第四十一話:疾走する司書長
「……あの、マリウスさん?」
アリスの声で、ふと我に返った。
雷光号の船室。長椅子の上。
あれから——海の下の街で俺のことを忘れないと言ってくれた碑文を見てから——どうにも気が抜けてしまう俺がいた。
「大丈夫……ですよね?」
「ああ——といいたいが、はっきり言って自信がない」
「どうしてですか?」
「民の期待に——答えられなかったからだろうか」
少なくともあの記念碑が建てられるまで、魔族は俺の復活を待っていたのだ。
そのあと記念碑が撤去されていなかったことを考えると、あの街が海に沈むその瞬間まで、待っていてくれたのかもしれない。
だとしたら……遅過ぎた。すべてが、遅過ぎたのだ。
「そんなことないですよ。魔族のひとたちはきっと、マリウスさんが帰ってくる『こと』を待っていたんです。いつかなんてことは考えていなかったと思います」
「そう……だろうか」
「そうです。だから、マリウスさんが帰ってきたいま、マリウスさんがそれを気に病む必要はないんですよ」
「そうだと、いいな……」
「ほら、元気出してください。いつもみたいにふははははって」
……ふ。
……ふは……。
……ふは……はぁ……。
「もう……本当に大丈夫ですか?」
「だめかもしれん」
我ながら、ここまで気力が削がれたのは初めてのことであった。
「それじゃあ——膝枕、しましょうか?」
「何故だ?」
「なぜといわれても……わたしがそうしたくなったからです」
「……わかった。好きにしてくれ」
「では、失礼しますね」
アリスが長椅子の上に座る。そのしなやかな脚に俺は後頭部を預けた。
そういえば、ここ最近アリスはずっと水着姿だった。
いまもそうだ。
それゆえ、アリスの太腿に直に頭を預けていることになる。
普段なら気恥ずかしくなるところであったが、今は不思議と落ち着いた気分になる俺であった。
「どうします? クリスちゃんに頼んでもう一度あの街に行きますか?」
「いや、それには及ばない……」
過去を振り返るのは、悪いことではない。
だが、物事には限度がある。
そもそも、あそこに入り浸っても満たされるのは俺の心だけであって、あの記念碑を人間にばれる危険性をおしてまで建ててのけた魔族のためにはならないのだ。
やはり、ここは俺が動かねばならない。
「……ありがとう、アリス。おかげで少し気が楽になった」
「それはよかったです。もう少し、このままでもいいですよ?」
「ああ、頼む……」
『いや、あー……腑抜けた大将はともかくとしてもよ、嬢ちゃんには悪いんだが』
「腑抜けたは、一言余計だ」
「それより、どうかしたんですか」
『小さい嬢ちゃんが来た。水着じゃなくて制服』
それは仕事を依頼する合図だ。俺は即座に身を起こすと、居住いを改める。
「通してくれ」
『あいよ』
二五九六番の返事とほぼ同時に、クリスが船室に入ってきた。
「こんにちは。いつも思うんですけど、自動扉ってすごくないですか?」
「この船はほぼ丸ごと発掘品だからな」
実は元々知性がある方の海賊なのだが、それはクリスにとって明確に敵なので、俺はそう誤魔化す。
「仕事か? そろそろ身体を動かさないとまずいと思っていたからありがたいが」
「いえ、残念ながら。それよりも今日は図書館からの出頭要請です」
「もしかして、俺が碑文を読めたからか?」
「はい。以前お話しした通り、司書長が食いつきました。お忙しいかもしれませんが、私と一緒に来てもらえますか?」
「ああ、構わない。アリスは?」
「わたしも一緒にお邪魔したいんですけど……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。私が必ず一緒にいればだれが来てもいいそうですから」
クリスが……? 身元保証人ということだろうか。それにしても、少し具体的すぎるようにした。
「いまからか?」
「はい。できればとのことです」
「わかった。アリス、行くぞ」
「はい」
そういうわけで、雷光号を後にする。
「少し気になったのだが、司書長とは? 図書館の館長なら、わかるのだが」
「意味は一緒ですよ。ただ、護衛艦の艦長と被るので司書長という肩書きになっているんです」
「なるほどな」
なんでも、船団の文献・記録の全てを管理するのが図書館であり、その長である司書長は、護衛艦隊の司令官であるクリスと同格の身分であるらしい。
「少し破天荒な方ですが、いいひとですよ。私が護衛艦隊の司令官を継ぐことになった時、真っ先に賛成してくれたのも司書長なんです」
「それは、先見の明だな」
当時何も実績のない子供を推せるほどなのだ。相当の人物であろう。
「着きました。図書館です」
クリスが指差す先は、中枢船の島型艦橋、その後ろ側であった。
「艦橋の前方が行政、後方が情報処理にあたる図書館ということか」
「はい。護衛艦隊は基本的に港湾部と旗艦がその中枢ですから、ちょうどよく分立していると言えます」
「なるほどな」
護衛艦隊だけでなく、船内の自警組織も一身に担っていると聞いた時は、少し集中しすぎていないかと思ったものだが、行政と情報管理とは切り離されていると考えれば妥当なのかもしれない。
「階段が続きます。足元に気をつけて」
「アリス、先に行け」
「あ、はい。ありがとうございます」
クリスが先行したので、俺はアリスを先に行かせる。
こうすれば、万一アリスが足を踏み外してもすぐに受け止められるだろう。
「……しまった」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
ただ階段を上る際、目の前に水着に覆われたアリスの腰があるので視線のやり場に困る俺であった。
それはさておき、狭く、急な階段を登りきる。
「これは……」
「すごいですね」
後部艦橋——といってもそれだけでクリスの『バスター』半分ほど、つまり雷光号数隻分の広さがあるのだが——の中身は、丸ごと図書館となっていた。
壁面という壁面、柱という柱を本棚が覆い、その中央には螺旋階段が天井まで伸びている。
「ここは閲覧室ですね。ここまでは特に許可がなくても入れます。暁の淑女号のドロッセルさんも、よく利用されていますよ」
と、クリス。確かに今も、住民と思しき人間が、おもいおもいの本を点在する机の上で読んでいる。
その奥には、大きな部屋があり、数名の人間が作業をしていた。
空いた扉から見えるのは、輪転機? だとすると……。
「印刷所か、あれは」
「はい。船団の広報や、新聞を取り扱っています」
思っていたよりやっていることの多い図書館に驚きながらも、クリスの先導で先に進む。
中央の螺旋階段を登りきると、そこには神官のような服装をしていた二名の衛兵がいた。
クリスが敬礼する。すると、衛兵は彼ら独自の礼をして、守っていた扉を開ける。
扉の向こう側は、また図書館になっていた。
ただし、下の階のように整っておらず、あちこちに小さな本棚が乱立している。
そして、個室と思しき部屋があちこちに並んでいた。
「司書長室はこの通路の奥です」
クリスに導かれて、奥へと進む。こちらは下の階と違って、利用者の姿もなく、また他の図書館員とおぼしき人員ともすれ違わない。
「司書長ですが、本当に破天荒ですけど、いい人です。驚かないでくださいね」
「安心してくれ。そういう人間には慣れている」
俺がそう言い終わる前に、奥の部屋から声が響いてきた。
「あああああああ! クリスちゃんかーわーいーいーのおおおおおおおお!」
……。
「ああああああ! もうすぐクリスちゃんがきちゃう! 来ちゃう! きーちゃーうーのおおおおおお!」
……なんだ、これ。
「今日のクリスちゃんはどんな格好かしら! 私生活用の水着も尊いけど、やっぱり制服姿が尊すぎて心臓止まっちゃう! ああ、クリスちゃんはやくきてええええええ!」
「来ましたよ、司書長。クリスです」
その扉をノックして、クリスはそう言った。
途端、ものすごい音が響いた。
まるで、なにかを同時に片付けているかのような、そんな轟音だ。
「——いらっしゃい、クリスタイン提督。お連れの方もどうぞ」
「では、失礼します」
扉の向こうからの狂態にも轟音にも気を留めず、クリスが入室する。
止むを得ず、俺たちも部屋に入ることにした(入りたくなかったが)。
部屋は、いままでの図書館のつくりとは相対的に、質素な作りだった。
ただし、机は頑丈かつ大きなものが設えてあり、その上やその周りには、明らかに古い書物と思われるものが、雑多に並んでいる。
そして、その椅子に座っているのは。
「フッ……思ったよりずっと早かったわね、クリスタイン提督」
背の高い美女がいた。
長い髪を綺麗に切りそろえ、この図書館の制服の上にさらに白衣を羽織っている。
「はい、マリウス船長から、思っていたより早くお返事をいただけましたので」
「そうだったの、さすがはクリスタイン提督。時間の創出がうまいわね」
「ありがとうございます。ニューフィールド司書長」
「……ぁ」
「はい?」
「あああああ! やっぱりクリスちゃんかわいいいいいいいい!」
「ちょっ!? お客さんの前ですよ!?」
「もうがまんできないのおおおおおお!」
「えええ……」
クリスが呆れたような声を出す。
俺も、同じ声を出したかった。
大丈夫か? この司書長……。




