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水槽夏  作者:
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水槽夏 2


綾からの手紙③


 すっかり暑くなって、どうしていますでしょうか? お母さんは変わらず働いていますよ。

 あ、今ちょっと疑ったでしょ?

 綾のやつ、ほんとに働いてるのかなって。働いてるわよ、私だって。そうしないと生きていけないじゃない。あのね、どう思ってたか知らないけど、私、一度もお金のことで男の人の世話になったことはないのよ。世話したことはあってもね。

 しかしまぁ、数奇な人生よね。私も、それにあなた達姉妹も。

 あなた達は私が巻き込んだ感があるけど。私の性格が変わっていたからでしょうね。原因は、多分。百パーセント。

 でもね、自分の性格がどうこうじゃないけど、オリジナリティを持つということは、生きていく上で非常に大事なことだと思うの。

 だってさ、誰でもできることを当たり前にできるだけだったら、別にそれは誰でもいいってことじゃない。タイミングの問題だけで。それって何だか大量生産されたロボットみたいな感じ。できることは同じで、報われるか否かはその書い手によるだけ、それで壊れたらまた新しいのを買う的な。

 恐ろしいことだけど、そんなロボットみたいな人ってけっこう多いと私は思うよ。てか油断したら人はみんな、どうしても楽な方に、楽な方に、流れていっちゃうから、しっかり考えないと誰しもそうなってしまうと思うの。まぁ、感覚だけで、本能的にそっちへ流れていかない人もいるんだけど。そういうのは、ある種の才能があるというか、程度はあれど天才なんだと思うよ。

 あんたさ、自分のオリジナリティって何だと思う?

 どう考える?

 つまり、その、自分が他人とは違うとこって何?

 ……考えてるでしょう。今。必死で。

 いいのよ、別に無くたって。あんたまだ若いんだから。私だって絵里くらいの年頃ではまだそんなものなかったわ。まぁ、そういうことを意識して生きてほしいな、ということよ。

 もっと具体的なことを言うと、何にせよまずは「疑う」ことが大事なのよ。

 日々の生活に「?」を付ける。これは非常に大事なこと。疑え、そして熟考しな。それがオリジナリティに繋がる。

 良いこと言うわよね、私。

 大丈夫よ、多少無茶したって。喧嘩したって。自分が疑問に思う、納得のいかないことはとことん詰めてみなさい。

 それで喧嘩になってめちゃくちゃ言い返してきたとしても、他人の人生を否定するなんて相当馬鹿な奴か、相当真剣な奴しかできないんだから。中途半端な奴の言葉なんて所詮、否定も肯定もないただの暇つぶしでしかないんだし、真剣な人の意見は、結果はどうであれあなたをきっと良くするから。

 まぁ、そういうことよ。

 求められる人間になったら、人生はだいぶ楽になるよ。肉体的にはしんどいかもしれないけど、精神的には豊かになると思う。

 オリジナリティ。

 寝る前に一分だけでもいいから、ちょっと考えてみ。



 すぐ帰ると言って家を出てからもう一週間が経つのに、和は一向に帰ってこなかった。

 あの日切り分けたりんごは冷蔵庫の中で日に日に駄目になっていっていた。

 絵里は冷蔵庫を開ける度に、それを捨てようかと考えたが、けっきょく捨てなかった。あと一日、あと一日と先延ばしにして。

「誰にも求められていない存在」

 冷蔵庫の中で生きながらえさせて。



 そんなある日の店からの帰り、絵里は偶然、繁華街で三上を見つける。

 雨が降っていた。

 三上は知らない女の人を連れていて、長かった髪をばっさりと切っていた。

 それを見た絵里は反射的にネオンの看板の後ろに隠れた。

 女の人は三上より十五は若そうで、髪の長い綺麗な人だった。親しげな様子で、一つの傘を二人で使って歩く。絵里には気づかず、横をすり抜けていった。

 行く先を目で追うと、少し先の店先で二人は別れるところだった。三上はいつの間にか煙草をくわえていて、屋根のあるところに入っている女の人に畳んだ傘をわたそうとしていた。しかし女の人はそれを笑顔で断り、三上の頬に軽く触れた。

 それで二人は小さく手を振り合って、女の人は店内に、三上は再び傘を差して繁華街を歩き出した。

 三上は傘を差すのが下手で、大きな傘なのに肩が雨に濡れている。

 さっきの女の人が三上の今の恋人なのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし何らかの特別な人なのだろう。絵里は勝手にそう思った。

 三上は、信号なんてまるで目に入らぬかのような素振りで赤を無視して横断歩道の向こう側に消えていった。



 絵里が家に帰るとポストにまた綾からの手紙が届いていた。

 絵里はそれを読まずにそのまま鞄の中に入れた。



 公園を埋め尽くすような蝉の鳴き声とそれを包み込む八月の暑さで、頭がぼぉっとした。

 絵里は公園のベンチに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。

 麦わら帽子は少し目深で、日差しを避ける。

「絵里ー! おいでー!」

 向こうの売店の方で綾が手をくるくる回して呼ぶ。三上はその隣で腕を組み、置いてある扇風機にあたっていた。

 絵里は大きく頷いて二人の方に走っていく。

 総合公園の午後。

 夏休みの週末。

「絵里、アイス食べる?」

「うん」

 綾にそう言われ、絵里は頷く。アイスクリームは大好きだった。

 ケースの中を覗くとどれも棒付きのアイスクリームで、バニラとチョコレートとメロンと苺の味があった。

 味を迷っていると頭上に影のように大きな三上がいて、同じようにケースの中を覗き込んでいたので絵里は、

「食べたいの?」

 と聞いてみたのだけど三上は、

「こんな甘ったるいもの子供しか食べないぜ」

 なんて言って鼻で笑うから絵里は少し嫌な顔をした。

 三上はそれを察したのかしていないのか、

「好きな味言ってみろ。買ってやるよ」

 なんて言う。

「じゃ、チョコレート」

「おう」

 そう言って三上は絵里の顔の横からぬっと腕を伸ばし、ケースの中からチョコレートアイスを一本取り出して絵里にわたした。

 火照った顔に解放された冷気がかかる。手に持ったチョコレートアイスからも同じように冷気を感じた。

 お金を払ってくれた三上に絵里は礼を言ったが、それに対する反応は特になかった。

 うだるような暑さの中、三人で並んでベンチに座った。

 絵里は三上と綾の間に座って冷たく、甘いチョコレートアイスを食べた。

 二人は絵里が真ん中にいるのに気にもせず煙草を吸い、真っ黒なパッケージの缶コーヒーを飲んでいた。

 綾は昔からよくブラックコーヒーを好んで飲んでいたが、それは絵里からしてみるとパッケージからしてもいかにも不味そうで、黒くて、自分は生涯、絶対にこんなものを飲みたくないと思えるような飲み物だった。

 でもこの時、先の三上の「こんな甘ったるいもの子供しか食べないぜ」という言葉を思い出し、大人になったらいつか、もしかすると自分も何事もなかったかのように、あんな不味そうなものを平気で飲むようになるのかなぁ、なんて考えた。

 けっきょく煙草と同様で、今でも絵里はブラックコーヒーが苦手なままなのだけど。

 二人は絵里を挟んだまま何も話さなかった。

 だから絵里も、何となく黙っていた。

 聞こえるのは蝉の鳴き声だけ。

 二人とも首筋に薄っすらと汗をかいていた。

 絵里がチョコレートアイスを食べ終わってもまだ三人はベンチに腰掛けていた。何をするでもなく、ただそこにいるだけで、二人はたまに煙草に火をつけては消し、吸い殻を空になった缶の中に押し込んでいた。

 絵里の中に、なぜかそんな夏の記憶が色濃く残っていた。

 絵里はその公園の蝉の鳴き声を、暑さを、ベンチに座って食べたチョコレートアイスの甘さを、煙草の匂いを、今でもとてもよく覚えている。

 それから一カ月もしないくらいに三上が家を出て行った。

 綾との間では、男女なので、もちろんいろいろあったうえで至った結論なのだろうけど、幼い絵里からしたらそれは、何も言わず、ただ姿を消した、という感じだった。

 総合公園の午後の記憶は、思い出せる限りの三上との最後の記憶。ちょうど今くらいの季節だった。夏の思い出。



 絵里が玄関を開けると紺の、同じ格好をした男が二人立っていた。

 夕方の十七時頃。この日は絵里は出勤日ではなかった。

 やってきた男達が警官だと理解するのに時間はかからなかった。手帳を出される前からそんなことは分かっていた。

「山口和という男をご存知ですね?」

 一人の警官が絵里に問う。

「はい」

「ここに住んでいたとお聞きしましたが、間違いありませんか?」

「そうですけど」

 警官は二人とも固い表情をしていた。

「あの、和に何かあったんですか?」

 絵里の正面に立つ警官が振り返り、もう一人の警官を見る。顔を見合わせ頷くと、意を決したように話し始めた。

「山口和は今朝未明、窃盗の容疑で現行犯逮捕されました」

「窃盗」

「そうです。数人の友人と工事現場に侵入してワイヤー等の備品を盗もうとしていたところを逮捕されたのです」

「はぁ」

 言葉が上手に絵里の中に入って来なかった。

 警官は更に続ける。

「署で取り調べを行なった際、逮捕者の中に言動に不自然な部分が見られる男がいました。それで念の為全員に薬物検査を行なったところ、数人から薬物反応が出ました」

「まさか……」

「山口和さんはその中の一人です」

 それを聞いて、絵里はさすがに驚いた。

 薬物。

 生活は確かに乱れていたが、あの和がそんなものに手を出すなんて。

「簡単な家宅捜査をさせていただきます」

 絵里は何も言えなかった。

「いいですね?」

「……はい」

 二人の警官は靴を脱いで部屋に上がる。素早く手袋を着けて短く何かを話したと思ったら、手分けして引き出しを開けたり、部屋の中を捜索し始めた。

 絵里は何となく居場所がなくて、リビングのテーブルについてそれを見ていた。

 和が窃盗。そして薬物。

 最後にここで会った夜、あの時にはもうすでに薬物に手を染めていたのだろうか。まったく気がつかなかった。いつも通りの和だった。

 もしかしたらもっと前、それが自然になるくらい前からそんなものに手を出していたのかもしれない。

 だとしたら顔を合わせる度に「大丈夫」と言ったあの和の言葉は、あれはもう和の言葉ではなく、薬物が和に言わせた偽りの言葉だったのか。

 本当の和は「大丈夫」ではないし、「大丈夫」だとも思っていなかった。

 そんな考えが絵里の中を巡る。

 二人は隅から隅まで部屋の中を調べあげる。

 食器棚を開け、皿を一枚一枚取り出す。洋服棚にかかったパーカーのポケットを裏返す。鞄の中身をカーペットの上に出し、その中身を一つ残らず調べる。

 それを見て絵里は、自分達の積み重ねてきたものが一つ一つ順番に崩れていくのを感じた。

 でもそれを止める術は一つもなかった。

「お金、わたしてたんですよね」

 一人の警官に急に声を掛けられて絵里は驚いた。

「はい」

「山口和はそのお金で薬物を買ったと供述しています」

「そうですか」

「捜査が終わったら少しお話を聞かせていただけますか?」

「分かりました」

 警官は頷いてまた捜査に戻っていった。何だかすごく怖い顔をしていた。

 二人はしばらく話した後、こちらの寝室も見せていただきたい、と言うので、絵里は構わない、と言った。

 二人が寝室に入っていくと絵里はリビングに一人きりになり、そこで初めて緊張で自分の喉がからからになっていることに気づいた。

 冷蔵庫を開け、ボトルに入った水を飲む。

 それで喉は一瞬だけ潤ったが、またすぐにからからになった。それは砂漠に水を撒いたような感覚で、今どれだけ水を飲んでも、喉のこの気持ち悪い感じは取れそうになかった。

 冷蔵庫の端、あの日のりんごがまだ置いてある。

 絵里は手を伸ばしてそれを取った。

 りんごはすでに悪くなっており、サランラップの内側、くたくたにヘタっていた。絵里はゴミ箱を開けて今度こそそれを捨てようとするも、やはり捨てることはできなかった。

 もう食べることもできない果実。

 二人の警官は何やら寝室をがさごそとやっている。

 絵里はラップをかけたりんごを持ったまま家を出た。

 走らず、ゆっくりと歩く。

 意識をしていたわけではないが、誰にも会わずに階段を降りる。警官も追って来ない。

 夕立。

 外はいつの間にか暗い雲がかかって、激しい雨が降り注いでいた。絵里は傘も持たず、構わず雨の中を歩き出す。

 しばらくそうして歩いていると、自然と涙が溢れてきた。

 絵里は大声をあげて、泣きながら歩く。雨は相変わらず強く、絵里の涙は夜露のように儚く流されていった。

 別にそれでも良かった。絵里は泣いた。

 こんなに泣くのはいつぶりだろう。もちろんそんなことを思い出せるはずもなく、雨は無慈悲に降り注いでいた。涙の記憶など、人は忘れていってしまうものなのだ。

 りんごを包んだサランラップの上に小さな水たまりができていた。



「人生とは絶望の連続だよ」

 誰かは覚えていないけど、高名な作家さんがテレビで言っていた。

 絵里はそれを聞いた時、率直に言うと嫌な気持ちになった。

 絶望の連続。

 だって自分はまだ二十二歳なのだ、死ぬまでにはまだまだ膨大な時間を生きる。それが「絶望の連続」だなんて、あまりにも救いが無いではないか。

 否定的な言葉って聞いていて楽しくない。もちろん時にはそれが必要な時もあることは分かるけど。

 でも絵里がその言葉を聞いて嫌な気持ちになるのは、心のどこかでそれが事実だと思っているからなのだ。絶望。希望ではなくて絶望。分かる気がする。

 梓には決して言えないが、時には絵里も綾みたいに自由に生きてみたいと思うことがある。

 始発列車を眺めて暮らすように。

 水際を低く飛ぶ鳥のように。

 そんなふうに生きてみたいと考えたりする。



 地下鉄を降りたら雨はもう止んでいた。

 絵里は泣きはらした目で濡れた繁華街を見つめた。涙はもう出なかった。多分もう、全部出し切ってしまったのだろう。

 大人になって分かったのだが、涙を流すということは、これはとても気持ちが良いことで、溜め込んでいた悲しみを一気に放出できたような気持ちになる。もちろん少しの間ではあるが。

 絵里は気がついたらここに足が向いていた。

 店は勤務日ではないし、こんなひどい顔ではとても行けないのだけど、馴染みの場所など絵里には他には無かった。それにこんな時に話を聞いてくれる友達もいなかった。家族も。和がいない今、絵里は本当に一人きりだった。

 そんなことを考えるとまた涙が溢れそうで、絵里はそれをぐっと堪えて歩き出す。

 繁華街の中、びしょ濡れで、顔は涙でぐちゃぐちゃ、手にはなぜかりんごの入った皿を持った絵里はまわりの景色から明らかに浮いていた。すれ違う人々が不気味そうに振り返ったり、指をさして噂したりしていた。絵里もそれには気づいていた。たまらなく惨めだった。それでも歩いていく。

 今頃、店では今日も楽しく誰かと誰かがお酒を飲んでいるのだろう。笑い合って、ママが機転を利かせて、女の子が頬を赤らめて。繁華街の夜。ネオン。自分が働く街。

 夜の街で働き出したのは和が仕事を辞めたからだ。実質的に家に対する身入りが減るので、少しでも高給な仕事を、と思い働き出した。思えば無理をしていた。元々、お酒も、人と話をすることも好きではない。でも頑張った。しかし自分がそこで稼いだお金で和は薬物を買っていた。

 そう思うと、ここ数年の出来事が何もかも上手くいっていなかったことに気づく。冷静に思い返すと、事態は悪い方へ悪い方へ進んでいたのだ。その時々で少し考えれば気づけることだったかもしれない。それが悔しくてたまらず、また涙ぐむ。鼻をすする。

 道の先にいる三上と目が合ったのはその時だった。

「何してんの?」

 三上は絵里を見て不思議そうな顔をする。

「別に」

「仕事前? には見えないけど」

「明日は朝から友達とキャンプに行くから早抜けさせてもらったの」

「はぁ。そうか」

 そう言って三上は少し笑う。

 早抜けなんて、ばればれの嘘だった。こんな顔で店に出れるわけがないし、それにまだ十九時にもなっていない。

「付いて来いよ」

 そう言って三上はまた絵里の返事も聞かずに歩き出す。

「どこ行くの?」

「ま、気分転換にはなる」

 三上に付いて歩いていくと、たどり着いた先はまたこの前のパーキングで、三上の車は相変わらず煤けていた。

 絵里が助手席に座ると三上はエンジンをかけ、

「シートベルト」

 と小さく言った。

 絵里は言われた通りシートベルトを締める。

 古くさい排気音の後、車は弧を描くように回り込みパーキングを後にした。

「拭けよ、濡れてんの」

 そう言って三上はポケットからくしゃくしゃのハンカチをわたして言った。

「ありがとう」

「なんだよ、それ。その、手に持ってる皿は」

「りんご」

 三上は運転席から覗き込む。

「だいぶ痛んでるな」

「そうなの」

「捨てちまえよ」

 そう言って後部座席の足元に置かれた屑箱を指差す。

 それで絵里は自分でも驚くほど自然にそれを屑箱に捨てた。

「いつも車なの?」

「うん。酒飲んだら置いて帰ってる」

「そうなんだ」

 それで、沈黙。

 しばらくして、

「髪、切ったんだね」

「うん」

「ばっさり切ったね」

「あぁ、それは」

 三上が軽く自分の頭を撫でる。

「夏のせい」

 そう言って軽く笑う。

「ふぅん」

 外はいつの間にか真っ暗だった。ヘッドライトが行く先を照らす。夜を駆ける。



綾からの手紙④


 夏という季節は、私は大好きで、それは他の季節と比べてもダントツで、だから私は最近、とても気分が良くて、気持ちの良い毎日を送っています。外の暑さとか、冷たい食べ物を楽しんだりして。毎年、毎年今の時期はそんな感じです。知ってるかもだけど。

 しかし季節というのは決まって順番にやってくるからいいわよね。いつだって秋の次には冬が来るし、春の次には夏が来る、何がどうなったって、仕事を辞めたって、家を出たって、彼と別れたって、何だろうと一年に一回必ず夏は私の前に現れる。絶対的というか、好きよ、私、そういうの。

 でもね、そこで忘れてはいけないことが一つ。そうやって夏が来る度に私は、私達は毎年、着実に歳を取っているということ。

 淡々と日々を過ごしていると忘れがちだけど、これも変わらず、毎年夏が来ることと同じく絶対的なのよね。例え自分としては「あれれ、あれからもう十年も経ってるの?」なんて信じられなくても、ちゃんと十年経ってんの。これは紛れもなく。記憶は曖昧だろうと何かしらの記録はきっと正確で、時間の経過をちゃんと証明できるわ。それに肉体だってちゃんと衰えてるし。

 そうして一歩一歩死に近づいている。

 時間はどんどん流れていく。

 どんどん消費されていくボックスティッシュみたいよね。

 今日はどんどん昨日になって、油断しているとそれは先週になって、先月になって、去年になる。

 ね、それって何だか怖くない?

 今さ、一体何人の友達が高校生の頃の私のことを覚えていると思う? それはもちろん、私自身も含めてね。

 そしてそういう時間の積み重ねの先、死ぬ時、最期の一瞬、私は一体何を思い出すんだろね。最近そんなことを考えてたの。果てしないけど、実際私達は毎日そこを目指して歩いてる。

 最後の一瞬、何を思い出すかなんて分からない。

 意外と全然どうでもいいことを思い出すんじゃないかとも思うの。そうね、例えば「たくあん」のこととか。たくあんなんて全然好きでも何でも無いのに、たくあんのことを思い出して死んでくの。可能性がゼロとも言えないでしょ?

 だからそう考えると、最後の瞬間に「たくあん」のことを思い出すかもしれないなぁ、なんて考えると、人生なんてものはけっきょく刹那的な意味しかないのかもね。味わった幸せを上手にストックなんてできない。「大事なのは今」なんて言うとすごく俗的だけど、でもそうよね。分かる気もするわ。

 まぁ、でもね、こんな私にもあったんよ。これが幸せと呼ばず何と呼ぶって日々が。

 ずっと昔、あんたと梓と暮らしてた日々とか(梓がまだ可愛らしかった頃よ)そういうの、忘れないようにと、一応人並みに努力してみたりはするのよ。輪郭は年々ボヤけていってるけど、暖かみは忘れないように、とね。

 できれば「たくあん」じゃなくてそういう幸せなシーンを思い出して死にたいからね。

 あ、でももし私が「たくあん」を思い出して死んだとしたら、そこまで私の心にこびりつく、というかそんなぎりぎりの状態でも忘れずに浮かび上がってくる「たくあん」を素直にすごいなと天国で讃えまくるかもね(もしくは地獄でね)

 すごいよね、忘れられないって。

 どういうメカニズムなんだろね。

 てか、たくあん、たくあん、五月蝿いわよね。蝉みたいよね、今日の私。

 たくあん、たくあん。



 今回の綾の手紙は勢いがすごくて、自分の言いたいことだけをだだだだっと書いているだけで、それが本当に綾らしいなぁ、と絵里は思った。

 それで絵里は、たくあんは別に食べたくはならなかったけど、「忘れられない」というところで例の総合公園の午後を思い出した。

 三上と綾と絵里。蝉の鳴き声とチョコレートアイス。煙草。綾からの手紙をたたみ、ハンドルを握る三上の隣でそんなことを思い出していた。



 車が停まったのはどこなのかは分からないが山奥の旅館の駐車場だった。

「着いたぞ」

「ここ、どこ?」

 しかし三上は何も返事をせず車を降りる。三上はいつもこうだ。何も言わずに先に先に行ってしまう。

 絵里も車を降りて三上の背中を追う。外に出ると夏らしい夜で、虫の鳴き声の向こうに微かに川の音が聞こえた。

 三上が受付に行くと、そこに立っていた女将らしき女の人は、あら、あら、三上さん、と笑顔を見せた。どうも顔馴染みのようだった。

「いける? 一部屋」

 三上がそう尋ねると女将はもちろんです、と笑顔で答え、受付用の記入用紙を三上の前に差し出した。三上はそれに慣れた手付きで名前を記入する。

 女将に案内されたのは小綺麗な和室で、部屋の真ん中にはテーブル、その上にはポットと茶菓子。奥の部屋にはリクライニングチェアーが二つ置いてあった。

 畳の匂い。

 やがて女将は出て行き、二人になる。

 絵里は三上をじっと見た。

「安心しな。何もしないよ」

「ここ、どこ?」

「俺の隠れ家」

「そんなこと言って、よく女の子を連れ込んでるの?」

「お前、俺にどんなイメージを抱いてんだよ」

 三上はそう言って少し笑う。

「どんなって」

 回答を聞く前に三上は畳の上に座り込み、硝子の灰皿を手繰り寄せて煙草に火をつけた。

「とりあえず風呂入ってこいよ。風邪引くぞ」

「うん」

「一階に大浴場がある」

「分かった」

 絵里は三上からタオルと浴衣を受け取り部屋を出た。

 静かな廊下を歩いて大浴場を目指す。

 建物は古かったが、風情があり、何となく好印象を持てる旅館だった。

 看板の案内に従って大浴場へ向かう途中、受付の前を通った。女将はさっきと同じようにそこに立っており、笑顔で絵里に軽く会釈をした。絵里もそれに返す。

 大浴場も昔ながらの感じで、服を脱いでプラスチックの籠に入れ、ガラガラと曇りガラスのスライドドアを開けると、湯気がもわっと溢れて、冷えた身体に温度を与えた。絵里はその時、初めて自分の身体が冷え切っていたことに気づいた。

 湯船に浸かって目を閉じると、絵里はやっと少し冷静になれた。

 和が捕まった。窃盗と、あと薬物。信じられないことだけど、確かに警官が家まできた。家宅捜査をした。

 そう言えばあの警官達、後で話を聞きたいと言っていた。それを無視して家を出てきてしまったのだが、そうすると二人はもしかすると自分のことも疑って探しているかもしれない。話を聞きたいと言われていたのに黙って家を抜け出したのだから。怪しい。共犯と思われても仕方がない。

 絵里は湯船で顔を洗って一度そんな考えを断ち切る。

 眼鏡を外しているから遠くの視界が霞んでいた。

 大浴場には誰もいなくて、温泉なのか、湯が流れる音だけが空間を支配していた。

 三上は、絵里が泣いていたことに気づいていたはずだ。でも何も言わなかった。

 口を、水面に浸けてぶくぶくする。でも何も状況は変わらず、もちろん気も晴れず、だんだん逆上せてきたので仕方がないので絵里は湯から上がった。

 シャワーの前には燻んだ色のボトルに入ったシャンプーとボディソープ、リンスが置いてあった。

 こういうところに置いてあるシャンプー類は安っぽくて、すぐに髪ががしがしになってしまうので、絵里は普段、大衆浴場なんかに行く時は自前のものを持っていくのだが、もちろん今日は持ち合わせていない。

 諦めて置いてあるシャンプー類を使って洗う。何とも言えず無香料で、絵里は、すっきりしたのかしてないのか分からなかったが、とりあえずシャワーを止めて伸びをした。

 それで大浴場には露天風呂もあり、絵里が外に出てみると空には雲一つなく、半分弱欠けた月と、向こうの方からやってくる、どうも飛行機らしい点滅光が見えた。

 湯船に浸かると、川の音がずっと近くまで来ていて、露天風呂の囲いの隙間から外を見ると、すぐ眼下を幅三メートル程度の小さな川が流れていた。

 しばらくそうしていたが、やがてまた逆上せてきたので絵里は露天風呂を出て脱衣所に戻る。部屋から持ってきた浴衣に袖を通し、濡れた髪をドライヤーで乾かしていると、急にこの後部屋に戻り三上と顔を合わせることが億劫になる。

 冷静になって考えると、どんな顔をすれば良いのだろう。顔が赤くなる。

 少しの間、髪をとかしたり、無駄に体重を測ったりして時間を潰していたが、いつまでもこんなことをしていても意味がないので、絵里は意を決して部屋に戻った。

 三上は、絵里が部屋を出た時と同じ位置に座って、テレビの野球中継を見ていた。硝子の灰皿には吸い殻が四本。折れ曲がっていた。

「長かったな」

「そんなこと、女の子に言うもんじゃないよ」

「女の子ときたか」

 三上が笑う。

「何か食べるか?」

「ううん。いらない」

 絵里は即座に答えた。

「本当に?」

「うん」

「俺は食うぞ」

「いいよ」

 三上は立ち上がり、テレビの横の固定電話で、うん、いつもの頼む、とだけ言って電話を切った。

 絵里はテーブルの、三上とは違う辺に腰掛けた。

 三上はそれ以降は何も話さないので、野球中継の音だけが部屋には流れていて、打球が飛んだりするたびに瞬間的にワッと盛り上がりをみせ、それが終わると実況がまたボソボソと何か話しているような、そんな感じだった。

 実況の話を聞いていると、どうもそろそろシーズンも終わりが近いようで、今日の試合の結果如何で優勝争いが大きく左右されるとのことで、大事な試合のようだった。

 もちろん絵里はプロ野球になんて興味が無かったので、それを聞いても特に何も感じなかった。そうなんだ、くらいの感じだった。三上にしても興味があるのか無いのか、表情から読みきれなくて、退屈だから見ているだけなのか、もしくは意外にも試合の結果を気にして待ち望んでいたのか、どちらとも取れた。

 しばらくすると女将が十巻の寿司と瓶ビールを一本、お盆に乗せて持ってきた。これがおそらく「いつもの」なのだろう。

 三上は、ありがとう、と言って女将からそれを受け取った。

「食うぞ」

 三上は瓶ビールの栓を抜きながら絵里を見る。

「どうぞ」

 絵里が言うと三上は少しバツが悪そうにグラスにビールを注ぎ、醤油の中にわさびを溶いた。

 絵里はちらっとその仕草を見ると、煌びやかな寿司が目に入る。

 美味しそうだった。

 その視線に三上が気づき、

「いるか?」

「大丈夫よ」

 そう言った瞬間、絵里のお腹が、漫画のようにぐぅぅと鳴った。

 実に潔く、嘘偽りの無い音だった。

 絵里は真っ赤になって下を向き、

「一つだけ」

 と絞り出すように言った。

 三上は溜息をついて寿司の乗った皿を絵里と自分の間に置いた。

「面白いだろ?」

「何が?」

「どんな時でも腹は減る」

「それが何よ」

「何があっても身体は生きることを望んでる」

 絵里はそれについては何も言わなかった。

 三上が再び電話で頼んでくれた取り皿に寿司を取り分けて、十巻は、けっきょく半分半分食べた。美味しかった。

 それで三上は瓶ビールを飲み終わると、

「風呂行ってくる」

 と言って立ち上がった。

「適当に寛いどけよ」

 絵里は頷く。

 三上が行ってしまった部屋で絵里は、寛いでおけと言われても特別やることもなく、すぐに手持ち無沙汰になった。野球中継もいつの間にか終わっていた。

 テーブルの上の茶菓子の袋を一つ破って、食べてみる。でも、これはあまり美味しくなく、お茶を飲んで口の中をリセットした。

 それで、窓を開けてみる。

 山の夜は澄んでいて、夏なのに風が気持ちよく、空気が冷えていて涼しかった。

 さっき露天風呂から見えた川は部屋からは見えず、でもやはりその流れる音だけは微かに聞こえた。

 絵里は一人、部屋から外に出て行く。

 今はもう無人になっている受付の横を抜け、露天風呂から見た川を目指し、自分の方向感覚だけを頼りに夜道を歩いた。

 迷うかな、と思ったが、川沿いの道は遊歩道になっていて、絵里は早々にそれを見つけることができたので意外にあっさり川まで出ることができた。

 露天風呂から見た感じではかなり小さな川に感じたのだけれど、近づいてみるとそれなりに大きく、立派な川だった。

 絵里は暗がりに足を取られないように、川の流れと同じ方向にゆっくり歩く。

 川沿いは街灯もなく暗がりで、慣れてきた目の映す薄闇の景色だけを頼りにした。微かな月明かりに照らされた川は、黒く、強く、美しかった。

 古い歌ではないが、これはまるで人の人生のようで、三上が言う「何があっても身体は生きることを望んでる」と同じで、川は特別な雑念も無く、ただ流れる、先に進むことだけを考えているようだった。

 しばらく行くと細道から、拓けた田園に出た。蛙の鳴き声が凄かった。絵里はその分岐点に忘れ去られたように置かれた赤いベンチに腰掛ける。

 すっと目を閉じると、流れ込むように夏が絵里の中に入ってきた。

 しばらくすると、浴衣姿の三上がやってきた。

「やっと見つけた」

「うん」

「うん、じゃねぇよ。心配したんだぞ」

 そう言って三上は煙草に火をつける。

「ごめんね」

「酷なこと言ったか、俺。さっき部屋で」

「そんなことは無いよ」

 三上は三上で気にしていたのだ。

「蛙の鳴き声が凄い」

「うん」

「蝉みたい」

「鳴いてる蛙は雄だよ。雌を呼んでる」

「そうなんだ」

「うん」

 それでその晩は二人して旅館まで戻り、並べた布団で眠った。

 絵里は眠りに就く前、また少し泣いた。

 でもひとしきり泣くと、何もなかったかのように眠りは訪れた。



 翌朝、絵里が目覚めるともう十時を回っており、隣の布団に三上はおらず、もぬけの殻だった。

 どこに行ったのだろう、と部屋の中を探してみるもおらず、外に出て、なおも探してみると、三上は浴衣のまま受付前のサロンでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

「おはよう」

「うん。おはよう」

 それで絵里も三上の向かいに腰掛ける。

「コーヒー飲む?」

「うん」

 三上が絵里の分もコーヒーを注文し、程なくして女将がそれを運んでくる。

「よく眠れた?」

「意外と」

「なら良かった」

「何時から起きてたの?」

「ん、七時くらいかな。もう一回風呂行ってた」

「そう」

 三上が大きく欠伸をする。

 絵里はコーヒーを無意識でブラックのままで飲んでいた。

 大きな窓の外には緑が左右に揺れていた。

 そのあと小さな食堂に二人で朝食を食べに行った。

 絵里はなぜだかひどくお腹が空いていて、三上が驚くくらい朝食を食べた。鮭の塩焼きに出し巻き卵、ほうれん草のおひたしに切り干し大根。ご飯は納豆と海苔で二杯食べた。

 三上は目を丸くして、

「昔からそんなに食べたっけ?」

「いつも食べてたわけじゃないけど、食べる時は食べたよ」

「へぇ。そうか」

 三上は不思議そうな顔をして煙草に火をつけた。

 多分、三上の中では、綾の味の濃い手料理の前で戸惑っていた頃のイメージが強いのだろう。

 朝食を食べ終わったあと、二人で昨夜歩いた川沿いの遊歩道を散歩した。

 今日も日差しが強くて、遊歩道には木々の間から溢れた光がゆらゆらと、まるで屋外プールの水面のように揺れていた。前を行く三上の背中を追って歩く。

「綺麗な川ね」

「だろ」

「三上さん、今日仕事は?」

「休んだよ」

 そう言って煙草に火をつける。

「良かったの?」

「まぁ、良かないけど。いいよ、別に」

「どっちよ」

「どっちだよな」

 三上は笑った。

「何の仕事してるの?」

「営業職」

 絵里は驚いた。

「昔から?」

「いや、去年かな。俺、仕事はけっこう転々としてる」

「そっか」

 それで絵里は、前にもらった綾からの手紙に出てきた営業職の彼は、やはり三上のことではなかったんだな、と思った。

「意外と楽しいぞ」

「え?」

「いや、営業職」

「あ、そうなの」

「うん。割と自由も効くし」

「そうなんだ」

「お前もあんな店辞めてなんか違うことしてみろよ。はっきり言って似合ってないぞ」

 嫌味っぽく三上が言う。

 それで絵里は何だか赤くなってしまって、

「うるさいなぁ」

 と怒ってみるも、三上は小さく笑うだけで、気にした様子もなかった。

「無理してることくらい自分でも分かってるよ」

 三上は石の上を踏んで川を反対側へ渡っていく。足元は旅館の室内用のスリッパなのに軽やかだった。絵里も恐る恐るそれに続く。

「無理してることくらい自分でも分かってるよ」

 無視をされたので絵里はもう一度言ってみる。

「何?」

「お店のこと」

「あぁ」

 三上が先に反対側に着く、振り返ってまだ川の真ん中過ぎにいる絵里に手を差し出す。絵里がその手に捕まると、ぐっと反対側に引っ張られた。

 三上は道の先を指差す。方向的には今歩いてきた方向で、これは多分、折り返すぞ、という意味だろう。

 蝉時雨。

「辞めちまえよ」

 しばらく歩いていると三上は、独り言のように言った。

「辞めちまいますか」

「二十二だろ?」

「そう」

「生まれ変わるには良い年齢だ」

「ここが私の最先端だよ」

「先が見えないから進もうと思う」

「あぁ」

 絵里は少し考えて、

「思い返せばそうだったかもしれない」



 部屋に戻ると三上はビールを飲み、テレビをつけて横になった。入念にチャンネルを選んでいたわりには五分くらいするともう眠っていた。

 絵里は鞄から旅館に来る途中に車で読んだ綾からの手紙をもう一度読んだ。

 やっぱり勢いが凄くて、読み終えると笑えてきた。

 それで少し考えたあと、絵里はフロントに電話をかける。

「あの、便箋はありますか?」

「ございますよ。すぐにお持ちします」

 女将はそれから本当にすぐに便箋を部屋に持ってきてくれた。

 絵里は礼を言ってそれを受け取る。

 三上は相変わらず眠ったままだった。大きな身体なのに寝息は小さく、静かだった。

 絵里はクーラーの温度を少し上げて、お茶を淹れて飲んだ。正午の少し前。空腹感はない。

 リモコンでそっとテレビを消す。

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