08 姿
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「見つけたわ!!」
リンジャが声を上げる。
核は少年の左耳の後ろにあった。何かに噛まれたような小さな痕だ。一見内出血のようにも見えるが、赤黒い結晶がトゲのように突き出ているのがわかった。埋め込まれた何かが少年を侵しているのだろう。
正直気持ち悪い。
とても不気味なものだと思った。
それと同時にふとした違和感もあった。
あんなに巨大な蛇にしては痕が小さい。どうやって少年に危害を加えたのかはわからないけど、とりあえず大蛇を討伐しなければ犠牲者が増える一方だ。かと言って、少年の核を取り除かないまま始末してしまうと、彼の意識がちゃんと戻らない可能性もある。
リンジャが赤黒い結晶を取り除く作業に入ると、大蛇が木の陰から飛び出してきた。
やはりそれが少年を操る核で間違いなさそうだ。
巨体がうねり、跳ね、ずるずると草木をペチャンコにした。狙いはリンジャ一目散――しかしルフェイが立ちはだかる。が、大蛇は彼の斬撃を受ける寸前でヌルリと避け男たちの間に飛び込んだ。大男が「ひぃ!」と尻餅をつく。なんて情けない声だ。大蛇の巨体が草むらに着地した。その尾で地面をえぐり、細身のガイへ向けて土や泥を投げ掛けた。
さすがに切羽詰まっているのだろう、もう姿を隠そうとはしない。
上体を起こし牙を剥き出しにし威嚇していた。
「ガイ、大丈夫かい」
「泥を食わされた。最悪の気分だ」
「すまないが、彼を護ってやってくれないか」
ガイは小さく舌打ちをしながら、まだ腰を抜かしている大男を睨みつけた。
その間にも大蛇は鋭く動きながらリンジャを狙う。ルフェイが双剣で攻撃を受け流し、余裕があれば大蛇の目や口などを突き狙っている。ミコトは彼の少し後ろで身構えているが、ただ睨みつけているだけにすぎない。何か加勢しようにも、彼の足手まといにしかならないだろう。
ルフェイの防衛があまりにも完璧すぎた。
すると突然、腰を抜かしている大男が痺れを切らしたように怒号を上げた。
「おい、まだ取れないのか?!」
「うっさいわね、急かさないで!!」
その声を切っ掛けに、大蛇も苛立ちが募ったのか金切り声を上げ襲い掛かってきた。
ルフェイが牙を弾く――が、大蛇はすかさず巨体を反転させ、尾を勢いよく打ち付けてきた。当然ルフェイも受けようと構える。しかし、大蛇の力にわずかに及ばず、のけぞりつつもなんとか双剣で受け止めていた。
「取れたわよ!!」
リンジャの腕の中には少年が眠っていた。
どうやら核を上手く取り除けたようだ。意識に障害がないかは彼が目覚めなければわからないがこれで一安心だ。ミコトも少し安堵する。よくやった! と、ルフェイは体を一瞬後退させ、大蛇の体重を横へ受け流し、そのまま巨体の腹部へ剣を突き刺した。鼓膜が破れそうなくらいの大蛇の奇声がその場に張り詰めた。
巨体は上体を仰け反らせ、ルフェイが突き入れた剣ごと胴体を一閃――したように見えた。
「なんだって?!」
血しぶきも何も飛んでこない。
視界いっぱいに広がったのは大蛇の大きな鱗の模様。そして砂ぼこり。生温かい異臭が鼻腔に入り込み、とても気持ち悪い気分になった。鼻が取れるものなら取り外して洗いたいものだ。
大蛇はどうなったのか。
死骸があるだろう場所を確認するが、そこにあったのは黒っぽくもやや透明がかった何か――抜け殻だった。
殺せていない。
――ハッと周りを見る。
一瞬で脱皮? そんなことありえるの? 全員が呆気にとられたような顔つきで辺りを見回していた。目に入るのは、人がスッポリ着こめるぐらいの抜け殻のみ。ルフェイがそれをめくり上げるとその下には大きな穴があった。
ここから逃げたのだ。しかも一瞬で。そんな馬鹿な。
「厄介だね」
「潜るんですね」
「アレはちょっと予想外かな」
もう唖然とするしかない。
地面に手を当ててみても蠢く振動などは感じ取れなかった。
ルフェイもお手上げといった感じに首を横に振った。
故郷でも――いや、街へ来る道中だって、魔物はただひたすら襲ってくるだけだった。大蛇は明らかに違う。人の子供を使って更なる獲物を呼び集め、巧みに翻弄する。きっと、こんな魔物は山ほどいるのだろう。狼を討伐したなどほんの些細な事だったのだ。やっていけるのだろうか。そんな弱気な気持ちが胸に宿りかけ、ダメだと頭を振った。
戦意喪失はもっとダメだ。自分にはここ以外に帰る場所などない。
「こちらから見つけようがない気もするが、このままアレを放置することはできないからね。とはいえ、街へ戻る時間も考えれば早急にでも仕留めておきたいんだけれど……、流石に夜は危険すぎる」
「この子を休ませたいんだけど、せめて馬車まで戻っても良いかしら?」
「……仕方ないね。あまり遠くへ行きたくないが、あれだけ傷を負わせればこちらをターゲットとして狙ってくるだろうし。ここで警戒を続けても状況は一緒だろう。ミコトは大丈夫かい?」
「大丈夫です」
「よし、なら後衛を頼めるかな。僕が先頭、ガイはすまないけど少年を頼めるかな。三人を挟む形で君が一番後ろ。ちょっとリスキーだけど、何かあったら呼び止めてくれて構わない。ただ、絶対に離れないように。もし負担が大きければ交代しよう」
「わかりました」
そうして、少し離れた位置にいたガイと大男も集まり始めたとき、またザワリとした嫌な雰囲気が辺りに満ちた。
全員がそれぞれに見回す。しかし見当たらない。でもきっと、大蛇から自分たちは丸見えなのだろう。どこから来てもおかしくはない。まさか地面の下から? は流石にない気がするけど。
最早どこからでも襲ってきそうだ。
こうも続くと精神的な疲労もつもり積もって最早ピークに達してきている。きっと皆もそうだろう。自然とため息が出てしまいそうになったとき、木陰に一瞬気配を感じた。まさか。横目で確認すると丁度、草木からあの大蛇が飛び出そうと大きくうねっていた。
あれは、来る。
「――危ないッ!!」
狙いは先ほどと同じリンジャと少年だ。
ミコトは飛び込んだ。反射的に。まだ間に合う。
飛び込む前、切羽詰まったルフェイの表情が目に入った気がする。それでも身体は勝手に動いた。これでよかったのか。本当に間に合うのか? そんなことは全然わからない。抜刀しようと柄に手をかけるが、この体勢だと刀を繰り出すのは無理だろうと察した。バランスが保てない。足場が悪すぎる。ズキリとまた痛んだ。腕の傷。上手く力が入らなかった。自分は何をやっているのだろうか。
勢い余って二人の前に転がり込み、膝をついて止まった。
「ミコト!!」
ルフェイの声がする。でも目が逸らせない。
大蛇の口があった。
そして牙があった。
間近で見るソレはとても大きくて凶悪で、まったく目を逸らせずにはいられなかった。
とても鋭利で立派だ。乳白色だが先端は黒ずんでいる。この牙に一体何人の命が犠牲となったのか。こんなものひと噛みで呆気なくやられる。上からの襲撃だったら大蛇は口を開けていれば簡単に飲み込めるだろうし。
目が離せない。
きっと自分は愚かだ。
こんな大蛇の前に出たらすぐに終わってしまうなんて誰でもわかる。でも動いてしまった。
喰われてしまう。死んでしまう。意外と呆気ないものだ――と思えた。しかしなかなかその瞬間は訪れない。ミコト自身もその違和感に気付き始める。なぜ? ルフェイも異変に気付いたのか、大蛇の背後から剣を振るった。
まともに斬撃を受けた大蛇はたうち暴れる。これでもかと、ガイと大男もそれぞれに振り下ろす。
「ミコト、こっち!!」
リンジャに手を引かれ距離を取る。
大蛇はよろめきながらも鋭い牙を繰り出した。それをガイがタイミングよく弾き飛ばし、ルフェイと大男が交代で応戦している。だんだんと血まみれになっていく巨体に「ざまぁ見ろ!!」と、大男が吐き捨てそのまま尾を切断した。
鮮血が辺りに舞う。
「――ぇ、何」
一瞬、大蛇の傍ら――頭上に何かが見えた気がした。
砂ぼこりだろうか。いや、違う。形があった。
ミコトは目を凝らした。すると確かに、呻き威嚇する大蛇に重なって小さな姿が見えた。しかしながらほとんどが黒い靄に包まれている。人の形に似た小さな何か。ハッキリとした容姿は確認できないが、おそらく魔物に取り憑いた聖霊だろうと気付く。そして聖霊は何処か迷っているような――困り果てているような様子だった。
(どういうこと……?)
乗っ取った聖霊が手にを得ない。と言った感じだろうか。もっとよく見ようと目を凝らしてみたものの、残念ながらすぐに靄は見えなくなってしまった。そして、それと同時に大蛇の勢いが増した。応戦していた三人が大蛇の巨体に薙ぎ払われ、吹っ飛ばされてしまう。
どういうことだろう。
聖霊が何かを訴えてきていることに間違いない――が、それを正しく感じ取り返答する自分にないことをよく知っている。だから聖霊士になれなかったのだから。だとしても、それが見えたということは? どうすればいい?
「ルフェイ!!」
戦闘は激しくなる一方、三人の応戦もギリギリに見えた。
彼らの身を案じたリンジャが傍で悲鳴を上げ、その声につられたのか、大蛇の煌々とした瞳が彼女に向けられる。ミコトも刀を構え直し睨みをきかせる。するとまたあの靄が見えた。大蛇の牙の前――今度はハッキリとわかった。細く尖った耳が特徴的な聖霊。相手もミコトが目視できることを悟ったのか、懇願するようなしぐさを表した。
「止めてって言っているの?」
「ぇ……ミコト?」
「聖霊が、何か言ってる」
「聖霊? 見えるの?!」
「あ。え、えぇ、ちょっと……」
リンジャには見えていないということは、聖霊で間違いないだろう。でもどうやって? 彼らと契約した聖霊士であれば、特別な力を借りて何らかの対処は可能かもしれないが、そうじゃない者がどうにかしようというのは不可能に近い。というか、思い当たらない。しかし聖霊が訴えているのだ。でも何を訴えているのか。たぶん餌食になれとかそういうことではないだろうけど。
状況的に考えてみれば――大蛇が暴走しているからこれを止めてほしい。と考えるのは人間と聖霊の共通の思考であってる? いや、そう思おう。だとして結果的に考えるのは、大蛇を鎮めるということ。魔物は生物に聖霊が憑りついたことによって生まれるもので、本体は屍に過ぎない――から、彼らを引き剥がす――の? でもどうやって。
ミコトは唸り声を上げた。
リンジャが心配そうに見つめてくる。彼女の腕の中にいる少年はまだ目覚める気配はない。
この状況を説明しても到底理解してもらえる事情ではない。もし聖霊の訴えをきくなら、自分だけでやり遂げるしかない。
――と、ついに傷ついた大蛇がついに倒れ込んだ。
巨体のあちこちからどす黒い血が噴き出ている。このまま切り捨ててしまえば、流石に大蛇は動かなくなってしまうだろう。そうなるとこの聖霊はどうなるのだろうか。彼らは元々カタチのないものだ。それが生き物に取り憑き存在できている。魔物と言う一つの生き物になってしまった彼らを斬ってしまえば――消滅してしまう。
「――待って!!」
止めを刺そうとしたルフェイが手をとめた。
「もうすぐ終わるからもう大丈夫だ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「どうかしたのかい? 辛いなら目を逸らしていると良いよ」
「そうじゃなくて……聖霊が、いるんです」
「――なんだって?」
「困ってるみたいな感じで……」
「見えるのかい?」
ルフェイは不思議そうな目をした。「こいつも憑かれたんじゃねぇか」と、大男がミコトに剣を突き付けようと動く――が、即座にガイが阻んだ。
「本当に聖霊がいるのかい?」
「はい」
「そうか。君は才能があるのかもしれないね」
「信じてくれるんですか?」
「もし君が憑かれたのなら、容赦なく殺せる覚悟はある。だからその分、僕は君を信用できる。今はね」
ルフェイの傍――すっかり動かなくなった大蛇に近づき、しゃがみ込む。
牙の前。ハッキリと見える。小さな聖霊に手を差し伸べた。けれども勿論、触れることはできない。助けることはできないのに手を差し伸べるということはどんなに酷いことなのだろうか。でも自然と手が出てしまった。こんな自分が情けない。ミコトはただ聖霊を見つめた。
「ごめんなさい、私じゃ助けられない」
この言葉もちゃんと聖霊に伝わるのだろうか。
差し伸べた手をじっと見つめる聖霊も、もう懇願した表情は浮かべていなかった。
自分を見れる人間がようやく現れた。救われる。そんな思いだっただろうか。聖霊が自ら魔物と離れることはできない。しかし生きる命の限りに憧れ、生物に憑りつくのだと言われている。この聖霊もそうだったのだろうか。ただ器は生の飢餓に苦しみ、本能のままに様々なものを喰い続ける。それを断ち切る術をミコトは知らない。
ふと、聖霊と目が合った。
そうして微笑みを見せたあと、小さな手がミコトの指に触れた――瞬間、目と鼻の先で眩しい光が弾け飛ぶ。
「――っ」
けたたましい魔物の鳴き声がビリビリと鼓膜を突いた。まるで傍で落雷が落ちたかのようだ。そして同時に、何かミコトの身体に覆いかぶさる。重いけれど木じゃない。大蛇でもない。布がこすれる音がする。恐る恐る目を開けると金髪が見えた。
「ミコト、大丈夫かい?!」
ルフェイだ。庇われながら周囲を確認するが、魔物はどこかに消え去ってしまっていた。
当然聖霊の姿はない。
「一体何が……」
「さぁ、僕にもわからない。君が大蛇の口に手を差し伸べていて、それを見ていたら突然光が……。咄嗟に君を庇ったんだけど、残念ながら魔物は逃げてしまったようだね」
「すみません」
「まぁ、あの状態だと流石に時間の問題だろう。でも、君が無事でよかった。立てるかい?」
ルフェイが立ち上がり、手を差し伸べてくれた。
「ぁ、り――……」
あれ?
ミコトは喉を抑えた。ありがとう。そう言おうとした。けれども声が出ていない。というか、出てこない。いや、どうやって発するのだろうか。音の出し方がわからなくなった。空気を、息を吐くだけだ。それはできる。そうすればでるんじゃないか? もう一度やってみてもできなかった。
話せない。
なぜ?
「声、出ないの?」
少年を抱えたまま、リンジャが茫然と言った。
自分でもまだ把握できなくて、何も返答することはできなかった。「嬢ちゃん大丈夫か?」ガイも不器用な気遣いを送ってくれる。
「ミコト、動けるかい?」
ルフェイが顔を覗き込んだ。瞳は真剣だ。
ミコトは困惑しながらも頷いて答えると「よし」と彼が相槌を打った。
「あの魔物は死んだわけじゃない。とりあえずは馬車に乗って下山するまで気を抜かないで」
少年を大男が担ぎ、自由になったリンジャが傍によって気遣ってくれる。
辺りを警戒しながら馬車まで戻り、ガイとルフェイが騎手を担った。
荷台で揺られながらぼんやりと考え込む。休めば声も戻るだろうか。そして、次にあの聖霊の懇願する表情が思い浮かんだ。何をすれば正解だったのだろうか。故郷でも聖霊士になるため契約を結ぶ儀式で失敗した後、いつもそんなことを考えていた。誰も答えなど教えてくれない。ヒントもなし。
ため息だけが漏れる。
きっと、そうじゃない。
正解や答え、ヒント。そんなことを追求するような者に資格はないのだろう。
いつの間にか視界が霞み始め、ミコトはそのまま意識を手放した。
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