2.ディオンにまつわる全て
ディオンがディオンでなかった時、孤児院にいた頃は名前はなく、番号で呼ばれていた。
それは決して差別されて虐げられていたわけではなく、孤児院にはたくさんの子供がいて名前を付けるのが大変だからと当時の院長が区別できるようにと預けられた順に番号という名前を与えられていた。
院長の為に弁明しておくならば、彼はたいそうずぼらで、人の名前はおろか自分の名前すら時々忘れているので本名で呼んでも反応しないということが常だった。
この名前がいい、名前が欲しいという子供には修道女たちが名前をつけてくれて呼んでくれたが、院長は相変わらず番号で子供たちを呼んでいた。そのことを最初は嫌がる子供はいたが、院長は平等に優しく時に厳しく、大人になっても1人で生きていけるように教育をしてくれて、1個人として尊重してくれるので、院長だけは仕方ないと誰もが院長を尊敬して懐いていた。
6番。廃れていた教会を新しく建て直して2ヶ月前に出来た孤児院の前に生まれて数ヶ月の赤ちゃんは捨てられ、日課である早朝の散歩をしようとしていた院長によって見つけられて名付けられた。
彼が自我を持った時から6番と呼ばれていたから、きちんとした名前を普通は付けられていると知っても欲しいとは思わなかった。今さら違う名前で呼ばれてもピンとこないし、そもそも名前に興味がなかったのかもしれない。区別できるものであればいいと、彼は当時思っていた。
孤児の中には貴族の血を持つ子供もいたので、その子供たちは1日に必ず魔力についての勉強をしていた。6番もその中に含まれており、時々身体を駆け巡るような感覚は魔力なのだと知っていた。
けれど、自分がどの魔力を持つのかまでは知らなかった。知らされなかった。当時の勉強は全ての魔力に対して共通する知識だけで、持っている魔力の種類に分かれて勉強するのはもう少し大きくなってからだと言われていたからだ。
ただ大きくなるにつれて、周りの子供はどの魔法を使えるのかなんとなくわかっているのに6番はわからなかった。院長に聞いても、曖昧に笑って誤魔化すだけだった。
次第に大きくなっていく力と誰かを傷つけたいと願う心を抑えておくことに限界を感じていた。
『君の人生だから是非君自身に決めてほしいとは思っているんだけどね。申し訳ないけれど、君は闇の力が強すぎる』
7歳の時、院長に呼ばれて6番が応接室に入ると貴族の身なりをした男性が院長と共にいた。
その男性は6番の魔力について詳しく話し、彼が疑問に思ったことにもわかりやすく答えた。自分が国中でも強大な闇の魔力を持っていること、この魔力を自分で支配できるようにしなければやがて闇に囚われて自我が崩壊し厄災を招く可能性があること、国として見過ごすことはできないこと、もし生きたいならば相当の訓練をして必ず支配できるようにすること、その選択をするならば相応の見返りは確約すること、あるいは国の災いとなる前に殺されるか、選択をすること。
生きたいと思ったから、その男性の、ラーナクラス子爵の手を取った。
その時に、6番はディオン・ラーナクラスという名前が自分の物になった。
孤児院を離れ、まず最初に連れて行かれた場所はラーナクラス子爵が一応の家としている所だった。
そこまでの馬車の中で、王家の影について説明された。王族のためだけに動く影の存在。影は裏で動く存在から表の方で大きく動く存在までいて、国中に散らばって王家に反意を翻す存在がいないか他国からの侵入者がいないかなどを見張っている。影は影であり、ディオン・ラーナクラスという名前を与えられても個人の感情は要らないのだと言われた。また、影の中には闇の魔力を持っている者が半数はいるのだとも聞いた。
次にラーナクラス家について説明された。2、3代前の影が騎士団で幅広く情報収集するために立てられた家で、表向きにはとある侯爵家の三男が度重なる悪評のために落とされたのだとか。色んな女性と浮き名を流し、養子も沢山取ったらしい。実はその養子も表の立場で情報収集する為の影であることも教えられた。
現在のラーナクラス家はラーナクラス子爵だけで、その嫡子としてディオンは引き取られた。母親はディオンを身籠って暫く実家で静養していたがディオンが産まれて身体が悪化し、3年前に他界。ディオンは母親を失ったことにショックを受けて暫く静養していたが父親に引き取られることになった、という設定を覚え込んだ。ラーナクラス家には一応形として執事と使用人が二人いるがこの3人も実際はどの立場の存在なのかはわからない。
屋敷の中を案内され、ディオンの部屋だと連れて行かれた部屋は孤児院での四人一部屋よりも広く、家具の真新しい匂いに満ちていた。バルコニーに出ると下の中庭が一望できた。
ふと視線を上げると真向かいにある隣の家の部屋の窓に誰かが見えた。淡い栗色の長い髪の女の子がディオンをじっと見ており、ディオンはその視線を正面から受け止めたが彼女は目をぱちぱちさせるだけで目を逸らさなかった。
ディオンの異変に気付いたラーナクラス子爵が隣に行って視線の先を辿る。そこで、彼女は隣家のハーティバル子爵家の同い年の娘で名前をテレジアと言うのだと彼女に手を振りながらディオンに説明した。人の良さそうな笑みを浮かべたラーナクラス子爵に、ふわふわしていそうな女の子はにこにこ笑いながら手を振り返していた。
ただ、次に向かった場所は影候補たちの訓練場であり、ディオンは強力な闇の魔力を持っていることもあって通常の厳しい訓練以上に地獄のような訓練を毎日寝る暇もなく課された。傷を作ることは当たり前で、時には骨折や抉るような傷を追うことも当たり前になっており、最早寝るのではなく気絶していた。魔法を使えるようになると、どこまでならば無事に扱えるのかという実験も始まってディオンの日々はいっそ死んだほうが良かったのではと思うほどに目まぐるしかった。
そんな日々だったからか、ディオンはすぐにテレジアのことを忘れていた。
ディオンが目を覚ますのは決まってラーナクラス子爵家のディオンの部屋か訓練場の医務室であり、与えられる食事の味すらわからなくなり、次第に眠れる時間が取れるようになっても気絶する以外に眠れることができなくなっていた。
その時のディオンの感情を表すとするならば、無だ。初めの頃は死んだほうが良かったとかどうして自分がと思うこともあったが、元が物にも感情も粘着する性質ではないために諦めを受け入れて感情を無くして日々を淡々とこなすようになった。
そんなある日の呪いの魔法の実習において、ディオンは対峙していた光の魔法使いを魔法使いとして使い物にならなくした。
その時の出来事をディオンは詳細に覚えていないが、その魔法使いは基本的には光の魔力を持っていたがこれまでの歴史の中で水や風と混ざっていた一族だった。しかし本人は光の魔力を持っていることを誇りに思っていたらしい。どんな過程だったのか覚えていないが、ディオンがかけた呪いがその男を対象にしてしまい、他の光の魔法使いが駆けつけた時には対象とその子孫を末代まで祟る呪いは男の身体を支配していて解くことは出来なかった。
ディオンが覚えていたのは、燃え上がるような怒りだけだった。
その後、ディオンは屋敷から一歩も出るな、魔法を決して使わないようにと厳命され、監視されるように数日を部屋の中で過ごした。テレジアのことは頭の中から一切を忘れていたのでバルコニーに出ることもなかった。
婚約者と会うと告げられてもディオンは特に何も思わなかった。強いて言うなら、ディオン・ラーナクラスとして必要な存在なのだろうと理解したことだろうか。
テレジア・ハーティバル。
いつか聞いたことのあるような名前だとディオンは思った。
ハーティバル家は子爵家ながらに代々純粋な光の魔力を受け継ぐ一族で、下級貴族の中では唯一の純粋な血の一族だった。子供はテレジア1人だけで、どの魔力の者でも構わないから婿に来てもらいたいと子爵夫妻は思っているそうだ。
ただそれは理由にもならない理由で、真実はディオンとの婚約関係を光の魔力を持っている家が承諾を渋ったからだ。ただでさえ少なくなってきた純粋な血を持つ一族に闇の魔力を混ぜるなど考えられるはずもなく、万が一暴走した際のストッパーになるための結婚なんて生け贄のようなものだと上級貴族は揃って拒絶した。
そうしてハーティバル子爵家に白羽の矢が立ったのだ。
ハーティバル子爵夫妻も娘が危険との間にこれから立ってしまうことに不安を覚えないことはなかったが、愛国精神が高いこと、暴走を抑えられないことは無いとしてこの縁談を結ぶことに承諾した。
テレジアと会う前に、婚約指輪に嵌める魔石をディオンは作った。ディオンの魔石は闇の魔力を表す黒と使うことの多かった水の魔力である深い青色の魔石だった。
お昼過ぎに隣のハーティバル家にラーナクラス子爵と行くと、出迎えた執事は表面上は歓迎しながらもどこか不満そうな目で時々ディオンを見ていた。騎士団の中では取り繕っていたディオンもここ最近の軟禁生活からか、苛立ちを隠せずに案内された応接室に入った。
テレジアと会って一度顔を見たことがあると思い出したが、ただそれだけで、二人にされてもディオンは義務で結婚する可哀想な婚約者と仲を深める必要はないと思っていたから自分から話すこともせず、テレジアもディオンの様子を興味深げに見ているだけで気まずい様子も話しかけるようなこともなかった。
その無言の空間に慌てていたのは壁際にいた侍女だけだったが、ディオンにとっては久しぶりに焦りから解放されるような張り詰めていた糸が緩くなるような感覚を覚え、前日も眠れていなかったディオンは気を抜いたら襲ってくる眠気を吹き飛ばそうとしていた。
その内、ハーティバル子爵夫妻とラーナクラス子爵の前でディオンとテレジアは婚約指輪をお互いの指に嵌めた。その時に初めて声をかけられたディオンは思わずびくっと身体を震わせてしまい、動揺を隠すことができなかった。
ディオンはただ魔力が籠った魔石を作っただけだったが、テレジアの魔石からは魔法をかけられた痕が感じられた。家に帰ってすぐにラーナクラス子爵から、その魔石にはテレジアの治癒魔法がかかっているのだと教えられた。
テレジアとはそれからも年に1回は顔を合わせるようになったが、相変わらずテレジアと何かしらの話をすることはなかった。
騎士団での仕事や影での危険な仕事をこなす中で怪我をしても治癒魔法のおかげで軽傷や頭痛、目眩はすぐに治った。さすがに酷い傷は完全には治らなかったが、それでもすぐに血が止まってくれるだけでも有り難かった。
それはある日の、隣国に行く王太子の護衛をした時の出来事だった。
騎士団としての仕事、その実は王太子が受ける傷を自分に受けるようにする闇魔法をかけて影として随行していたディオン。
本国に帰る途中で王太子は襲撃された。
敵は今回行った国とは異なる隣国で、数年前から度々戦争を仕掛けられていた。内密に行動していた為に最低限の人数だったことを知られたのか、予想以上の敵の人数に対応が遅くなって王太子に剣が向かってしまった。
その傷をディオンは代わりに受けた。容赦なく腹を貫通させた敵は駆けつけた影たちによってすぐに片付けられ、生き残った者たちは影と共にやってきた国で唯一転移魔法を使える最古の魔法使いによって王宮に転移させられた。ディオンの意識はそこで途切れているが、いつものようにテレジアの魔力が身体中を駆け巡る感覚だけは感じていた。
目が覚めると王宮の医務室のベッドに横になっていて、側にはハーティバル子爵と何故か王太子が立っていた。ハーティバル子爵はディオンが無事で良かったこと、ラーナクラス子爵は仕事でいないが随分と心配していたことを伝えて最後にテレジアの魔法のおかげで間一髪であったことも教えられた。それからテレジアも心配していて会うたびに様子を聞いてくるということも。
王太子は何が本人の琴線に触れたのか、ディオンを王太子専属の影にするのだと言われて完全に回復してからすぐにディオンは本当に王太子の、セオドールの専属の影になった。
今までも時々セオドールに影としてついていたことがあり、王太子と言えども正体を知らないはずだが、騎士団員としてついていた時も視線を感じることはあった。
セオドールは何が面白いのか、ディオンを目の前に呼び出してセオドールに付いているルーベンスと一緒に話をしてくる。ディオンの婚約者であってルーベンスと幼なじみであるテレジアのことも何かにつけてはどんな仲なのかちゃんと連絡は取っているのかと聞いてくる。また、無断で王宮を抜け出して出掛けることも多く、ディオンは面倒な人間に目を付けられたなと思っていた。
翌年のテレジアと会う日は、危うく予定を入れられそうになり、絶対にテレジアと会わなければいけないと思っていたディオンは内心冷や汗をかいたものだ。
いつものように年に1回の顔合わせだったが、怪我をしてこの1年での生活が変化したディオンはとても久しぶりのように感じていた。
普段は何も話すことなく中庭で過ごしていた二人だったが、今回はテレジアが珍しくディオンに話しかけて婚約指輪を外した。そして彼女は魔法をかけた。ルーベンスと話す中で光魔法について知識を増やしていたディオンは、テレジアがかけた魔法が前の治癒魔法よりも強力なものであることをなんとなく悟った。
ディオンは自分が周りから忌避される存在であることを知っている。ラーナクラス子爵やセオドール、ルーベンス、ハーティバル子爵とテレジアが周りとは違う意識で対応していることも知っている。
ディオンがテレジアと婚約するにあたって命令されたことは『もし生きていればテレジア・ハーティバルと結婚をして子供を残すこと。その子供がディオン・ラーナクラス以上の闇の魔力を受け継ぎ、暴走させるようであれば速やかに処分すること』だ。
ディオンが死ねば、彼女は別の婚約者を宛がわれるだろう。彼女がこの婚約についてどう思っているのかは知らないが、通常ならば彼女としても結婚して闇の魔力を持った子供なんて産みたくないだろう。だったら、ディオンに死んでほしいと思わないのか。何故、生かすような魔法をわざわざかけているのか。
ディオンにはテレジアが何を考えているのかさっぱりわからなかった。
セオドールにからかわれながらルーベンスに心配されながら、ディオンは自分でも気付かない間にこの2人との距離を縮めていった。ディオンなりにではあるが。
1年後、ディオンはテレジアと結婚した。神前で宣誓するだけの簡素なもので、本来ならラーナクラス子爵とハーティバル子爵夫妻だけのものを変装した王太子と侯爵家の息子がいた。
婚礼衣装を着たテレジアを見たディオンはこれまでの人生で初めて、綺麗だな、と思った。白いドレスにオレンジ色の刺繍でラナンキュラスの花が縫われている。どこから見つけてきたのか、黒と青が混ざった小ぶりな石がイヤリングに使われていた。レースのベールに隠されるように伏せられていた金色の瞳がディオンを捉えて、あの時と、テレジアと初めて会った時と同じ心がざわつくような笑みを浮かべた。
この日の為に作られた結婚指輪に嵌める魔石は、どちらも婚約指輪のものよりも輝きを増していた。
初夜の時に言われた言葉には驚いたが、ハーティバル子爵家には必ず子供を作るように言われていたのだろう。テレジアがそれを望むのならばディオンは拒む必要は無いと思ったし、出来る限り叶えようとも思った。
久しぶりにゆっくりと眠ることが出来て目覚めた時には眼前にテレジアの気の抜けた顔があった。頬を軽くつねると目が閉じられたまま眉が顰められて不満げな表情をしていても眠っている。それを見て口角が上がって一瞬笑ったことにディオン自身気付かなかった。
それから1年後に、テレジアは子供を産んだ。テレジアが望んだ通り、1度の出産で双子が産まれて2人の子供が出来た。
ディオンはすぐに帰ることが出来なかったが、テレジアからの手紙では男女の双子でアレクシスとアレクシアと名付けて、それぞれどんな外見で魔力はどんな風に受け継いだのかなど詳しく書かれていた。ラーナクラス子爵家では使用人も足りず、双子をいきなり育てることは不安で隣の家なのでハーティバル子爵家に暫くいるということ、父親のことはよく言って聞かすが時々は子供に会って顔を覚えさせてほしいことも。
その手紙は、ディオンが彼女から貰った唯一の手紙だった。
初めて双子に会いに行った時はテレジアが双子をあやしていて、彼女と会うことも妊娠してから帰れていなかったディオンにとっては久しぶりだった。とても小さくてか弱い存在に戸惑うディオンに丁寧に渡しながら、彼の妻は手紙に書いてあったことをもう一度説明した。その時テレジアから微弱ながらに今までと違う雰囲気を感じたがディオンはそれが何なのかわからず、出産を経験したからだろうと考えた。
ディオンは王太子のセオドールに合わせて仕事は更に忙しくなっていたが、テレジアが望んだ通りに時間を見つけては双子に会いに行った。
どんな時間でもハーティバル家の執事はディオンを迎えて双子のいる部屋へと案内してくれた。双子が起きている時は共に遊び、真夜中に眠っている時は少しの間寝顔を見て仕事に戻った。
アレクシスとアレクシアは本当に聞き分けの良い子で、ただでさえ大人しい孤児院の子供たちよりも大人しく、我が儘も言わず、父親が来たことを知ると丁寧に挨拶をして会えていなかった時間のことを話してくれる。時折、双子は言葉を発することなく会話をしているようだが、執事からはディオンの前では普段以上に話していることを聞いて気を遣われているなと内心苦笑した。
国王からの命令でアレクシスを影として育てることになった時は、テレジアからの手紙を読み返していた。
『貴方の仕事は理解しています。父親である貴方のことは、仕事のことに関しても、アレクシスとアレクシアにはよく説明して理解させておきます。先程書いた通り、アレクシスの方が貴方にとって必要な存在となるでしょう。その時まで、アレクシスには必要な知識をよく勉強させておきます。必要だと思われた際に、どうぞアレクシスをお連れ下さい。』
テレジアが思っていた通りに、ディオンはアレクシスを影として育て始めた。
アレクシスはディオンが予測していた以上に筋のいい子で、手紙通りに必要な知識を持っていて魔力の扱い方や簡単な魔法も既に教わっていた。
アレクシアは影としての教育をするつもりはなかったが、アレクシス同様に長時間お互いが離れていることを嫌がったので訓練場に連れていくこともあった。アレクシアは端の方で大人しく待っていることもあったが、他の影たちに構われていることもあり、覚える必要のない身のこなしをいつの間にか覚えていた。
双子の右手の小指には指輪が嵌められていた。その指輪にはディオンがネックレスにして持っている結婚指輪に嵌めてある魔石と同じ色をした石が嵌められており、双子はそれを母親から貰ったのだと言った。どんな時でもそれを外してはいけません、邪魔であればネックレスにして必ず持っていなさい、と。
双子と会う中でテレジアと文字通りに顔を合わせるだけは時々あった。それでもディオンは年に1回は必ずテレジアと会うためだけに時間を作った。彼女は双子よりも言葉数が少なく、婚約者時代から彼女自身のことについて語ることはほぼ無かった。
国王になったセオドールは前以上に忙しくなり、硬直していた隣国との仲を友好的に戻そうと、セオドールは狙われた過去を水に流して不可侵条約を結ぼうと奔走していた。
隣国も同時期に世代交代しており、新たに国王となった青年は亡くなった前国王の若い息子で、セオドールに寄せられた親書からは前国王がしたことを謝罪してこれからはお互いの国にとってより良い関係を築きたいと誠意が伝わるような言葉遣いだった。嘘か真か、新国王の直筆だとも。今はまだ国王としての力は弱く、臣下の中には完全に従え切れていない者もいるが必ず内政を安定させるのでどうか力を貸してほしい、と。
隣国の事情を探ると確かに真実のようで、前国王の時代からの腹心である宰相一派を中心に領土拡大派と新国王を中心とした親善派が対立し合っていた。親善派は前からいたが、前国王が領土拡大派だったので大きく動くことが出来なかったのだ。
セオドールも戦争は多大な犠牲を出すために消極的だった。だから、新国王の言葉を信じ、領土拡大派の動きを見ながら親善派を援助していた。隣国の宰相は中々のやり手であり、前国王時代からの当主たちが次々と次代に交代していく中でも勢いは多少衰える程度で影響はほぼ無いに等しかった。まだ若く未熟者で国を動かすということを理解していないと新国王を馬鹿にする言動も多く、宰相という地位に就いていることから新国王の発言や案を無視することもあった。
しかし、それらに何の対応も出来ずに終わる若き国王でもなかった。宰相が今まで馬鹿にしてきた貴族や相手にしなかった貴族を徐々に説得し、宰相には悟られないように表面上は今までと同じような態度を取りながら宰相と繋がる裏の存在を探っていた。
宰相は国庫を勝手に使ったり、領地経営などでも不正をするような人物ではなかった。
隣国とこの国は小さな国ではないが決して大きな国でもなく、大国から侵略されようものなら同盟国に援助を求めることもあり、元は同盟を結んでいた。しかし、いつからか隣国はこの国を自分たちの国の一部にして領土を広げ、文化や法を一緒にして管理しやすくしようとした。同じ国にしてしまえば、わざわざ援助をその度に申し出て返事を待つことも同盟を反故にするのではという不安も無くなるからだ。
勿論、メリットだけでなくデメリットもあるが、メリットの方が大きいと考えたのだろう。その考えを宰相は先代から引き継いでいた。ディオンが16歳の時にセオドールを襲撃した黒幕も、別の国の人間と見せかけて隣国の前国王と宰相である。決定打にかけるものがあり、襲撃されたことを隠すだけで何も言うことはできなかったが。
宰相の跡継ぎの息子は中立派だが、年老いていく父親が年々強硬手段を取ろうとする姿勢に眉を顰めており、何かきっかけさえあれば親善派に傾くだろうと言われていた。
宰相を隠居させることが出来れば領土拡大派は大人しくなり、新国王も動きやすくなる。
あと少し、と思っていた時だった。
突然隣国から国王の親書を持ってきたという使節がやってきた。そのような先触れはなかったが、急ぎだと言って確かに国璽が捺された親書を持っていたので謁見の間に通さなければいけなかった。
隣国に遣わしている影からは王宮に変化なしとこの前知らせが来たばかりで、セオドールも不審に思ったが会わないという選択が出来るわけもなく、ディオンとルーベンスを連れて謁見の間に向かった。
ディオンは最初から使節と共にいたフードを目深に被った魔法使いを警戒していた。セオドールに仕えるようになった頃から、あの時と同じ、セオドールが受ける傷を代わりに負う闇魔法をかけてある。剣を使われたならばそれで守ることが出来る。
しかし、魔法を使われたら、ディオンは光魔法は使えないので身を挺して守るほかない。闇魔法では人を守るような魔法を使えないからだ。ルーベンスがいるが、向こうの魔法使いがどの程度の魔力を持っているかまではわからない。ルーベンスの守護魔法よりも強い魔法を繰り出されたら押しきられてしまう。
ディオンは魔法使いの一挙一動に目を凝らしていた。
すると視界の端でルーベンスが焦った顔をしてセオドールを見る。しかしセオドールは使節から渡された親書に目を通していて気付かず、ディオンに目配せをしてルーベンスは席を外してしまった。
その時だった。
魔法使いが突如立ち上がり、一瞬で肌がぞわっと身震いする程の強力な闇魔法が繰り出された。
ディオンは考える間もなく、セオドールを突き飛ばす。
死ぬかもしれない。
それがディオンが最後に思ったことだった。
テレジアの魔石が嵌められた、魔法がかけられているだろう結婚指輪をディオンは外したことがない。仕事上、指にしておくと邪魔なので絶対に外れないようにしてネックレスにして服に隠して肌身離さず持っている。
しかし、1度だけ外したことがある。
あれはテレジアと結婚して3年くらい経った頃だろうか。
『ディオンから光魔法を感じるんだけど、テレジアが何か魔法をかけたのか?』
ルーベンスの言葉によってその場にいたセオドールは面白がり、渋るディオンに命令だと言って首からネックレスを出させた。
セオドールはあの事件の時にどうしてディオンが一命を取り止めたのか理由を知っていて、今回もその魔石にテレジアが治癒魔法がかけられているのだろうと言った。
テレジアから直接説明を受けたことがないディオンもそう思っていた。実際に婚約していた時と同じように、ディオンの傷はすぐ治っていたのだ。毒を含んだ時も常人とは比べようもならない速さで治る。この結婚指輪の魔石にも、同じような、若しくは少し強い治癒魔法がかけられているのではないか。
愛されているなとからかうセオドールに対して、ルーベンスは難しい表情をして魔石に少し触れた。
『テレジアってこんなに魔力あったか・・・?』
テレジアの父親であるハーティバル子爵は普通の魔力量だが彼女の魔力量はそれよりも少し少ない。それでも、今の時代に純粋な光魔法の一族はとても珍しい。
ハーティバル家は純血主義というわけではないが、王族に婚約者を決められるようになるまでは基本的には恋愛結婚が多かった。相手もたまたま純血だった。今もそうであるのは、過去を鑑みた王族が残そうと決めて婚約者を選んでいるからだ。
そんなテレジア・ハーティバルの婚約者にディオン・ラーナクラスを決められたことは、やはり犠牲者という表現が正しいのだ。
上級貴族たちはディオンという厄介者を貰い受けるわけもなく、それでもディオンの持つ強大な魔力を残したいという思いはあり、しかしこのままでは暴走してしまう可能性がある。最悪の場合には死に至る可能性も少なくない。
『ハーティバル子爵家は王家への忠誠心が厚い。それに人道的な人間だ。君の正体は勿論知らされているが、だからと言って最初から無下に扱われることはないだろう。』
そんなことを聞いても、普通ならばそんな危険な存在を歓迎するはずはない。
実際にハーティバル家の執事たちはいつもどこか緊張感を持ってディオンに接している。そのうえディオンはテレジアの前で取り繕うことを最初から出来なかったのでその次からも出来るわけがなく、婚約者なら贈り物や手紙などを送らなければいけないのにそんなこともせず、年に1回の逢瀬でも気の利いた会話も出来ず。
ルーベンスが調べられる限りでも治癒魔法、状態異常の回復、防御魔法、傷を受けにくくする魔法までもかかってあった。
さすがのディオンでも唖然とした。
どれもが最高なものではないにしろ、1つの魔石に籠めるには十分な魔法で、テレジアが使うにはきっと魔力量が足りない魔法なのだろう。ルーベンスは興味深げにそれを眺めていたが、一つ一つを時間をかけていればかけられないこともないということでディオンはまたまたセオドールに愛されているな、とからかわれるだけで終わった。
数日後、真夜中に双子の顔を見にハーティバル家に行った。双子はいつもテレジアの続き部屋で寝ている。すやすやと眠る双子を眺めて、ディオンはいつの間にかテレジアの部屋へと繋がる扉を開けていた。
寝台にゆっくりと腰かけて、眠っているテレジアの寝顔を同じように眺める。指先がゆっくりと伸びていって彼女の柔らかな頬を何度か撫でた。頬がぴくっと動き、ゆっくりと指を離すと、眠っていたはずのテレジアが眠そうに薄く目を開けてディオンを見つめていた。認識しているかはわからないが。
ゆっくりと上半身を倒しながら、唇を重ねる。今まで何度か口付けた時と同じようにテレジアの唇はこのまま溶けてしまうのではないかと思うほどにふわふわしていた。
それまでさざ波のように揺らいでいた心が、いつかの焦燥にも似たものが途端に凪いでゆく。
今にも閉じそうだった瞼が完全に閉じて安定的な寝息になったことを確認し、もう一度だけ頬を撫でてから寝室を出た。
テレジアと結婚して彼女が自分の妻なのだと、指輪に触れながらディオンは初めて実感した。
ふと目を開けると、映る光景に驚いて思わず後ずさる。そして自分の身体に起こった異変に気付いた。
小さくなっている手、軽い身体、目の前にいる妻が大きく見えること。それらを鑑みれば、自分の身体が小さくなっていることに気付かないはずがない。
ネックレスに手をかけて、指輪があることに安堵し、今まで金色に輝いていたそれに仄かに黒が混じっていることを不審に思う。
トントンと扉が叩かれ、ディオンは顔を上げた。
「「お父様!!」」
双子の喜びに溢れた声にテレジアの瞳がゆっくりと開き始めた。
前項でもそうですがびっくりするほど会話がなかったです。
テレジアが結婚式の時に来ていた衣装ですが、オレンジ色のラナンキュラスの花が刺繍されています。
ラーナクラスという家名はラナンキュラスから変化させてつけたもので、オレンジ色のラナンキュラスの花言葉は『秘密主義』だそうです。