「普通じゃない」って言うけど、まず『普通』ってなんだろう?
私はよく、好きなアーティストや食べ物を言ったとき、「普通それは好きじゃないでしょ」と言われます。
そのときに「普通ってなにをもって普通だよ! 普通がいちばん良いのかよ!」と思い、普通について考えたことがこのエッセイを書くきっかけです。
『普通』というのはほとんどが、多数派、という意味だと思います。
好みに限らず、障害者、同性愛者、ハーフ……そういう人に対して差別があるのも、「普通じゃないから」という人がいるかもしれませんが「多数派ではないから」のほうが正しいように思います。
多数派ではないことを「普通じゃないよ!」という、まるで悪かのように罵る言葉で評価することによって傷付いた経験がある人も多いのではないでしょうか。
『普通』という一見安心できる檻の中に取り込まれ、また人を取り込もうとするのは悪い癖です。
ここで考えたいのは、多数派であることが良いことなのか、ということです。
あえて多数派を悪い言葉で言い換えるなら、『無個性』です。
みんなが白いシャツに白いスカートを着ていたら、服装という点での個性はありませんよね。
個性があることは面接でも評価されます。
ですが評価されない個性もあることは事実。
評価するかどうかを決めるのはまた、「普通かどうか」という尺度によるのかもしれません。
『普通に』事務作業などを行えるか、『普通に』結婚できるか、『普通に』日本語を話せるか……結局評価の基準を決めるにも『普通』の壁が立ちはだかるとは皮肉なことです。
私の幼馴染みの姉は自閉症です。
たしかに特別支援学校に通っていましたし、実際に会ったときもほぼ会話はできませんでした。
しかし彼女は絵がとても上手いのです。
それに対し私は絵が不得意です。
それでも、私より彼女が障害者である、つまり少数派であるから、私より彼女のほうが劣っていると判断するでしょうか。
本当は私は障害者という括りにも疑問を持ちます。
目が見えない、歩けない、知能の発達が遅い……たしかにこれらは病院で障害だと診断され、いわゆる特別学級に通ったりもします。
しかし、あえて例を出すならば、会話などはできてもまったく学校での勉強ができない、五体満足ではあるけれど走るのが遅い(私はとてもこれです)……これらは病院では障害だと診断されず、いわゆる普通学級に通うでしょう。
しかし後者も、ある種障害として見なせないでしょうか。
たしかに医学的な視点において障害は存在します。
医学的視点での障害者に対する支援も必要です。
しかし差別を受けるのは大半、医学的視点における前者の障害だけで、後者はただ不得意として認識される。私はこれに疑問を持つのです。
私は、皆が個性を持った人であり、逆に言えば皆が障害者だと考えられるのではないかと思っています。
同じく個性を持った人を、同じく障害を持つ人を、差別する権利は果たしてあるのでしょうか。
ただここで申し上げたいのは、多数派であることは悪いことではないということです。
多数派が良いこととは考えませんが、それによって多数派を悪く言うようになってはいけません。
最近の風潮が、「変わった意見をいう人は素晴らしい!」に変わっていっている部分があるように思えます。
もちろんそういう人がいるおかげで技術や思想が進歩していくことは多々あります。
しかし、多数派である人々がいるからこそ、世界は動いているのではないでしょうか。
皆が社長になって主張を展開するばかりではなく、『普通』と言われるような工場での部品組み立てや、事務作業をしている人がいるからこそ、私たちの生活に必要なものが安価に生産され続けている現実があることも忘れてはいけません。
多数派ではない人、多数派の人、そのどちらも私は否定したくありません。
つまり少数派の人を差別したり、異常なほど称賛したりはしたくないのです。
これを読んでくださった方、「普通じゃない!」と言う前にこのエッセイを思い出していただければ良いなと思います。
反対意見も含め、感想などありましたら書き込みくださいませ。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
こちらは拙作『私のレンズに写るものは』の34部において少し述べた意見です。
それをさらに踏み込んで考え、エッセイとして投稿した次第です。
もっと主張したいことがあった気がするのですが……また思い出したら書きます。