第六話:君の名は
エラの代わりに二本の触手があり、魔族の子供くらいの大きさを誇り、おまけに謎めいたうめき声をあげる魚。
アリスはそれを高級魚とは言ったが、にわかには信じがたい。
さらに付け加えると、料理器具は一通り揃えた——というか作った——が、調味料の類は塩しかないので必要最低限の料理しかできないと思っていたのだが——。
「どうでしょう?」
はじめてみる得意げな表情を浮かべて、アリスはそう言った。
さきほどまで一切迷いを見せずに巨大な魚を解体していたのもすごかったが、それを見目麗しい料理にしてしまうのは、もっとすごかった。
そう、急ごしらえで作った食卓の急ごしらえで作った皿の上に乗っているのは、どう見ても白身の魚を焼いたものだった。しかも、身を小麦粉をまぶして焼いたかのように、黄金色の焼き色が付いている。飾りや付け合わせがないことを除けば、儀礼的に行われていた(何しろ俺をはじめとする高位の魔族は食事を必要としないので)晩餐会で出てきてもおかしくない。
ちなみに、身が大量に余ったので一部は干し魚にしてある。アリス曰く、ちゃんと作れば立派な交易品になるらしい。それでも余った部分はできたが、それは急遽冷凍庫を作り、そこに貯蔵させるようにした。
これで当分、あの名状しがたい魚を釣る必要はないだろう。
それは俺の精神衛生上、非常に好ましいことだった。
「職を探していると言っていたが、もしかすると料理人志望か?」
「はい。どこかの大きな船の食堂で、雇ってもらえればいいなって思っていました」
なるほど。確かにこれほどの腕前なら料理の道でやっていけるだろう。
「それよりも、いただきましょう。熱いうちに食べないと」
「あ、ああ……。そうだな——」
ふと、元の名状しがたい姿が脳裏をよぎり、切り分けたナイフの手が止まる。
が、封印されていたとはいえ俺は魔王。人間の娘に遅れを取ったとあっては、後世の笑いもの(今現在がその後世だが)になりかなねい。
そんな端から見ればくだらない矜恃によって、俺はアリスとほぼ同時に、よく焼けた魚料理を口にしていた。
……。
ふ。
ふは。
ふはは!
ふははは! ふはははは!
ハハハハハ! ハーッハッハッハァ!
「美味い……」
表面はぱりっと焼き固められていながらも、中身は柔らかく、噛めば肉汁があふれてくる。
塩加減も絶妙で、それだけを使用したはずなのに複数の調味料を使ったかのような味付けになっていた。
ただし、鶏肉と全く同じ食感なのが、解せなかったが。
こればかりは調理の腕前ではなく、食材の特性なので無視しておく。
「本当に、腕が良いのだな」
「竈のおかげですよ。こんなに火力を細かく調整できるのもの、初めて使いました。おまけに薪も炭もいりませんし」
「使っているのは蒸気だからな」
動力炉の排熱を利用し、汲み上げてた海水を加熱しているだけだ。
ちなみに、残った塩分はそのまま調味料として使えるようにしてある。
『いいなー。大将、オイラにも、ものを食える機能つけてくれよ』
「技術的に可能だとわかったらな」
現状は未知の領域で、できるできないすらわからないため、そう答えておく俺であった。
「ふむ——」
食事を終えた俺は、甲板の上に座り込みひと息ついていた。
釣った食材こそアレであったが、真っ当に食事をしたのはいつぶりだろう。
人間と全面的な戦争に突入してからは、まったく摂っていなかった気がする。
そういえば、誰かと一緒に食事をするというのは、晩餐会以外では、はじめてではないだろうか。
アリスの方は特に変わった様子はなかったから、ああいう食事が普通の風景なのだろう。
「文化が違うな……」
汐風にあたりながら、そう呟く。
そういえば、汐風の匂いを感じたのもずっと昔、沿岸部の視察に出向いたとき以来だった。
「あの、隣いいですか?」
振り向くと、アリスが遠慮がちにこちらを見下ろしていた。
「ああ、構わないが」
俺がそう答えると、アリスは再び遠慮がちに、俺の隣に座る。
「あの、いままで考えていたんですけど」
「なにをだ」
「あなたを、なんと呼べば良いかです。その……マリウスさん、でよろしいですか?」
「好きに呼べばいい」
そも、本名は長すぎるうえに途中で一部魔法が入る。
魔族、それも魔王にもなると本名そのものが一種の権威を表すようになるからだ。
だから、俺の本名は魔族ならともかく人間には決して理解できないし、言葉にすることもできない。
いままではそれに対してなんとも思わなかったが、今は不思議なことに、少しもどかしく感じていた。
「わかりました。では、マリウスさんで」
マリウスさん、か。
そんな風に、呼ばれるのは、本当にはじめてだった。
かつて。
俺は人間からは魔王、臣下からは陛下と呼ばれていた。
友人がいなかったわけではないが、私はともかく公では俺に並ぶものはいなかったため、名前で呼ばれる機会はほとんどなかったといっていい。
——友人。
何人かは、俺より先に戦死してしまった。
もう何人かは、非戦闘員の避難の指揮を取ってもらい、俺の許を去っていったが、無事逃げおおせただろうか。
それすら、今となっては確認するすべがない。
「遠い目、してますね」
「そう見えるか」
「はい。まるでもう帰れない故郷のことを考えているみたいでした」
「それは——」
そうだ。アリスも故郷を喪っていたと言っていた。つまり、
「お前も、そんな目をしていたことがあったか」
「はい。ありました。だからわかるんです。なんとなく……ですけど」
「ふん——その感覚、大切にしておけ。まっとうな何者かでいられる、重要な要素だからな」
魔族であろうと人であろうと、なにかしら心のよりどころにしているものがある。
それがなくなったとき、どちらの種族も生きながらにして死兵となる。
そんな光景を、これまで何度も見てきた。
「マリウスさんって、優しいんですね」
優しい?
この俺が?
思わず苦笑する。
「買いかぶりだ。俺はそこまで器用じゃない」
「それじゃあ、マリウスさんのことを教えてください。どうして石の中にいたのか。手のひらの上に色々なものを生み出せるのか。そしてわたしの知らない色々なものを作れるのか。それがわかれば、マリウスさんが言う器用か、器用じゃないかがわかると思うんです」
「……面白いことを言うな、お前は」
「それだけが取り柄ですから」
「俺から言わせて貰えれば、料理の腕の方が取り柄に見えるがな」
「みんな、そう言うんですよね」
「ちがいない」
そこでほぼ同時に、ふたりで笑う。
純粋に笑ったのも、いつぶりだっただろうか。
それすら思い出せないが、不思議といい心地だった。
『あー、大将? いちゃいちゃしているところ悪いんだけどさ』
誰がいちゃいちゃしていたというのか。思わず反論しそうになった俺だが、二五九六番の次の言葉でそれを飲み込むことになる。
『船だ。向こうはまだ気付いてない』
おでましか。
俺はゆっくりと立ち上がる。
「なにをするんです?」
「商売だ。相手が真っ当なら」
当初は武力を売り込むつもりだったが、今は干し魚がある。なんだったら、冷凍した切り身でもいいだろう。
「真っ当でなかったらどうするんですか?」
「それはもちろん——」
かつて、人間と戦うと決めたときのように、俺は笑って言う。
「海賊だ」