神官長と現聖女の場合
第一神殿、東の区画にある現聖女の応接室。
据え付けられた石造りの暖炉で、火のついた薪がパチパチと音を立てている。
「失礼します」と神官長が足を踏み入れると、現聖女――サーシャが、真鍮の飾りがついたソファーに座り、一人で紅茶を飲んでいた。神官長を見て微笑む。
勧められて向かいに座ると、侍女であるオリビアが銀の盆に載せて紅茶を持ってきてくれた。湯気の立つカップと砂糖の入った小さな壺をテーブルに置く。
後ろからついてきたのは聖獣ペンギンだ。確か名前は――。
「サンダーグリフォンですよ」
聞きたい事がわかったのかサーシャが言った。
そうだ、サンダーグリフォンだ。どうしてこの名前にしたのか、神官長には未だに謎でしかないが。
ヨタヨタと歩くサンダーグリフォンの頭には、つる植物で編んだ小さなかごがのっていた。中には様々な形の焼き菓子が詰まっている。
オリビアの手伝いをしているのだろう。だが歩くのが遅いので、すぐそこにいるのに、なかなか近づいてこない。おまけに両翼でバランスを取り、体を左右に振って歩いてくるので、そのたびに中の焼き菓子が軽くはねる。
神官長はハラハラしたが、サーシャもオリビアも至って普通に見守っている。
やっとペンギンがテーブルの許までやってきた。
「ありがとう」
サーシャがかごを取ると、ペンギンはやり遂げたという誇らしげな顔で、嬉しそうに翼をバタバタさせた。
オリビアとペンギンが一礼して出て行く。
ほんのりとミントの香りがする紅茶をゆっくりすすっていると、
「『新』聖女はどうですか?」
と、リズの事を聞かれた。
「頑張っておられますよ。リズ様は動じないところがいいですね。失敗しようが忘れようが堂々と間違えるので、周りは間違えた事に気がつきません」
「……それはいい事なのですか?」
サーシャが複雑そうな顔になり、それから笑って続けた。
「神官長、私はもう『現聖女』ではありませんよ。役目を終えて、今は『前聖女』です」
「そうでしたな。私ももうすぐ『前神官長』となりますからね」
次期神官長に決まったロイドとの交代式が目前に迫っている。
サーシャが微笑んだ。
「代わるのが早いと、ロイドはぼやきませんでしたか?」
「早過ぎると未だにぶつぶつ言っております。神官たちも仕事が増える日が近いと青ざめておりますな」
「そうでしょうね」
窓から差し込む暖かい日の光が、敷かれた絨毯の上で長細く輝いている。
いい人生だ。心から思った。
ずっとサーシャの側にいられて、今もこうして一緒にお茶が飲めて。
リズとロイドといういい後継者がいて、立派な神官たちがいて。
「どうかしましたか?」
サーシャが顔を上げた。
「いえ、幸せだなと思いまして」
「おや偶然ですね。私もそう思っていたところですよ」
満ち足りたように笑う。
(いい笑顔だ)
神官長として仕えて五十年。こんな笑顔を見られるのは、きっと今まで頑張ってきた事へのご褒美なのだ。
(初めて会った時は、この方がこんな顔をする時がくるとは思わなかったな)
今からおよそ六十年前に行われた前聖女選定。最終選定まで残ったのはサーシャと、サーシャのふりをして王宮でリズとキーファに化けの皮をはがされた偽の聖女の二人だった。
当時サーシャはわずか八歳で、偽の聖女も九歳。十歳に満たない子供二人が残った事は、神殿にも王宮にも大きな衝撃を与えた。
その時は神官長もまだ七歳の見習い神官だったから、選定の様子を直接見る事はできなかった。人伝いに聞いただけだ。
だが見習いの自分と同じ年くらいの少女が聖女に選ばれた事は衝撃だった。
しかし聖女に就任した後、サーシャはよく泣いていた。
サーシャの前の聖女は子だくさんだった事もあり、サーシャへの教え方はとても優しかったが、八歳の子供にこなせる仕事内容と量ではない。神がかった力と素質を見込まれたようだが、まだまだ遊びたい盛りだ。
それに中流貴族の令嬢だったサーシャが、両親から説得され了承したとはいえ、一人離れて神殿で暮らすのはつらい事だったろう。
その頃の神官長といえば見習いとして雑務をこなすだけだった。ベルベット地の青い神官のローブの裾をはためかせ、書類を届けたり言伝を頼まれたりして神殿中を走り回っていた。
そんな時、
(ん?)
通路を走りなら進んでいると、不意に中庭のすみの草むらが揺れた。タヌキかイタチか? いや神殿の中庭にそんなのいないだろう。
近づくと、草のかげに震える小さな背中が見えた。そして着ている白い服が、すぐに聖女のローブだと気づいた。
(聖女様!?)
驚いて立ち止まる。気配を感じたのかサーシャが振り返った。
涙のたまった泣き顔は、普通のそこらにいる女の子のものだった。
「あの、頭でも痛いんですか?」
驚き過ぎて変な事を口走ってしまった。
「……痛くありません」
「では歯が痛むんですか?」
「いいえ」
「では耳か鼻が――」
「なぜ顔周辺ばかりなのですか?」
不審そうに聞かれた。
その通りだなと後で思ったが、その時は何を口走っているのか自分でもわからないくらい驚いていたのだ。
それからもちょくちょくサーシャを見かけた。お供の神官たちを引き連れて歩いていたり、聖堂で祈りの準備をしていたり。神官長は不思議とサーシャの姿をよく見つけた。
「よく会いますね」
サーシャも同じだったらしい。最初は会うたび不思議そうな顔をしていたが、だんだん慣れてきて神官長を見つけると笑ったり手を振ったりしてきた。
そのうち親しく話すようになって、お茶の時間に出されたお菓子をサーシャはこっそり紙に包んで、神官長にくれるようになった。
草むらの陰で二人で隠れながら食べたクッキーや水飴の味は未だに忘れられない。
クッキーはほぼ割れていたし、焼き菓子はへこんでいたし、水飴に至っては入れた壺の内側に張り付いていて、なかなかとれなかったけれど、あの時に並んで食べた菓子よりおいしいものはないと思っている。
見習いだった神官長が、サーシャに仕える「次期神官長」に決まったのは、それから十年後の事だ。十七歳の時だった。
神官長の父は幹部神官の一人である。そのため幼い頃に神殿へ預けられて育った。
けれど特別扱いなどされた事はないし、神官長本人も身分に驕る事なく見習いとして、そして正神官として着々と神官の道を歩んできた。そんな努力家の神官長に、周りの目は優しかった。
まあ若すぎると一部からは反対の声もあったようだが、サーシャと二人でよくいて、何よりサーシャが楽しそうにしているのを神官たちは見ていたのだろう。
「現聖女サーシャ様、この者が次期神官長です」
サーシャは誰が次期神官長になるのか全く知らなかったようだ。だから緊張したように体も顔もこわばっていた。それが、
「……あなたですか」
神官長を見た途端、安心したように力が抜けた。そしてニヤリと笑った。
「私です」
神官長もニヤリと笑い返した。
それで充分だった。
それから二人で頑張った。本来なら神官長が聖女を支えないといけないのに、サーシャの方が就任年数も十年以上早い。
いつもサーシャに頼りっぱなしで、ただひたすら追いつきたいとその一心だった。
そんな中、ただ一度だけサーシャがぽつりと漏らした事がある。
「聖女をやめたいのです」
神官長はとっさに返事ができなかった。
サーシャがハッとしたように「冗談ですよ」と慌てて笑ったが、冗談ではないと痛いほどわかった。
「じゃあ、やめましょう。私も仕事が多すぎて神官長が嫌になってきたところです。一緒にやめてしまいましょう」
気がつくと勝手に口が開いていた。
サーシャが顔をゆがめ、吐き捨てるように言った。
「冗談はやめてください。やめられるはずがない」
「次期聖女選定と次期神官長選定を今すぐに行うんですよ。幹部の神官たちを丸め込み――いえ、掛け合ってまいります。それか神殿を爆破してもいいですよ。サーシャ様と私が二人でいる時に、聖堂でもドカンと。そうすれば死んだと思って諦めて次の聖女たちを探してもらえますよ。どちらがいいですか?」
「……簡単に言いますね」
「やると決めるまでが色々迷って辛いのです。やると覚悟を決めたなら、意外にヒョイヒョイッと簡単にいくものですよ。それに爆破は不幸な事故ですから。仕方ありません」
誇張なしの本音だ。
サーシャの黒い目が静かに揺れた。神官長を見つめたまま揺れて揺れて、やがてゆっくりと目を伏せた。
次に顔を上げて浮かべた笑みには、今まで見た事のない色が宿っていた。
――今ならわかる。あれは掛け値なしの仲間意識、そして最上級の信頼だった事を。
「いいですね。次に私がやめたいと言ったら、ぜひお願いします」
その時は、お願いされた事が幹部神官たちに掛け合う事なのか、それとも爆破なのかはわからなかったが、サーシャの言う「次」はそれ以来一度もこなかった。
――「神官長と過ごして五十年が経ちましたね」
穏やかなサーシャの声で我に返った。そうだ。ここはサーシャの応接室だ。
「お互いに年をとりましたからな。私の髪の毛もです。当時は黒々としていてフサフサでした」
「そうですね」
かわいそうな目で見られてちょっとショックを受けた。
サーシャが笑う。
「そんなに落ち込まなくても。いいじゃありませんか。私は神官長のその頭が、けっこう好きですよ」
「それは嬉しい事を」
「明日もお茶を飲みにきますか? またサンダーグリフォンが一緒に運んできてくれますよ」
「オリビアには言えませんが、なんとも斬新な名付けですね。そういえば今さらですが、聖獣黒ヒョウの名前を教えてもらっておりませんな。何というんですか?」
「……秘密です」
めずらしく言いにくそうに視線をそらしたサーシャに、思わず笑ってしまった。
「何を笑っているのですか」
「いえ。聞かなくても私は黒ヒョウの名前に見当がつきます」
「まさか」
「ずっと一番近くにおりましたから」
「……何だと思うのですか?」
「明日のお茶の時間に教えましょう」
「……」
見事「クロ」だと言い当てて、目を見張ったサーシャが「……ずっと一緒にいましたからね」と嬉しそうに微笑むのは、翌日の午後の話――。




