追想 3
ゆっくりと歩みを進めてこちらへ近づいてきた彼女は
僕の座る椅子を追い越し
祭壇の前に跪き手を組んで祈りを捧げた。
十字を切らないんだな~
とかぼんやり思ったが、牧師の言葉の
『キリスト教の大抵のイメージはカトリック』
と言う所から
僕が想像した動作も
カトリックのものなのだろうな
と自己完結させる。
随分長くその姿勢を崩さないように思えたが
実際は3~5分くらいの事だったろう。
カップ麺が出来る程度のインスタントな時間だ。
12年の歳月に比べれば、あっという間のことである。
口を開けない雰囲気に
口を開かない彼女に
多少悶々とする時間を過ごすことになったが
大人しく待つことにした。
精神的にも肉体的にもクールダウンさせなきゃだし。
今は背を向けられているため拝むことが叶わないが
マジであのおっぱいは凶悪だ。
無条件の全面降伏すら辞さない。
そう思わせるだけの攻撃力を持っている。
学校で僕の息子はあのおっぱいの正体に気付いて
反応をしてしまったという事なのだろうか。
確かに廊下でぶつかった時に当たったけど。
あくまで潰されたものだしなぁ。
いや、遠目で見ただけでも分かる
あの重量感とインパクトだ。
潰された状態だとしても
厚い布越しだとしても
当たれば反応してしまうのが
男の本能と言うものだ。
彼女が祈りを捧げる
一種の荘厳さを感じる雰囲気のおかげで
瞬時に落ち着きを取り戻してくれたが
あのまま完全起床されたらと思うと恐ろしい。
話し合いをする前に
『ちょっと一発ヌいてくるからトイレ貸して!』
なんて言えるはずもない。
どんな最低男だ、僕は。
しかもED気味のせいで自慰なんて
生まれてこのかた全然した事がない。
借りたよその家のトイレで
あぁでもない
こぅでもない
なんて息子と語らいなんてしたくないぞ。
どんな言葉をかければ良いだろう。
どんな事を言えば良いのだろう。
彼女が祈りを捧げている間、考える。
いや、息子にではなく。
彼女に対して。
思い出せたことは、割合としては多いと思う。
あの子と出会ってから別れるまで、約一年半。
その間、あの子と過ごせた時間はその半分にも満たない。
幼稚園児時代の思い出の中で
あの子がいる風景なんて
そう沢山はなかった。
印象に残りやすいイベントごとに
あの子が参加する事はほぼなかった。
運動会も遠足も
身体を動かす行事に彼女の姿はない。
忘れても仕方ない。
思い出したと胸を張って言えるほどの量もない。
…それでも、今の僕を形成するに足る
印象深く、濃密な時間だったと断言できる。
裏表があったり打算的な考えを持つようになっているが
女性を大切にしたいと思えるその考えや
女性を美しくしたいと思う願望を
僕の中に根付かせてくれたのは
あの子の身体の弱さと
お姫様になりたいという夢に他ならない。
……あぁそうだった。
先生の下着をひんむいた時も
たしなめてくれたのはあの子だったな。
『女の子に許可なく触るのも
ましてや下着を脱がせるなんて
そんな不道徳なこと誰彼構わずしちゃいけない』
ってお説教をされたっけ。
その言葉と、ここで交わした
最大限に重要な約束があったから
僕は暴走せずに、今日この日まで過ごせてきた。
記憶としては忘れていたとしても
その契りが僕の歯止めになってくれていたんだな。
そのおかげで
ご近所や家族の周囲の人間関係からも
好い息子・兄弟だと評判だし
学校生活もフィッティングの呼び出しこそ
時間に追われ大変ではあるのは事実だが
紳士的に対応できているため
頼ってもらい信頼を勝ち得る事が出来
結果、とても充実していると言える。
やりたいと思える事もなく
惰性による怠惰な時間をただ過ごし
暇だと言うのが口癖になるような
そんな生活とは無縁な日常を過ごせているのは
あの子が僕の根幹を作ってくれたからだ。
だからと言ってお礼を先に言うのも
何か違う。
それは、自己満足するための行為だ。
彼女が怒っていたのか
と問われればそうだと断言する事が出来ず微妙だが
悲しませたことは事実だし
自分の為の言葉よりも
感謝しているからこそ彼女の為の言葉を
何よりも先に述べたい。
その為にも、謝罪は必須だ。
かと言って、10数年ぶりに
互いをそうだと認知して交わす会話が謝罪から
と言うのもなんだか哀しい。
もっと気軽に
『元気だった?』
とかで良いのだろうか。
いや、彼女の病気の事や
保健室に残っていた記録の事を考慮に入れると
決して”元気”だとは言えない。
そんな配慮の無い言葉、言ってはいけない。
だからと言って今までどこで何をしていたのか
質問から始まるのもどうなのだろう。
『病院のベッドで過ごしていました』
なんて言われてしまっては空気が重くなりすぎて
会話を続けられる自信がない。
すっかり冷めてしまった湯呑に視線を落とすと
八の字眉の顔がコーヒーに写されている。
心の準備が出来ていないうちに
再び会話をする機会を与えられてしまったこともあり
なんとも情けない、水面に映し出された
今の僕。
あの子がかつて僕に望んだ
王子の姿とは程遠い見た目になってしまった。
そうだよ。
同じ幼稚園に通っていたのだから
近所に住んでいることを想定し
偶然ばったり逢う可能性と言うのを
考慮に入れておくべきだった。
こんな、ラフな格好ではなく
王子然とした盛装、とは言わなくても
清潔感のある小洒落た服だって
一応持っていなくはないのに。
失敗した。
「……そんな、あからさまに溜息を吐かなくても
良いんじゃないですか?」
自分の不甲斐なさに思わず出てしまった深いため息を
罰の意味のものと勘違いしてしまったのだろう。
いつの間にか祈ることを辞めた彼女が
刺々しい口調で言い放った。
う~ん。
頭では分かっているのだが
未だに、あの子と彼女が同一人物である
とイコールで繋げられずにいるな。
≒までは持っていけているのだけど。
ここまで敵意をむき出しにして来なくても
良いんじゃないか?
昔はあんなに朗らかな笑みを絶やさず
誰よりも愛らしかったというのに。
しかし、父親に言われたとしても
ここに自らの意志で残ったという事は
彼女も僕との対話を望んでいるという意味だ。
ちょっと、心狭くムッとなる事もあるかもしれないが
そこはなるべくスルーしよう。
そういえば
そもそも、僕は彼女の事を何と呼べば良いのだろうか。
かつては”さら”、”しすか”と名前で呼び合っていた。
しかし自分を忘却の彼方に追いやっていた人物に
突然名前で、しかも呼び捨てにされたら
流石にキモイと思われるのではないか?
馴れ馴れしいと怒るかもそれない。
だけど、苗字だと他人行儀すぎるし
『僕は貴女の事を覚えていません』
と言っているように聞こえてしまうのではないか?
少なくとも学校での出来事で
彼女は僕が自分の事を忘れているままだと
思っているだろう。
彼女は、僕が自分の事を忘れているからと
苗字に先輩を付けて呼んだが
敬ってと言うよりは嫌味を含んでいるようだった。
少なくとも、僕にはそう感じた。
やはり、苗字呼びは駄目だ。
……ダメだ。
彼女の事となると考えすぎてしまう傾向にあるらしい。
悶々と考えた所で意味はなさない。
他人行儀と言えば、丁寧語で話すのも
癖になってしまっている事ではあるが
他人行儀に聞こえるか。
どういう口調で話していたっけ…
意識してしゃべろうとすると空回りしそうだ。
「ごめんね。
君に対して吐いた訳じゃなくて
自分に対してのものだったんだ。
不快にさせてしまったのなら、謝罪するよ」
何と呼べばよいか解らず
”君”と言ったが、これこそ他人行儀な言い方だな……
どうすれば良いのか。
「えっと……
何から話せば良いかとか全然、考えていなくて。
本当、情けないんだけどさ。
どう君と接すれば良いのかが、判らないんだ」
彼女は僕の言葉に
ダランと無気力に下げた両腕の先に
ワナワナと震わせた握りこぶしを作りながら
ぶっきらぼうに
『そうですか』
とそっぽを向きながら答えた。
「うん、だから。
……まずは、
久しぶりに再会した婚約者を何て呼べば良いか
教えてくれないかな?」
僕の言葉に彼女は大きく目を見開き
こちらを向いてくれたかと思ったら
目が合った瞬間
バッと勢いよく俯いてしまった。
え、あれ?
外した??
あの子が、僕と交わした約束の中で
最大限に重要かつ
忘れられたら悲しいと感じるだろう事が
この教会で交わした
『大きくなったら、またここで二世の契りを』
と言う内容だと思ったから言ったんだけど…
……もし、この約束を彼女が覚えていなかったら
僕ってば不審者と言われても仕方ないような事を
堂々と言ったことになる。
え?
もしかしてキモイとか言われちゃう??
『勘違いすんな!この童貞野郎!!』
とか言われちゃう???
うん、想像しただけで死ねる。
「……覚えて、いたん、です、か?」
俯いたまま数秒後に彼女からかけられた言葉は
震えていた。
よく見ると、磨かれた年代を感じる床の一部が
上から落ちてくる雫によって
所々濃くなっているのが解る。
え!?
泣かせた!!?
ネガティブな想像をした時よりも
あからさまに気を動転させてしまい
慌てて立ち上がる。
その反動でコーヒーをこぼしてしまい
ズボンにかかるが
すでにぬるくなっているしそんな事は気にしない。
駆け寄ろうとするが
動揺しているはずの脳みそが警鐘を鳴らす。
『約束が果たされないまま
私に触れれば一生EDのまま』
と言う呪いの言葉。
…抱き寄せ、慰めることも叶わないのだろうか?
目の前で泣いているのに。
僕が泣かせてしまったと言うのに。
いや、呪いなんてある訳がないし。
だがしかし、万が一という事も有り得る
かもしれないかもしれないし??
あぁ、混乱していては
思考が余計に空回りする。
そもそも、昔は辛そうな時や泣いている時に
抱き寄せ慰める事を日常の様にやっていたが
今それをして良いものなのだろうか。
嫌悪感を抱かれないだろうか。
汚物を見るかのような目で見られたくなんてないぞ、僕は。
……あ。
今更だが一つ、
気づいたことがある。
いや、ようやく自覚した
と言った方が正しいか。
ハンカチをこういう時に限って
持ち歩いていないとは。
失態続きだな。
カットソーの袖をのばして人差し指にひっかけ
頬を流れているであろう涙をぬぐう。
ちゃんと洗っているし、汚くないよ。
安心してね。
俯いているから咲良の顔は僕には見えない。
目元に持って行って
指をブッ刺してしまってはいけないし。
頬を流れ続ける雫を
拭き取るだけにとどめておこう。
流れ出てくる元を抑える事が出来ない為
床に作られていく染みは、まだ、増えていく。
「正直に言うと、思い出したのは
本当、ついさっき。
あぁ、ここで昔、君と結婚を誓ったな…って。
……ずっと、忘れていて、ごめんね」
存外、素直に謝れた。
手紙が来なかったこととか
当時の僕も辛かったこととか
突然の呪い宣言で混乱したり
ツンケンした態度を取られて悲しかった事とか。
色々、主張したいことはある。
責めたいと考えていたことも、あった。
プライドが邪魔をして
謝ることすら出来ないかもしれないと懸念していた。
でもそんなことは、
咲良の涙の前ではどうでも良かった。
どうでも良いものとなった。
本当、女の涙とは恐ろしい。
男の意地やプライドなんて
簡単に無価値な物へと変貌させる。
「な…なん、で。
へんじ……くれなかった、ですか。」
泣きやませるつもりが
何故か先ほどよりも
勢いよく流れていく涙のせいで
僕の服の袖はみるみる重くなり
彼女の足元には点ではなく
かなり大きないびつな形のシミが広がっていた。
な、何が泣きの琴線に触れてしまったのだろうか。
僕から一歩離れ
自分の服で目元をぬぐいながら
しゃくりあげてしまい上手にならない言葉を
それでも必死に紡ぐ咲良。
一歩でも距離を置かれたことのショックもあるが
聞き逃せない言葉をきいたぞ。
そちらの方が、余程気になる。
……今、なんて言った?
『何故、返事をくれなかった?』
咲良は、そう言った??よな???
彼女はちゃんと、約束を守って
手紙を送ってくれていたのか?
なのに、何故か僕の手元にそれが届いていない??
住所や宛先人不明なら
その旨が記載され彼女の手元に出した手紙は戻るはず。
なのに、何故僕の元に届いていない???
辛い手術が終わって
子供心ながらに将来を約束した相手に
心を込めて手紙をしたためたのに
その返事が何日、何か月、何年と
いくら待っても来なかったら
再会した時に突っぱねた態度だって取りたくもなるだろう。
むしろ、激情に任せて
顔の形が変わるまで殴ったって
彼女を責める人はいない。
たぶん。
いや、そんな事するような子じゃないけど。
彼女が書いた手紙は、どこに行った?
彼女の気持ちが込められた、それは。
郵送会社ではあまりのブラックっぷりに
手紙を捨てたとか隠したとか
そういうニュースを見た事があるが
まさか、それか?
だとしたら運が悪すぎるし
今からでもその運送会社訴えてやろうか
と思わずにはいられない案件だ。
いや、そんなこと考えるには後で良い。
「僕の、所に…届いていないんだ、手紙。
だから、てっきり、君が死んだものだと……思っていて。
その現実と向き合いたくなくて
ずっと、君の事を忘れていたんだ。
ごめん」
なんか、謝ってばっかだな。
「なんか、謝ってばかりですね。」
思考と重なって言われた言葉に
場の空気を読まない表情筋が歪んだ。
思わず嬉しくて顔がにやけてしまった。
あぁ、もう。
どうしてくれようか。
恋愛と言うのは惚れた方の負けだと言うが
幼少期の頃のものもカウントして良いのなら
僕は、10年以上前から
とうにこの子に負けている。
勝てる見込みなんて微塵もない。
当時、本気で結婚したいと
一生一緒に居たいと思う程にこの子が好きだった。
幼かったせいもあり
この子が死んだという現実を
受け入れることが出来ずに全て忘れてしまう程に。
この子が教室に友人と共に来た時
スタイルに目がいったのは
そりゃ女性だから、僕にとっては当然の事だ。
だけどその後、なんとなくても顔の方まで視線が行ったのも
この子の事が気になりチラチラと事あるごとに盗み見たのも
嫌悪対象として見られたら想像だけで瀕死のダメージを食らったのも
何より
嫌われたくないと切望したのは
この子のために何が自分に出来るか考えたのは
なんてことはない。
一目見た時から、好きになっていたからなのだ。
自覚は無かった。
考えても、いまいちピンとはこなかった。
…まぁ、理屈で説明できない何かを
この子に再会した時から息子は感じていたようだが。
僕は、同じ人に二度も恋してしまったのだ。
しかも二回とも一目惚れ。
なんてこった。
女性は自分にふさわしい人物を
“嗅ぎ分ける”と言うが
僕は性的な本能が行方知れずになってしまった分
その対象を探し出す
特殊能力でも会得してしまっていたとでも言うのだろうか。
だとしたら、EDであることも
良くはないが
悪いことばかりでもないと思える。
好きになった惚れた相手が
女の最大限の武器である涙を流していて
しかもその上凶悪なおっぱいを付けていたら
そりゃあもう、勝てるはずがない。
闘う前から負け確定だ。
不幸な事故があったようだが
彼女は約束を守って手紙を出していた。
非が微塵もない。
ならば僕は彼女から罵られようと謗られようと
殴られようと蹴られようと
それを甘んじて受けよう。
そんな子じゃ無い事は
もちろん当然、解っている。
「贖罪の意味も込めて
何より愛している君のために。
咲良。
君が望むことを、僕は何でもするよ。
何をして欲しい?」
幼い頃、咲良に教わったように
王子が姫にするように
片膝をついて跪き告白をする。
それこそ、かつて約束したような
バラの花束も
誓いを立てる指輪もないけど。
それでも、
精一杯の誠意を込めて。
彼女の顔を隠している両手を
なるべくやさしく退ける。
……うん、まぁ。
万が一があるといけないし服越しではある。
だって直接触って本当に
呪い★発動!
とかあったら嫌じゃん!!
どうせヘタレですよ!!!
折角心ときめく相手
しかもそれが初恋の君で
その上相手も僕の事を好いてくれているように思える。
そんな
初恋人ゲットなるか!?
って状態なのに
生涯EDのまま終えろと言われたら
僕の方が泣きたくなる。
大声出して咽び泣いてやる。
露わになった咲良の顔は
涙と鼻水でくしゃくしゃになっていたのに
それを可愛いと、愛しいと感じるのは
恋愛フィルターを通して見ているからなのだろうか。
うん、それでも。
やっぱり、可愛い。
あぁ、もう。
なんだこの可愛い生き物は。
咲良は涙を流したせいで赤くなった目よりも
顔を赤く染めて暫し動揺を隠しきれないまま口を噤む。
手を振りほどかれないあたり
僕に触れられること自体は嫌ではないようだ。
うん、これがさ
僕に近づいたのはかつての恋心を傷つけた復讐で
『お前の事なんざこれっぽっちも想ってない!』
って流れになったらどうしようかと。
だって、あれだけ冷ややかな視線を向けてくるくらいだし。
さぞかし恨んでいたのだろうと思うと
そう言う可能性だって考えちゃうじゃん。
まぁ、僕が忘れた事に対してショックを受けて居た事や
折々に見せる態度や口調で
嫌われている訳ではないのは察する事が出来たけど。
ほら、万が一
億が一って事もなくはないだろうし。
でも、その微塵以下の可能性は
もう考えなくて良さそうだ。
「……………キスを。」
もじもじと、言いにくそうにしていた咲良は
突然僕の腕を持ち上げ立つように促し
ぽつりと、聞き逃しそうなほど小さな声でつぶやいた。
彼女もあの時の様に僕を好いてくれている。
その事実が、何よりも嬉しかった。
僕以上に傷ついただろうに。
僕以上に寂しい思いをしただろうに。
色々聞きたいことも
問いただしたいこともあるだろう。
なのに、咲良はそれはせず
口づけを要求してきた。
仲直りのため?
誓いを立てるため?
そんな理由はどうだっていい。
いや、蔑ろにするわけではない。
僕に主導権を渡し
そっと目を閉じて顔を上に向け
行為を待ってくれている咲良の
いわゆるキス顔は
そりゃあもう理性を飛ばしそうになるくらいに
魅力的なものだった。
しかし。
しかし、だ。
問題がある。
当然、僕は生まれてこのかた
キスというものをした事がない。
相手を妄想して抱き枕を相手に練習、とか
壁に好きな子の写真を貼って練習、とか
そう言ったことすら一切ない。
まぢで、ない。
え、初めてって皆どうしてるの?
鼻ぶつからない?
息止めた方が良い?
歯磨いてないけど大丈夫?
あ、歯磨きガムは食べたし平気か?
肩とか掴んで良いの?
もしくは腰とか引き寄せるべき?
あ、顎クイとか女子の憧れなんだっけ?
壁ドンは出来ないな。
壁と壁のちょうど真ん中の位置ですよ、ここ。
自分の心臓の音が響きすぎて耳が痛い。
受験の合否判定見に行った時よりも
警察署や裁判所に行った時よりも
何よりも緊張するし頭が真っ白になる。
目標をとらえ
自分の顔をゆっくりと彼女に近づける。
ミスを犯してはいけない。
着地点を見定め
互いの熱や
呼吸を感じられる距離まで、詰める。
触れるか
触れないか
あと、一歩
バヂィンッっ!!
……あと、本当
数ミリというところで
聞いたことのない
金属が裂ける音が響いたせいで
驚いた彼女は目を開き
僕は脱力し
結局、初キスは失敗に終わった。
……ズボンのジップが壊れるって
どんだけ僕の息子は暴れん棒なんだろう。