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水槽夏  作者:
1/3

水槽夏 1


 十四の夏は心地よくて、それはまるで水槽の中に座って時間を忘れて外界を見つめているようで、すべての色がなんだか淡く浮き上がっていた。

 絵里はその夏の、あの瞬間のことをなぜだか今でもたまに思い出す。

 絵里はその夏の日、中学二年生で、食堂横の階段に腰掛けて一人、蝉の鳴き声を聞いていた。

 夏休み。

 夏期講習には出なかった。

 風はずっと高くを走っていて、揺れる緑をばさばさと今日も歌わせていた。



 本当のことを言うと絵里も、店に入ってきた瞬間から、それが三上だと言うことに気づいていた。

 二人連れの片割れ。

 黒のスーツを着て、真白いシャツ。ネクタイはしていない。黒々とした髪は、絵里の記憶よりも少し長かった。

 もう一人は仕事関係の付き合いだろうか。

 三上よりも少し年配の男だった。

 二人はなんだか真面目そうな顔をして話をしていたが、時々、店の女の子を交えて、冗談を言って笑い合ったりもしていた。二人ともウイスキーのロックを飲んでいた。

 絵里はその様子をカウンター越しに横目で見ていた。

 実に十二年ぶり。

 三上は、絵里自身とは直接的には深い関係のない人間だ。それなのに絵里は、紛れもなくその男が三上だということがすぐに分かった。

 だから勤務が終わって店を出た時、向かいの路地に三上が煙草を吸って立っているのを見つけた時も、あまり驚かなかった。

「名前は?」

 三上は絵里を見ると、大きな靴底でまだ長い吸いかけの煙草を消してそう聞いた。連れの男は先に帰ったのか、もういなかった。

「……ルミです」

「違う。本名だよ」

「本名」

「お前、絵里だろ?」

「……うん」

 少し迷ったが、絵里は正直に答えた。

「やっぱり、そうだ」

 三上は少し笑った。

 推理小説の犯人を言い当てたみたいな得意げな、微笑。もう五十に手が届く頃のはずなのに、その表情はどこか少年的で、そんなところは十二年前のままだった。

「元気してたか?」

「別に」

 目は合わせなかった。

「驚いたよ。お前、こんなとこで働いてんのな」

 絵里はむすっとした顔で何も言わなかった。

「でも、こういう店で働くなら眼鏡くらい外せよ。相変わらず目が悪いんだな」

 絵里は眼鏡に触れて、

「コンタクトがつけられないのよ。目、触るのが怖くて」

「ふぅん」

 自分で言い出したくせに、三上は別にどちらでも良さそうな感じで口を曲げた。

「綾は元気か?」

「知らない。今どこにいるかも分かんないし」

「どこにいるか分からない?」

「私が高校を卒業するのと同時に家を出てったの」

「へぇ」

 三上はあまり驚かなかった。

 近くで見ると三上はやはり大きくて、口元に無精髭が生えている。決して裕福そうには見えないが、取り巻くオーラと言うか、不思議な色気がある男だった。

「で、それっきり?」

「うん」

「ふぅん」

 夜の生温い繁華街。

 二人の周りを火照った人々の微熱が行き過ぎる。

 夏だった。

「たまに変な手紙がくるけど」

「手紙?」

「手紙」

「メールとか電話じゃなくて、手紙?」

「うん」

「綾らしいな」

 三上は、今度は本当に可笑しそうに笑った。

「また来るよ」

 そう言って三上は、絵里の頭を軽く撫でて歩きだす。

 大きな背中は、すぐに雑踏の中に溶け出して消えた。街に含まれた男なのだ、三上は。

 ネオンライト。

 薄い闇。

 じきに最終列車。

 絵里はその背中の行く先を見送り、やがて反対の方向へ歩き出した。



綾からの手紙①


 絵里、まず私が思うことはね、営業職なんてものに、絶対なってはいけないよ、ということなの。

 なんせこのご時世じゃない? 何だろうと簡単に売れるはずがないし、売るためには技術が要る。それでやるからには当然利益を出さなければいけないのだから、その技術というものは謂わば、口八丁、詐欺師にも近い技術よね。

 絵里はそういうの向いてないよ。

 うん。私が保証する。

 保証っておかしいけどさ。

 昔の彼でね、営業職の男がいたの。

 彼、何だかんだ言って営業職に向いていたと私は今でも思ってるんだけど、なんとなく大きい仕事が取れて、取れ続けてて、上からも下からも評価されて、って状態だったらしいのね。

 それって営業職としては素晴らしい状況よね。

 でも彼はね、いつもどこかネガティヴで、自分の成功はただの勢いだと、運だと思ってて、いつまでも続かないものだって言うのよ。

 仕事を取り続けているから評価されているということは、それが崩れたらもう誰にも見向きもされなくなるということと表裏一体なわけで、駄目になったら墜落。それは燃料が切れた飛行機みたいに真っ逆さまに堕ちていく感じ、と。それ聞いた時、私、なるほど、まぁ確かにそれはあるわよね、って素直に思ったわ。厳しい世界よ。

 あとね、こんなことも言っていたんだけど、営業職って昼間外に出てて、帰ってきてからデスクワークをするからどうしても残業が多くなるじゃない?

 多くなるのよ。

 絵里は知らないかもしれないけど。って私も別に営業職の経験はないけどね。

 それで業務の効率化ということで、デスクワークを極力周りの事務員に振って効率良く仕事しろ、なんて上司から指示が出たから、彼はその通りにしたらしいの。

 そしたら彼、まぁやっぱりちょっと周りより仕事ができたんだろうね。手際がいいと言うか。上手いこと仕事を振って、いつの間にか他の人達よりも早い時間に帰れるようになったらしいのよ。

 でも、そしたら今度はね、周りから「あ、暇なんだこの人」みたいなことを言われるようになったらしくて、何だか居心地が悪くなってしまったんだって。彼、「じゃ俺はどないしたらええねん」って言ってたわ。あ、関西の人だったんだけどね。

 彼のやったことと言ってることは至極まともだと思うの。私は。でも一方で、効率化と怠惰。これは意外と視点の角度が違うだけで、もしかしたら同じことなのかもね。あとはキャラクターの問題かな。

 ちょっと話が逸れたわね。

 何にしても営業職というのはつまり、具体的な物質ではない何かを作り続ける仕事なのよね。

 ほら、例えば車の営業って言ったって実際に車を作るのは工場の現場の人じゃない? 本人が作るのは車そのものじゃなくて、構想とか思念とかそういう類のもの。

 それって何か、作家やミュージシャンにも近いところがあるよね。その彼にそう言ったら「そんなかっこいいものじゃない」って。まぁ、それもそうよね。

 彼はもう、もちろんとっくにお別れしてるけど、風の噂ではまだ営業職を続けてるみたいね。私はそれで良いと思うわ。

 でも、物質ではない何かを作り続ける人生。

 それってどういうものなんだろうね。

 果てしなさ過ぎて私、想像がつかないわ。



 多分、この彼というのは、三上のことではないのだろうな、と絵里は思った。

 そしてもちろん、自身も営業職になど就く気はさらさらなかった。



 三上は、絵里の母、綾の元恋人だ。

 もう十二年も前の話。

 当時、三上は三十七歳。綾は三十六歳。そして絵里は十歳だった。

 交際期間は決して長くはない。冬の山場から次の夏が終わるまでくらいの期間だろう。半年あるか、ないか、というところだ。

 でもそれは色濃く、混ぜ合わせた原色の絵の具のような日々だった。

 その頃、三上はほとんど綾の家に住んでいるような状態だった。

 絵里が今思い返しても当時の三上はふらふらとしていて、昼間から台所でビールを飲んでいたり、かと思えば皆が寝静まった深夜にこっそり帰ってきたり、ちゃんと働いていたのか、疑問である。

 絵里が一番覚えているのはベランダで煙草を吸う少し物憂げな横顔。

 煙。

「なんだよ」

 部屋の中から横顔を見る絵里に気付いて三上が言う。まだ春先で、肌寒さが残る季節だったにもかかわらず、三上は薄いシャツを一枚着ただけだった。

「何もないよ」

「煙草に興味があるのか?」

「別に」

「ほれ、吸ってもいいぞ」

 そう言って三上は吸いかけの煙草を絵里に差し出す。小学生の絵里に。

「要らないよ」

「は。そっか」

「臭いし。私、煙草、嫌い」

「みんな最初はそう言うんだよ」

 三上は少し笑って煙草の続きを吸った。

「私は大人になっても煙草なんて吸わない」

「いやー、絵里は吸うよ、煙草。きっと」

「なんでよ」

「だってお前、驚くほど綾にそっくりだから」

 綾は煙草が大好きだった。

「綾は綾、私は私、よ」

 それで三上は何も言わずにまた少し笑って煙草を灰皿に押し付けた。絵里は、まるで自分の未来を見透かされたような気持ちになり、ちょっとだけ嫌な顔をした。

 煙草になんて興味がなかった。

 ただ、三上の、大人な男が見せる寂しそうな横顔を見ていただけだったのだから。

 二十二歳の今の絵里。

 三上の言葉通りにはならず、今も煙草は吸わない。でも多分それは、三上の言葉があったから。

 そんな気がしないでもない。



 その半年は三上、綾、絵里、そして絵里の姉、梓の四人で暮らした。

 小さな、狭い公団住宅。

 梓は三上のことが大嫌いで、ほとんど口も聞かず、顔を合わせても、目を見ることすらしなかった。でも三上は別にそれを気にする様子もなく、歩み寄るわけでもなく、いたって自然だったので、家の中の人間関係は微妙なバランスではあるが何となく成り立っていた。

 梓は絵里より四つ歳上で、その頃にはもう中学生だった。難しい年頃であったのかもしれない。

 たまに四人で食卓を囲むこともあった。

 綾の手料理はどれも味が濃く、どろどろしていて、梓と絵里は女だからそんなに食べられないのだけど、三上はいつもそれをたくさん食べた。

 美味しい、とかそんなことは一言も言わないのだけど、この人は多分、綾の手料理がけっこう好きなんだろうなぁ、と絵里は思っていた。食卓は会話が弾むこともなく、たまに綾が冗談を言って自分で笑うくらいで、皆いつも淡々と食べていた。

「さ、召し上がれ」

 そう言って綾はべちゃべちゃで、いったい何人前あるのであろうかというくらいに大盛りの炒飯を食卓の真ん中に置いた。

「こんだけあれば十分でしょ。好きなだけ食べな」

 なんて言うが、味付けが濃すぎて米粒が茶色く染まった炒飯が放つその異様な気迫に押されて、梓も絵里もスプーンを持ったまま固まっている。

「何よ。遠慮しないで」

 綾は炒飯の横にさらにパックに入った唐揚げと春巻きを置いた。大方、仕事帰りにスーパーで買ってきたのであろう。どちらも値段の記載されたシールが三枚重なっている。こちらもこちらで油でぎとぎと。なんとも言えないえぐみ。梓と絵里は性格の似つかない姉妹だったが、食の好みは似ていた。幼心にそれを口に出すことはなかったけれども。

 なんて目に見えぬ駆け引きを繰り返していると三上が黙って茶色い炒飯を食べ出す。

 それで絵里たちも恐る恐るそれに続く。でも炒飯はやはり味が濃く。梓も絵里もけっきょく最初に自皿によそった分ですら食べきれなかった。

 三上はそんな二人をよそにもりもりと炒飯を食べ進める。

 あれも確か夏。

 扇風機の音と満足気な綾の顔。

 そんなワンシーンを今でも覚えている。

 もう十二年も前の話。



綾からの手紙②


 ところで、私は家を出て以来、ちょくちょくあんたに向けて手紙を書くけど、実は誰かに向けて手紙を書く習慣なんて今まで一度もなくて、これが初めてなのよね。

 で、書いてみて思ったけど、手紙を書くのってなかなか良いものよ。

 同じ内容でもメールで送るよりずっと言葉と真剣に向き合えて、勉強にもなるし。ほら、メールだとぱっぱっと打ち込んで、しゃしゃしゃっと送れるじゃない? でも手紙だとそうもいかなくて、分からない漢字をいちいち調べたり、調べたらその言葉の知らない別の意味を不意に知ってしまったりして、そういうの、楽しいよ。けっこう。

 そんなわけで私は今日も絵里に手紙を書いているんだけど、今日言いたいことはねぇ、文字とは、なんとも言えず不思議よね、と言うこと。

 これもまぁ、手紙を書くようになってから気づいたことなんだけどね。日々、私だって進歩してるのよ。ほほほ。

 文字ってね、それを並べて言葉になって、つまりはそれは情報になっていくわけなんだけど、その情報というのが非常にドライで、「文字の羅列」が示すものだけを冷徹に伝えているような気がするのね。

 例えばさ、

「三十歳会社員 昨晩零時過ぎに飲酒運転で人身事故」

 なんて見出しを新聞で読むとするじゃない?

 そしたら多分、大半の人は「なんでこんな御時世に飲酒運転なんてすんのよ」「常習犯なんじゃないの」「お酒飲んで運転して事故るなんて最低」とか、大抵はまぁこういう感想を抱くわよね。それはそれで別に間違ってないわ。

 でもそれはあくまで「文字の羅列」から伝わる情報に対する感想でしかないのよ。

 どういうことかと言うとね、

 実はこの会社員、うん、仮に田中としよう。名前がないと話しづらいから。田中。田中はすごく優しい穏やかな人で、可愛い奥さんと二人の子供のために安月給にもかかわらず毎日毎日遅くまで残業して働いていたの。

 正直、会社の財政も悪くて、いつどうなるかも分からない状況。先にのしかかる不安、でも家族を養っていかなければならない責任感、輝かしい若かった頃の思い出、そんなものを全部背負って今日も深夜に仕事を終える。

 そんな田中が外に出ると、ネイビーの空に星屑がぱぁーっと広がっていて、何とも言えず美しくて、疲れきった田中はそれを見て不覚にも涙してしまうの。

 田中は毎日車で通勤していて、あのー、工場勤務なのよ、田中は。工場勤務の人って車通勤が多いでしょ? 郊外にあるから。田中もそのクチよ。それでその日も車に乗って帰るんだけど、田中はあの美しい星空をもう少し見ていたくて、疲れていたけど近所の河原に寄って、車を停めて星を見ようと決めたの。その河原は街頭も無いから暗くて、星がよりいっそう綺麗に見えるんじゃないかなって思ったのよね。

 それで、それならせっかくだからビールでも買って、一杯飲みながら見ようと思ったの。けっきょくこの選択がマズかったのよね。

 あ、もちろん田中は本物のビールを飲むつもりではなかったのよ。田中は断じてそんな人間じゃない。よくあるノンアルコールのやつを買って、気分だけでも味わおうと思ったの。でも彼、疲れていたから、コンビニでノンアルコールと間違えて本物のビールを買ってしまったのね。缶の色とか、同じようなのがあるから気がつかなかったのよ。そしてそれを河原で飲んでしまった。

 田中は意外とお酒が強くて、缶ビール一杯じゃ全然酔わない。辺りは暗いから缶のラベルもよく見ておらず、最後まで酒を飲んだという感覚は無かった。

 帰り道、少し風が出てきた。

 すっかり遅くなってしまったことを気にしつつも、田中は安全運転で家路を急いだ。あくまで安全運転。ここら辺に田中の生真面目さがあるのよね。でもそんな田中も突然の事態には対応できなかった。

 家まであと少しのところだった。

 不意に暗い路地から人影が飛び出してきた。

 この男は鈴木という名で、一部上場企業で部長の役職に就いている。この日は得意先との接待で少し酒を飲み過ぎていた。鈴木だってもういい歳だから、自分の限界くらい把握している。でも今夜は重要得意先相手の接待ということもあり、限界を超えて無理をしてしまったのだ。

 田中の運転する車の前に飛び出した時、鈴木は半分眠ったような状態だった。

 衝突。

 急ブレーキの轟音も虚しく、鈴木の身体が宙に舞う。

 うずくまる鈴木。

 田中は慌てて運転席を飛び出した。

 鈴木の命に別状はなくて。それが不幸中の幸いだった。

 十分後、警官がやってきた。

 短い質疑の後の簡単な検査で、田中の息から微量の酒気が検出された。田中はまったく身に覚えがない。そりゃそうよね。本人はノンアルコールを飲んだと思ってるんだから。でも警官の検査は嘘をついておらず、残念ながらそれは真実だった。

 そしてあの記事に繋がる。


 ね、どう?

 最初の見出しと本当の田中ではだいぶ印象が違うでしょう?

 それって何だか、文字の冷徹さを感じない?

 だから本当はさ、

「不幸な会社員 涙の人身事故」

 なのよね。


「三十歳会社員 昨晩零時過ぎに飲酒運転で人身事故」

「不幸な会社員 涙の人身事故」


 ね、並べると分かりやすいでしょ?

 これ、同じ出来事のことを書いてるのよ。

 同じ言葉でも、これが会話なら表情やニュアンスで伝わるところもあるんだけどね。

 ま、これはちょっと極端な例だったけどさ。

 これに気づいてから私は、文字を書く時、すごく真剣に言葉を選ぶようになったわ。それだけ恐ろしいものだから。正しい言葉。伝えたい事実、想い。間違わないようにね。

 でも私、話戻るけどさ、手紙って好きよ。電話やメールよりも、ずっとずっと。

 ちゃんとあんたに伝わっているといいな、と思う今日この頃です。



 バイトが休みの夜、絵里が部屋でテレビを見ていたら和が帰ってきた。

 一緒に住んでいるにもかかわらず。ここのところはすれ違いの生活が続いていて、顔を合わせるのは久しぶりだった。

「おかえり」

「ただいま。久しぶりじゃん」

「ほんとに」

 和は被っていたサマーニットを取ってリビングに入ってきた。

 長い髪がぺしゃんこになっている。

 細い身体つき。背丈はおそらく三上と同じくらいなのだけど、痩せ型のシルエットのせいか、和の方が小柄に思える。

「ご飯は? 外で食べたの?」

「あぁ。うん」

「そう」

「バイト、今日は休み?」

「うん」

「そっか」

 和はそう言って絵里の前に座った。冷房を消していたらいつの間にか部屋が生温い。どんよりした重たい空気が湿気を含んで肌にまとわりつくのが嫌で、絵里はクーラーをつけた。

 沈黙。

 動き出したばかりのクーラーだけが張り切って風を送っていた。

 それで絵里は何となく空気を察した。

 和は多分、また自分にお金をせびる気なのだろう。

 いつもそうなのだ、そういう時にはいつもこんな空気になる。

 その感じが嫌で絵里は、

「りんごでも剥くね」

 と言って台所へ立った。というか逃げた。

「うん」

 背中に和の声と存在を感じながら冷蔵庫を開ける。二つ並んだりんごのうち一つを取り出し、果物ナイフを用意する。

 絵里はりんごの皮を一つなぎにしてゆっくり皮を剥いていく。

 それはまるで、ガタガタとした螺旋状の一本道の様だった。天から続く一本道。やがて儚く途切れて、シンクに落ちていく。

「絵里」

 はっと、気が付くと和はりんごを剥く絵里の隣まで来ていた。

「なに」

「少し助けてほしいんだ」

「お金?」

「そう」

 和はそう言って絵里の腰に腕をまわす。

「この前わたした分はどうしたの?」

「あれはあれでちゃんと返すよ。でもちょっと今苦しくてさ。もう少し何とかならない?」

「私だってそんなに楽じゃないのよ」

「分かってるよ。でも絵里しか頼める人がいないんだ」

「いつも遊んでるお友達は?」

「駄目だよ。あいつら、みんな俺と一緒で金ないから。頼むよ。もうすぐ仕事も始めるし、今回だけ。な?」

 絵里は手に持っていた果物ナイフをまな板に置いた。

「ほんとにこれで最後?」

「ほんとにほんと」

「嘘じゃない?」

「うん」

 絵里は台所を出て、ソファに置きっ放していた鞄から財布を取り出し、一万円札を二枚抜いた。

 昨日、バイト代として振り込まれ、生活費として下ろしたお金。

「ありがとう。絵里」

 和はそう言って受け取ったお札をすぐにポケットにねじ込む。

 そのまま絵里が何も言わないでいたら、驚くことに和は、さっき脱いだサマーニットをまた被り、リビングを出て行こうとする。

「ちょっと、またどっか出かけるの?」

「うん。友達待たせちゃってるから」

「久しぶりに会ったのに」

「ごめん。またすぐ帰ってくるよ」

「すぐって」

「大丈夫だよ」

「何が?」

「心配性だなぁ」

 そう言って和は絵里を抱き寄せ額にキスをする。

「俺が働き出すまでの間だよ。こんなん今だけだから。お金だって大丈夫。二人で働けばすぐに貯まるよ。な?」

 和の笑顔。

 世間的にはおそらく美男子の部類には入るのだろうなぁ。なんて絵里は冷静にそんなことを思う。

「うん」

 付き合い始めて三年。それで和が絵里に金を要求するようになって一年半。

 恋の熱の渦中にいるには、時間を共にし過ぎていた。そういう段階ではない。陽射しの下、自分達は現実を生きていかなければならない。

 そんなことくらい、絵里だって分かっている。

 和が出て行った後、絵里は再び台所に立ち、りんごを等分に切り分け、丁寧にガラス皿に盛り付けた。

 そこまでしたところで絵里は、りんごを切り分けたところで誰も食べる人がいないことに気づいた。

 和は出て行ってしまったし、自分は別にりんごなどこれっぽっちも食べたくない。溜息を吐くと急にガラス皿の中の切り分けられたりんご達のことを不憫に思えた。

「誰にも求められていない存在」

 なんて。

 そしてその言葉はそのまま自分に返ってきた。

 和が求めているのはお金であって自分ではない。

 絵里は気づいていた。

 昔の和はお金なんてせびらなかった。

 素直で、ただ優しい男だったのだ。

 そんなに昔の話ではない。

 二十歳を超えたあたりから目に見えて悪い付き合いが増えた。当時働いていた運送業の先輩の影響だった。

 誰にも求められていないりんご。絵里はゴミ箱を開けてそれを捨てようとした。

 でもできなかった。

 絵里はりんごにラップをかけて冷蔵庫にしまう。

 気が付いたら少し肌寒かった。絵里は再びクーラーの電源を落とす。

「ちょうどいい」ということは、何とも難しいことだ。部屋の隅に飾っていた花。クーラーの風が直撃して、花びらがきんきんに冷えていた。

 触れたら切れそうで、何だか切なかった。



 また来るよ、なんて言っていたのに、三上はなかなか絵里のいる店に現れなかった。

 別に絵里としても三上が来るのを心待ちにしていたわけではなかったのだけど、まったく意識していなかったのかと言われるとそれはそれで嘘になる。

 外は相変わらず蒸し暑くて、水割りのグラスは水滴が浮かんでいて冷たかった。そんな夜。夏。

 所詮はあの男の気まぐれか、なんて思っていたら、三上が店に現れた。

 木曜日の、もう二十三時を回る頃だった。

 本当に不意を突かれて、絵里は三上を見つけた時、思わず目を見開いてしまった。でも三上はそんな絵里には何も言わず、一瞥しただけで黙って奥の席についた。それで絵里は少しバツが悪くなって、わざとカウンターの、三上のいるのとは逆の方へ行った。

 でも、それでも気になり目が行ってしまう。

 三上は何かを飲んで、自分に付いた女の子と話していた。三上も女の子も時折笑い合って楽しそう。何を話しているのか、絵里までは聞こえなかった。

 すると隣にいた店のママが、

「素敵ねぇ。ああいう男、けっこうタイプだわ」

 何て言う。

 絵里は少し怪訝な顔をして、

「そうですか?」

「そうよ」

「私は、そんなにです」

「その割にはさっきからちらちら見てるのね」

 絵里はぼっと顔が赤くなった。

 それでママは笑って、

「分かりやすいわねぇ」

 なんて小突く。

 否定しようとする絵里の言葉を遮って、ママは絵里を三上の前まで無理矢理引っ張って行った。 それで本人は、

「では、ごゆっくり」

 なんてどこかに行く。

 最悪。

 カウンター越しに三上、女の子と絵里、という構図になる。

「ルミちゃん、こちら三上さん」

「はじめまして」

 絞り出すよう、引きつった声で言った。でも三上はそれを鼻で笑って、平然と、素面で、

「こちらこそ」

 何て言う。

「ルミ……ちゃんね」

 三上が少し笑う。

「……何か?」

「いや、眼鏡が、よく似合うね」

 それで絵里はやられた、と思ってむすっとした。でも女の子は絵里と三上の関係なんて知らないから、きゃあきゃあとはしゃいだような声で話し続ける。

 女の子は三上に少し好意を持っているように見えた。絵里はあまり話したことのない子だったのだが。というより、絵里は店の女の子達と仕事以外でほとんど話をしない。もちろん特別に親しくする相手もいなかった。

「パノラマ写真って撮るの難しいですよね」

「あぁ、携帯で?」

「そうです。さーって横にスライドするんですけど、撮り終えてみたら何だかぐんにゃりしてて」

「俺も経験ある」

 そう言って小さく笑う。

 どうせ嘘でしょ、と絵里は思う。

 三上は女の子慣れしていて、会話が上手だった。

 そんな感じで終ぞ当たり障りのない話をして、三上はじきに店を後にした。

「いい男だったわね」

 三上が帰った後、女の子は嬉しそうに言った。

 絵里は何も言わずに溜息をつく。

 勤務が終わり、絵里が外に出ると、この前と同じ位置に三上は立っていた。

「送るよ。車なんだ」

 そう言って三上は絵里の返事も聞かないまま歩き出す。

 仕方なく絵里もその背中を追った。

「お酒、飲んでなかった?」

「飲んでない。あれ、ジンジャーエール」

「……なんか似合わない」

「普段はあんなん飲まない。思っていた以上に甘かったな」

 そう言って三上は煙草に火をつける。

 三上は少し歩いた先のパーキングに車を停めていた。煙草をくわえたまま、乱雑にズボンのポケットから小銭を取り出して精算機に突っ込む。絵里は指を指された車の横に立ってそれを見ていた。

 車。おそらく三上の車。

 古く、煤けた車で、とてもお洒落とは言い難かった。指で車体をなぞると薄く埃が積もっていた。

「乗れよ」

 精算を終えた三上が車の鍵を開ける。

「うん」

 絵里は促されるままにその助手席に座った。昔の三上は車なんて持っていなかった、と思う。分からない。もしかしたら持っていたのかもしれないけど、少なくとも絵里は乗ったことがない、はずだ。多分。考えれば考えるほど記憶は曖昧になってしまうのだが。

 三上はジャケットを脱いで後部座席に投げた。

「てか家、どこなの?」

 絵里が住所を伝えると三上は短く、あぁ、と言って、車をゆっくり発進させた。

 繁華街を抜け、ゆっくりと国道に出る。

 深夜、車はまばらで、三上はあまりスピードを出さないまま車を進めた。意外と運転が上手で、あまり揺れなかった。

 三上が大きな欠伸をする。

「何? 眠いの?」

「うん? まぁ、ちょっと」

「別に待っててくれなくてもよかったのに」

「あぁ、うん」

 曖昧な返事。

 車の中は音楽もなく、会話が途切れるとほとんど無音だった。絵里はそれが少し気まずくて、窓の外を行き過ぎる車達のナンバープレートを、意味もなく見ていた。練馬、品川、なにわ、世田谷、また練馬。

「綾が出て行って、今はあの姉貴と二人で住んでんのか? 何て名前だっけ。忘れたけど」

「梓だよ。梓はもうとっくに家にいない。綾に愛想を尽かして、高校出たらすぐ家を出てった」

「そうか。うん。まぁ、仕方ないだろうな。あの姉ちゃんと綾じゃ性格が合わない。気持ちは分かるよ」

「うん」

 綾と梓は本当に仲が悪かった。

 梓が高校に上がってからは特に酷かった。ほとんど会話をしないのに、たまに会話をしたらすぐに喧嘩。梓は綾の奔放なところが大嫌いだったし、綾は綾で、梓の生真面目な性格が気に食わなかった。顔立ちだって、二人は全然似ていない。

 二人の喧嘩は、どっちもどっちなところもあったが、絵里としては綾の方が悪い部分が多いと思っていた。なんせ、思春期真っ只中の娘が二人もいるのに、平気で代わる代わる男を連れ込むし、場合によっては数日間泊めたりもするのだ(でも半年もいたのは三上くらいだった)今思い返しても家庭内の風紀は乱れていた。梓が怒るのも無理はない。

 梓は高校を出てすぐに就職して、今は関西に住んでいる。

 最近も、たまに絵里に電話をかけてくる。

 ひとしきりの近況報告のあと、梓は必ず綾のことを言う。

「絵里、悪いことは言わないからあんたもあんな女とは早く関係を断ちなさい」

 そんなことを言われても、絵里としては今は綾から手紙を一方的に受け取っているだけで、関係を断つも絶たないもないので何とも言えないのだが。

 綾からの手紙はいつも送り主の住所が書かれていなかった。封筒の裏にぽつんと小さく名前が書かれていているだけ。そんな手紙だった。だから返事も出せないし(出そうと思ったことなんて一度もないけど)関係は完全に一方通行だった。

「それで、綾もいないなら今は一人で住んでんのか?」

「一人ではないけど」

「男か」

 絵里は何も答えなかった。

「お前も一丁前になったな」

 三上が笑う。

「いくつになったんだ?」

「二十二」

「もうそんなになるのか」

「うん。三上、さんは?」

「俺は四十九。お互い歳取ったな」

「そうね」

 十の少女と三十七の男だったのだ。それが十二年も前のことなんて、絵里は信じられなかった。

「ちょっと寄り道」

 そう言って三上がハンドルを切る。

 絵里は何も言わずにそれに身を任せた。

 向かった先は橋の上で、誰もいなくて、その下を高速道路が通っていた。三上は車を端に寄せて停める。

「降りてみろよ」

 そう言って車を降りていくから、絵里も言われた通りそれに続いた。

 二人並んで橋の上から高速道路を見下ろす。

 風が気持ちいい。

 髪を晒して、抑える。

 三上は大きな掌で庇ってライターを擦った。

 夜なのに、高速道路をたくさんの車が通り過ぎて行く。

 ヘッドライトと微かなブレーキランプ。

 それがイルミネーションのように、ずっと向こうの方まで続いていた。

「どう?」

 煙草の煙を空中に吐いて三上がそう聞くから、

「大きな川みたい」

 と、絵里は正直な感想を言った。

「いい例え」

「よく来るの?」

「まぁ、たまに」

 三上は橋の手すりの上で腕を組み、その上に顎を乗せた。

「良いだろ? なんか」

「うん。良い」

「見ろよ、あっちの方」

 そう言ってずっと遠くの高速道路の先、地平線を指す。細まった道の向こう、零れ落ちるように小さな光が順々に消えていく。

「あの、ずっと向こう、光が消えた先にもここと同じように世界があるんだぜ」

「うん」

「それって何だか不思議だと思わないか?」

「分かんない。どうだろ」

「目に見えないくらい遠くにもちゃんと生活がある」

「うん」

 絵里も腕を組んで、三上と同じポーズをとる。

 覚えていたい景色だな、と絵里は思った。でも多分、そんなことはできないのであろう。降り積もる雪の白さをしっかりと覚えておけば良かった。夏になるといつもそう思う。それと同じで。

 しばらくそうして流れ行く光の川を見ていた。生活。あの向こうにも。もしかして三上は綾のことを言っているのではないか、と絵里は思った。何も言わなかったけど。

 三上は、家の近くまで絵里を送り、エンジンも切らずにそのまま走り去って行った。

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