや母はカメで父はヘビ、加えて若い夫婦の長子の誕生とあればめでたくないはずが無い。突然の破水に最悪の事態さえ思い描いた者もいたが、子どもは駅の構内に産声を響かせた。ヘビとカメのより一層の親睦を深める使命をその小さな身体に背負って。
アカマタが分娩室に駆け込んだ。大仕事を終えた新妻を労わっている。そこにヘビの女が声をかけ、産湯に浸からせる前の、まさに生まれたての赤ん坊を手渡した。アカマタは恐るおそる赤ん坊を受け取り、汗と涙にまみれた顔を近付ける。同じく汗まみれのスッポンもその様子に目を細めている。
何だよその顔、スッポンの笑顔にリクガメの目は据わった。なに、幸せそうに笑ってるんだよ。お前の横
は俺の場所じゃなかったのかよ。
母親になった従姉の無事にはしゃぎ回るイシガメとクサガメの兄弟、イシガメに抱きつかれて苦笑するヤマカガシ、まだまだやることがあるのか、分娩室を走り回っているしっかり者のシマヘビ、トカゲ、そしてスッポン。リクガメ班の面々は誰もが班員の幸せに尽くしていた。班長のリクガメを除いて。
「一体何が……」
ジュウゴが呟く。しばらく黙っていろと釘を刺したのに、シュウダから預かった問題児は、早速分娩室を覗きこんでヘビの男に叱られている。
ジュウゴからの質問攻めに応えるのも、周囲に合わせて笑顔を作るのも耐えられなくて、リクガメはそっとその場を離れた。
* * * *
十五年前
「あたし、リッくんのおよめさんになる!」
また始まった、リクガメはスッポンを白い目で見遣った。反対にスッポンはきらきらした目で自分を見つめている。そして周囲はにやけ顔だ。
「もてもてだねえ、『リッくん』」
「うらやま~」
「うるせー」
年近い連中の揶揄が嫌でたまらない。全員同じ駅育ち、寝食を共にしている幼馴染みだ。遠慮などという高尚なものがあるはずもなく、意見も感想もその場でそのまま伝え合う。当然喧嘩も日常茶飯事で、怪我をしたことが無い奴なんてリクガメの周りにはいない。男同士は拳で語りあうものだとオサガメも言っていた。尊敬してやまない駅の頭首の教えだ、リクガメもそれに関しては大賛成だ。しかし。
「リッくんどこいくのぉ?」
スッポンが言いながら後追いしてきた。すぐさま男どもが声色と言い方を真似て笑って盛り上がる。本気でやめてほしい。恥ずかしくてたまらない。
「どこでもいいべや!!」
リクガメはとうとう堪え切れなくてスッポンに怒鳴り散らした。スッポンはびくりとして立ち止まる。驚いた顔で固まり、その眉尻が徐々に下がって唇がわなないて俯いた。
「あ~あ」
「泣かしてやんの」
「おいリクぅ、女ば泣かすなや」
「子ども相手にむきになんなよ」
当然のごとく、男たちの非難の的になる。スッポンは肩を震わせている。リクガメの苛々は最高潮に達するが、達したからといって爆発させることもできない。腹立たしいが男どもの言い分は当然だし、年下の、しかも女子相手に手をあげるなんて自分は弱いですと公言するようなものだ。リクガメの自尊心はそれを許さない。
「……地上」
結局リクガメはいつも通りに折れるしかない。スッポンが上目遣いの涙目で見つめてくる。リクガメの言葉を待っている。男どもの視線がうざったかったが、スッポンの視線から逃げることの方が難しくて、結局リクガメは息を吐いた。顔は絶対にそちらに向けずに、
「……来っか?」
スッポンにだけ聞こえるように、ごくごく小声で囁いた。それなのに、
「うん!!」
スッポンが大きく頷いて元気良く返事する。まるで隠せていない。それどころかリクガメの手を握ってきてにっこりと笑い、
「行こう! リッくん」
これ見よがしに腕を引いた。
「行こう、リッくぅ~ん」
ウンキュウがスッポンを真似て両手で自分を抱きしめる。
「一緒にいくう~!」
男どもの嘲笑と馬鹿笑いと下品な冗談に背を向けて、真っ赤な顔をしたリクガメはその場を後にした。
*
「お前、泣きまねやめれや」
ぶすっとしたままリクガメはスッポンに言う。
「してないよ」
スッポンが小首を傾げて見上げてくる。右手はリクガメの左手を握りしめながら。
「してたべや、さっき」
「泣きまねじゃないもん」
「全然泣いてないべや」
「さっきは泣いてたんだもん」
言ってスッポンは右手を大きく振った。リクガメの左腕も前後に振られる。こちらは怒っているのになぜか嬉しそうでリクガメは腹が立つ。
男だったら今ごろ殴って黙らせられるのに。うるさい、ついてくんな、あっち行けやと怒鳴り散らして追い払うことができれば、どれほど清々しいことか。それができれば男どもにからかわれることもないのに。だがスッポンは年下で女の子どもだ。
どうしてこうなったのだろう、とリクガメは考える。悪党に囲まれているところをかっこよく助けたなんてこともないし、とりわけ美形なわけでもない。むしろ顔だけで言えばニシキマゲクビガメの方が上だと思うし、喧嘩だったらゼニガメに勝てたことも無い。何をどう間違ったのかリクガメには皆目見当もつかない。
「なあ、スー」
自分の手をひいて前を行く幼い少女に声をかける。
「なあに?」
スッポンはリクガメの手を引き先を急ぐ。
「お前なんで俺につきまとうんだよ」
「すきだからにきまってるっしょや」
はにかんでスッポンは答える。引き攣った顔でリクガメは閉口する。
「……なんで?」
すぐに答えてくると思ったのだが、リクガメの予想に反してスッポンは押し黙った。
「スー?」
惰性で引っ張られていたリクガメは数歩だけ早歩きしてスッポンの真横に行き、その顔を覗きこむ。と、スッポンが満面の笑みを向けてきて、
「ひみつ!」
言うとリクガメの手を握り直し、少し俯き加減で走り出した。
「おい、走んなや…」
「おねえちゃん」
立ち止まったスッポンに遅れてリクガメもつんのめりながら止まる。呼ばれたヒメウミガメが振り返る。周囲には数名の男女。同年代で盛り上がっていたらしい。
「スー、こんな時間にどこ行くのさ」
「リッくんと『そと』」
「また遊んでもらってたの?」
言ってスッポンが妹の手を見た。リクガメは慌ててスッポンの手を払う。
「どうする? 妹ちゃんと帰るかい?」
「行くってば。少し時間ちょうだい」
言い置くとヒメウミガメはリクガメたちの方に歩み寄ってきた。正確に言えば妹のスッポンになのだが。
「スー? もう夜が明けるから子どもは地下にいな。あんたあっついの苦手だべさ」
姉に諭されたスッポンは頬を膨らませて駄々をこね始める。
「子どもじゃないもん。『あさ』見てくるだけだもん。やけどするまでなんていないし、リッくんがいるからへいきだもん!」
同意を求めながらスッポンは再びリクガメの手を握った。
「したってさぁ……」
困り果てたヒメウミガメが腰を伸ばしかけた時、ヒラタウミガメがその横にやって来た。
「大丈夫っつってんだから心配ないっしょ。『リッくん』も一緒だし。なあ? スーちゃん」
ヒラタウミガメは健康そうな肌に白い歯を覗かせてスッポンに微笑みかけた。それからリクガメに顔を向けると声色と話し方を男向けのものに変え、
「おいリク! お前も男ならちゃんと責任持ってスーちゃんば送ってやれ…」
「違うっつってるべや!」
リクガメの見幕にヒラタウミガメが言葉を止める。
「なしたのさ」
驚いた顔でヒメウミガメが尋ねる。
「リッくん?」
スッポンが下から覗きこんできた。リクガメは力一杯その手を振り払う。
「リッくん…?」
「うるせーよ!」
怒鳴り散らして元来た道を逃げるように取って返した。
取り残されたスッポンは走りかけて、でも到底追いつけないことに気付いて、途方に暮れて立ち尽くす。
「……茶化し過ぎたべか」
ヒラタウミガメが苦笑する。
「なんか言ったっけ?」
ヒメウミガメが怪訝そうに首を傾げる。その顔を見下ろしてヒラタウミガメが鼻で笑った。笑いながらヒメウミガメを抱き寄せてその頭を撫で回す。
「ちょっとぉ! スーもいるのに」
口ではそう言うヒメウミガメも、本気で嫌がっているようには見えない。ヒラタウミガメは笑ったまま、
「スーちゃん、姉ちゃんの幸せのためにもがんばれよ。お兄さん応援するからな」
交際相手の妹を激励した。
「誰が『お兄さん』?」
呆れるヒメウミガメに、
「未来のお兄さんだよ〜」
スッポンに向かっておどけ続けるヒラタウミガメ。
いちゃつく姉たちを一瞥し、スッポンはリクガメが去っていた廊下の先を心配そうに見つめた。
* * * *
十年前
「「「よぉばぁいぃ~?」」」
ウンキュウの話に全員が素っ頓狂な声をあげた。ウンキュウが「しーっ!!」と口の前に指を立てる。リクガメたちは手の平で口を覆ったり唇を横一文字にしたりして息を飲み、各々周囲を警戒してから再び額を付き合わせた。
カエルの駅から届いた野菜の分別作業後だった。カメの駅でも植物の栽培はしているが、カエルの配給無しでは全く足りない。カエルの駅の大規模農業を支えているのはカメが供給する機械なのだし、当然の恩恵ではある。カエルとは駅も隣接してることから良好な関係を築けているとオサガメも言っていた。
その野菜室の片隅でリクガメたちはたむろしていた。作業後には恒例の駄弁り合いだ。しかしこの日は様子がいつもと違った。リクガメたちは今度は声を顰めて、ウンキュウを問い質す。
「お前、まじで見たのか?」
「うそだろ……」
「『よばい』ってその……、『夜這い』?」
「他にどの『よばい』があんだよ」
「いついつ!」
「見間違いだべや」
「まじまじ、まじ真面目に」
ウンキュウが切羽詰まった顔で話し始めたから、他の面々は一様に唾を飲み込んで押し黙った。
「姉ちゃんの部屋から聞こえたんだよ。誰かと喋ってんのかな~って思ったけどなんか……、なんか、」
ごくりとニシキクビマゲガメが喉を鳴らす。
「昼過ぎで親も絶対寝たと思ったんだべな。だからその、あの…あれも……」
「あれって?」
尋ねたミスジハコガメをちらりと上目で見てから、ウンキュウはすぐにまた気まずそうに目を伏せ、極々小声で、「こえ」と答えた。感動にも似たため息がリュウキュウヤマガメの口から漏れて、ゼニガメがその間抜け面を引っ叩く。
「相手誰だよ! って思って俺、玄関ば張ってたんだよ。したらさ…」
「ヌっくんが?」
ミスジハコガメが言ってリクガメを見た。他の面々も振り返る。
「どうなんだよ、リク。昨日の昼、ヌっくん…」
「知らねえよ!」
リクガメは全部を言わせず否定した。
「知らないわけないべや。一緒に住んでんのに」
ニシキマゲクビガメが身を乗り出してくる。リクガメはそれを押し返しながら、
「だから知らねえって! 兄貴がどこで何してんのかなんていちいちかまうかよ!」
「ってことは……」
ミスジハコガメが真剣ぶって顔をあげ、
「確かめるしかないな」
「いいべや別に!」
リクガメは決死の表情で止める。
「だったらリクが聞いてこいよ」
ウンキュウが珍しく真面目に言った。「あ゛?」とリクガメは聞き返す。
「聞いてこいっつってんだよ。弟の義務だろ」
「初めて聞いたわ。誰の義務?」
「ヌっくんにうちの姉ちゃんとやったのかって聞くだけだろ」
「やだよ!」
「なんでだよ!」
「やに決まってんだろ!!」
そんな話をする兄弟仲ではない。
本気で拒否したからウンキュウも諦めるとリクガメは思った。しかし、
「わがままぬかしてんじゃねえぞ! 聞けっつってるべや!!」
予想に反してウンキュウは憤慨した。勝手過ぎる主張にリクガメも腹が立ってくる。
「したらお前がミナミちゃんに聞けばいいべや! お前が知りたいんだべ? なんで俺が動かなきゃなんないんだよ。弟の義務? お前がミナミちゃんの弟だろ! 俺に振ってくんなや、はんかくせえな」
立ちあがってウンキュウを見下ろし、まくしたててやった。ウンキュウは唇を噛みしめて一点を見つめている。ようやく引き下がったかとリクガメが顔を背けた時、ウンキュウが立ち上がり死角から殴りかかってきた。リクガメは倒れてゼニガメとミスジハコガメを巻き込む。
「いってえ!」
「重い! 降りろ」
「俺のせいじゃない…」
「お前が聞いてくれればいいだけの話だべや!!」
ウンキュウの身勝手さが唾とともに降り注ぐ。リクガメは頬を拭うと勢いづいて立ち上がり、そのままウンキュウを殴り返した。
「リク!」
「おい!」
「てめえが先だろ!」
すぐさま立ちあがってきたウンキュウと揉み合いが始まる。
「聞いてくれって頼んだだけだろ!?」
「だから嫌だっつってんだろ!!」
「やめれや、お前ら…」
「嫌でも聞いてもらわなきゃ駄目なんだよ!」
「訳わかんねえこと言ってないで…」
「俺の姉ちゃん、来月結婚すんだよ!!」
ウンキュウの一言で全員が静まり返った。リクガメを羽交い絞めにしていたゼニガメがぽかんと口を開き、ウンキュウを抑えこんでいたミスジハコガメが「まじで……?」と呟く。真ん中で仲裁していたリュウキュウヤマガメが指先で頬をかき、ニシキマゲクビガメが、
「おめで、とう……?」
疑問形で祝いだ。
ウンキュウは礼も告げずに項垂れる。リュウキュウヤマガメはゼニガメに視線で助けを求めたが、ゼニガメは気まずそうに首を横に振るだけだ。誰もが何と言えばいいかわからない中、下を向いたままでウンキュウがぽつりと呟いた。
「ワシんとこ。この前俺も顔合わせで行ってきた」
ということは。ウンキュウ以外の顔がリクガメを凝視する。
「あそこってなんまらそういうの厳しいって言うっしょ? 浮気とか絶対、先方さんが許さねえよ……」
言いながらウンキュウがさらに肩を落とす。リクガメもゼニガメに促されて、振り上げていた拳を下ろす。
「お前の兄貴のせいで俺の姉ちゃんの一生が決まるかもしれないんだぞ? 責任ないとかぬかすなや……」
言いながらへたり込んでしまった。本気で泣いているらしい。リクガメはかける言葉を失い、ゼニガメが視線だけで何かを訴えてくる。
「リク、」
リクガメの肩を握りしめるとニシキマゲクビガメは一言、
「聞いてこいや」
提案というよりもほぼ命令。リクガメは言い返そうとしたが、
「リクの義務だわ」
「行けよ」
「ウンキュウがかわいそうだべや」
ゼニガメ、リュウキュウヤマガメ、ミスジハコガメも口々に責め立てる。
「お前ら無関係だと思って…!」
「頼むよ、リクぅ」
ウンキュウの鼻声にそれ以上は何も言えなくなる。他の面々もじっとりと見つめてくる。
断われるはずが無かった。