第七十話:提督令嬢の闇と光
「はい? 王……ですの?」
俺の質問に、アステルは少しだけ目を丸くした。
「ああ。貴族がいるなら、それを任命する王がいるはずだからな」
もともと爵位とは王が与えるものだ。
それが気になって、俺はアステルの執務室を訪れていたのであった。
「ええ、もちろんいらっしゃいますわよ」
アステルは、朗らかに答える。
「この城郭の最上階、通称紫禁の間にいらっしゃいます」
「その王が、ここの船団の政治を執り行っているのか?」
「いいえ? 政治はわたくしの父、ステラローズ公・チクロ・パーム元帥が執り行っておりますわ」
……ん?
「では、もしや隠居というのは――」
「ええ。政治の世界に転回することを指しますわ」
まるで今日のお茶会に出てくる茶菓子を当てるような気安さで、アステルはそう言った。
「では、その王は――」
「王は、政治、防衛、その他あらゆることから離れられておりますの」
「それは……」
本当に王なのか? という言葉を俺は飲み込んだ。
「その先は、マリウス大佐とてお聞きにならない方がよろしいですわよ。我が船団の、血生臭い歴史など、知りたくもないでしょう?」
「ああ……そうだな」
それは、暗に聞くなと言うことなのだろう。
いったい何があったのかは知りたいところであったが、俺とて勇者に負け封印された魔王だ。
領土も部下も装備も、なにもかもを喪った俺に比べれば、その立場が残されているだけでも十二分に感じられる。
たとえそれが、形式上のものだとしても。
「しかしそうなると、この船団は実質上ステラローズ公が取り仕切っているのか」
「ええ、そうなりますわね」
「ということは、いずれアステルも?」
「ええ。わたくしも結婚し、子を成して、その子が充分に成長すれば、晴れて政治の舞台に飛び込みますわ!」
まるでそれが待ち遠しいとばかりに、アステルは両手を組んで言う。
「では、この船団すべて掌握して、アステルは何をしたい?」
「それはもう、決まっていますわ!」
マントのように上着を翻して、アステルは宣言した。
その下のきわどい水着がみえることなど、おかまいなしに。
「新しい血をとり入れて、新しい風を吹かせますの!」
「風……か」
「ええ、歴史を振り返るまでもなく、貴族の政治というものは腐敗を呼び込みます。現にわたくしたちの船団も一度は傾きかけたくらいですもの。だからこそ——」
執務室から見える景色を眺めて、アステルは一呼吸置く。
そこには中枢船を起点に、大小様々な船が行き交っていた。
「だからこそ、わたくしたちは自らを律して、改めるべきところは改めて、ことにあたらないといけないと思いますの。それこそが、貴族の責務というものでしょう?」
「そして子々孫々まで繁栄させたいと?」
「そこまでは責任は取れませんわ。せいぜい孫までといったところでしょう。でも、それ以降はその時の当主が、責任を持っていればよいのです。それができなくて腐敗していくのなら……それはもう、仕方のないことですわ。でも今は——やるだけのことをやらねば」
「あぁ、そうだな。その通りだ」
アステルの言うことは、眩しいけれど、正しい。
もしも俺が人間に反旗を翻す前に、そう言う心持ちでいれば——魔族は今も、この海のどこかで国という体制を保てていたのかもしれないのだから。
「だからこそ、新しい風を吹かすための新しい血——か」
「ええ。マリウス大佐なら歓迎致しますわよ?」
悪戯っぽくわらって、アステルはそう誘う。
「遠慮しておこう。クリスの父親には敵いそうにないからな」
「あら、ご謙遜を……マリウス大佐もおじさまには後一歩ほどで追いつきますわよ?」
「聞くかぎりでは、その一歩が遠いみたいだがな」
「そうかしら……でも、もしかなうのでしたら、おじさまの細くとも逞しい両腕に抱きしめられ、愛を囁かれたかったですわね——」
「なに気色の悪いことを言っているんですか」
当の娘が、かなりのふくれっ面でそこにいた。
「あらクリスさん。アリスさんのお料理教室はもう終わりましたの?」
「ええ。先生が非常に優秀な方ですから! それよりうちの父を捕まえて抱きしめられるなど愛を囁かれるなど言わないでもらえますか!」
「そんなことをいわれましても、わたくしにとって、おじさまは理想の異性すぎて大変ですの」
「勝手にひとの父親を理想の男性像にしないでください。……まぁ、気持ちはわからないでもありませんが」
「もしご存命でしたら、今頃結婚を申し込んでいたかもしれませんわね」
「ちょっ!? 私はいやですよ、三歳しか違わない義理の母親なんて!」
「あら、わたくしだって義理とはいえ十二歳の娘は困りますわ。三歳で出産したなんて噂が立つにきまっていますもの」
「そんなのこっちだってごめんです!」
そのままきゃいきゃいとはじめるふたりを、遅れて入ってきたアリスが楽しそうに眺めている。
「仲がいいですよね、クリスちゃんとアステルさん」
「ああ、そうだな」
かたや、貴族の責務に縛られながら新しい風を吹かそうとしているアステル。
そして一方でその地位を継がざるをえない状況に追い込まれながらも、その責務を果たしているクリス。
そのふたりがこうして元気に騒ぎあっていると——。
「あのふたり、本当に姉妹だったらよかったのにな」
「よくありません!」
「よくありませんわ!」
ぴったりと息を合わせて抗議するクリスとアステルに、俺は静かに頬を綻ばせたのであった。




