70 戴冠式
戴冠式当日は、あいにくと朝から曇り空だ。
窓から顔を出した神官長が、「残念だのう」と惜しむようにつぶやいた。
戴冠式が行われる大聖堂は、第一塔門を抜けて左に曲がった広い参道の先にある。
横に長い階段を十段ほどのぼると、重厚な正面玄関。そこから天井の高い聖堂内に入れば、ちょうど正面に当たる奥に、一段高くなった主祭壇がある。
アーチ状の半円形の天井には、一面色鮮やかな絵画が描かれ、壁伝いに並ぶ何本もの柱には細かい細工がなされていて、息を呑むほど美しい。
中心部を丸くくり抜かれた天井にも、主祭壇の反対側の壁の上部にも大きな窓がいくつもあるため、曇っていても中は明るい。
柱の前に置かれた何体もの精巧に彫られた石像、見る者を釘づけにする美しい壁画、柱の真ん中にはアストリア国の象徴と神殿の文様が彫られていた。
拝廊の両脇には何十もの長椅子が並び、すでにぎっしりと正装した王族や貴族が座っていた。
その長椅子だけにはとても入りきらず、両側や入口近くまで人々が押しかけている。まさに芋洗い状態だ。
皆必死に首を伸ばし、主祭壇にいるリズたちを一目見ようとしていた。
主祭壇上でリズは観衆に背を向けて立ち、現聖女と向かい合っている。その後ろには天蓋つきの豪華な椅子が数脚置かれ、一番前に国王、その後ろにキーファと直系王族たちが座り、式を見守っていた。
人々が見つめる中、すでにリズの宣誓と香油による洗礼は終わった。
神官長からリズに聖女の杖が渡される。リズは大きな白い石が埋め込まれた自分の背丈ほどもある杖を、一礼して受け取った。
「緊張はしておらぬようだな。よかったよ」
神官長から笑顔でこっそりとささやかれたが、そんな事はない。リズは緊張していた。ものすごく。ただ表情に出ないだけで。
「やはり聖女に選ばれる者は違うな。見ろ、あの落ち着きを」
「本当だな。こんな大舞台でも全く動じていない。素晴らしい。アストリア国の未来も明るいな!」
並ぶ貴族たちが感心したように話している。そんな中――。
(あれ? 杖は右手に持つんだっけ? 左手だっけ?)
事前に言われたのだが、ふと忘れてしまった。緊張のせいもあるだろう。どちらに持つのか決まっていた。どっちだっけ? と無表情で懸命に考える。
「次期聖女さまの動きが止まったぞ。どうしたんだ? まさか何か不手際が?」
「バカだな、そんな訳ないだろう。あの落ち着き払った表情を見ろ。あれも戴冠式の一部なんだよ。間をとって盛り上げようとされているんじゃないか」
(よし、右手!)
そうだった気がして右手に杖を持ち、目の前の現聖女を見上げた。
「逆です」
左手だったか。内心しまったと思いながら、さりげなく杖を持ち換えた。
リズの行動の意味がわかったのだろう、椅子に座ったキーファが下を向いた。焦げ茶色の髪と肩章が震えている。笑っているのだとわかった。
リズはますます無表情になった。主祭壇の横で、神官たちと並ぶロイドも笑っているだろうと察しがついた。おそらくキーファとは違って遠慮なく。
国王が椅子から立ちあがり、リズの許へと近づいてきた。大臣が絹の布織物を両手で掲げる。そこに載せられた贈り物の腕輪を取り、「おめでとう」と、にこやかな笑顔を向けた。
(ここで腕を出す)
大丈夫だ、ちゃんと覚えている。祝福の腕輪を右手にはめてもらうのだ。
(あれ?)
そこで気づいた。リズの長袖のローブは、肩から手首へかけて、たっぷりとしたゆるやかなデザインになっている。つまり手首の部分がふくらんでいるのだ。
このままでは国王は腕輪をはめにくいだろう。気を遣ったリズは、杖を持ったまま自身の袖をまくった。そして、あらわになった白い右腕を差し出した。
国王が目を丸くした。腕輪を持った手が、固まったように空中で止まっている。
(何?)
周りの気配でわかった。本来なら袖をまくるのは後ろに控えている神官の役目だという事に。
なるほど。確かに公式の場で聖女が――そうでなくても淑女が――自分で腕まくりはしないだろう。
国王の後ろで、現聖女が渋い顔になった。
「だって、そんな事言われていないじゃないか」と、思わず心の中でぼやくと、それを読み取ったのか「そんな事わざわざ言わなくてもわかります」と現聖女の目が語っているのがわかった。
うつむいたキーファの肩章の震えが大きくなった。後ろからロイドの笑い声も聞こえてきそうだ。
(……)
反省したが、大勢の目の前で、しかも国王の御前で一度出した手は引っ込められない。
渋い顔のままの現聖女と、おそらく笑いをこらえている神官長の前で、さすがいい人である国王は何でもないというように穏やかな笑顔で、突き出されたリズの白い右手に、複雑な細工のなされた豪華な腕輪をはめてくれた。
神官が焦ったように急いで近づいてきて、リズがこれ以上予想できない動きをしないうちにというように、急いで袖を直した。
そして――。
沈黙の中、見守る人々が我先にと首を伸ばす。いよいよ冠を与えられる時だ。
神官長が捧げ持つ聖女の冠を、現聖女が受け取る。
リズは両膝を床について背筋を伸ばし、上体を心持ち前に倒した。肩からかけたストールと白い横髪が揺れる。
「次期聖女リズ・ステファンに、聖女の冠を授けます」
現聖女のよく通る声とともに、リズの頭にゆっくりと冠が載せられた。
冠から伸びるシフォンのベールを、現聖女が優しい手つきで直した。
リズは一呼吸おいてゆっくりと顔を上げた。頭に確かな重みがある。
目が合い、現聖女が優しく微笑んだ。黒い目に心からの祝福が宿っている。
リズは立ち上がり、冠が落ちないように気をつけながら、現聖女や国王に向かって深く礼をした。
そして振り向き、参列者を見た。再び礼をしようとした時、空をおおっていた雲の間からちょうど太陽がのぞいた。
正面玄関の天井近くの壁に設けられた、いくつもの大きな窓から、主祭壇上のリズ目がけて一斉に陽の光が降り注ぐ。
「「おおお……!!」」
人々の間から歓声がわきあがった。
白い小さな宝石がいくつも縫いつけられた純白な衣装が、窓から降り込んでくる日差しに反射してキラキラと輝いた。リズの透きとおるような白い肌が、それを受けてさらにきめ細やかに光を放つ。その中で印象的な赤い目がゆっくりと微笑む姿は、ひどく神秘的だろう。
神官長がひそかにガッツポーズをしているのが、リズの視界の端に映った。
本来この聖堂は、こうして主祭壇へと太陽の光が降り注ぐように計算されて造られたのだろう。ただ今日はあいにくと曇り空だったため諦めていたところに、ちょうどよいタイミングで雲が割れたのだ。
「歴代の聖女さまの黒髪も素敵だけど、白い髪も冠に映えていいわねえ……!」
感動したような声にリズは微笑んだ。ゆっくりと頭を下げると、人々の歓声と拍手の音が包んだ。
割れんばかりの歓声と拍手の中、退出のためリズは正面玄関に向かって拝廊を歩いて行く。
神官長について一歩一歩踏みしめて進んでいると、並ぶ人々の中にオリビアとレベッカの姿が見えた。自身も貴族の令嬢で、なおかつ選定の最終候補者たちという事もあり、おそらく現聖女が手配したのだろう、人々の列の一番前にいた。
「リズ、おめでとう!」
「すごく似合ってるわ」
満面の笑みで二人が拍手する。ミミズンがレベッカのドレスの胸元から顔を出した。
「ありがとう」
リズも笑みを返した。
聖竜は隣の控室で、黒ヒョウとペンギンと一緒に待機中である。侍女たちが朝から嬉しそうに甘いお菓子やら肉やらを用意していたので、それらを囲みものすごく楽しんでいる事だろう。
そして歩いて行くと、
「リズ!」
歓声の中、なつかしい声がかすかに耳に届いた。リズは勢いよく顔を上げた。だが目当ての人は人垣にのまれて見えない。首を伸ばして必死に捜していると、不意にアナが後ろから誰かに押し出されたように飛び出してきた。
「ありがとうございます……!」と、アナが後ろを振り返り礼を言った先で、ロイドの顔がちらりと見えた。ロイドがリズを見て微笑み、すぐに引っ込む。
正装したアナがこちらを見た。
「リズ、おめでとう!」
神殿を去って行った時より、ふっくらしたようだ。頬が健康そうにピンク色に染まっている。嬉しそうに笑うその顔は、とても元気そうに見えた。
話しかけようとした時、人垣の中から、
「リズ、きてあげたわよ! 感謝しなさいよね!」
「ナタリー!?」
この声と話し方は、ツンデレのナタリーだ。
一生懸命人ごみを抜けて前に出ようとしているようで、ナタリーの黒髪と額が下がっては上がり、下がっては上がりを繰り返しながら、自力で列の前へと出てきた。人々にもまれ、ドレスがしわだらけで顔も真っ赤だが、とても誇らしげな顔をしていた。
ナタリーが神殿から自宅へと戻る時に、「リズの戴冠式には必ずくる」と言っていた事を思い出した。
「本当にきてくれたんだ。ありがとう」
リズが笑うと、
「べ、別にお礼を言われるほどの事じゃないわよ! それに…! ずっと楽しみにしてたとか、そういうわけじゃないんだからね!」
ツンデレは健在である。隣でアナが噴き出した。
リズは笑った。心が満ち足りていく。
神官長にゆるやかにうながされ、リズは再び歩を進めた。
すると正面玄関近くに立つ、クレアの姿が見えた。着飾った貴族たちに混じり、所在なげな様子で両手を体の前で組みながらも、感無量の面持ちでリズを見つめている。
「クレア!」
平民であるクレアが式に出席できた理由は、すぐにわかった。クレアのすぐ後ろに、キーファの若い側近が張りついていたからだ。
「平民だから入れないのは知っていたけど、それでもリズが次期聖女に決まったと聞いて、いてもたってもいられなくて。なるべく近くでお祝いしたくて来てみたの。そうしたら、この側近さんが連れてきてくれて……」
リズは微笑んでうなずいた。
キーファだ。キーファが前もって側近に頼んでおいたのだろう。エリックはさすがにキーファのそばを離れられないだろうから、この若い側近をよこしたのだ。
「リズが次期聖女になったのね。すごいわ。本当に、本当にすごい……!」
懐かしい顔をクシャクシャにして、心底嬉しそうに笑う。
リズは急いで、首元まで詰まったローブの内側からひもをさぐると、その先についた指輪を見せた。クレアが持ってきてくれた、代々ハワード家に伝えられたユージンの指輪だ。
それをつまんで微笑むと、クレアも幸せそうに顔を真っ赤にして笑い返した。
神官長についてリズが大聖堂を出た瞬間、塔の上の鐘が高らかに鳴り響いた。祝福の鐘だ。
「これから王宮へ向かいます。広場に面したバルコニーへ、現聖女さまや国王様たちと一緒に出てください。次期聖女さまを一目見ようと、柵の手前まで国民たちがぎっしり詰めかけておりますので」
後ろにいた神官の言葉にうなずいた。
王宮のバルコニーへ出る前から歓声は聞こえていた。けれどいざ進み出ると、ムワッと人いきれのような、うねりのようなものがリズを包み込んだ。
見渡す限り、眼下は人で埋まっている。先程の大聖堂内もすごい人だと思ったが、その比ではない。
現聖女と国王、そしてキーファが続いてバルコニーに出ると、歓声はさらに大きくなった。まるで怒号のようだ。
「キュー」
飛んできた聖竜がリズの肩に乗り、人々の勢いにびっくりしたように、リズの後頭部に隠れた。
「一番前に」
現聖女に言われ、リズは手すりの手前まで進んだ。
「手を振ってあげてください」
そう言われ、そっと右手を上げたリズを、集まった人々の歓声が包んだ。
「おい、次期聖女さまは魔力持ちじゃないのか!? どういう事だ?」
「バカだね。ちゃんと魔力持ちだよ。ただ…何だっけ? 何か理由があって黒髪黒目じゃないだけだよ」
「でも、その事を誰も知らなかったと聞いたよ。それでも聖女選定を勝ち上がって、次期聖女になったって」
「そうなのかい。すごいねえ。しかも平民出身なんだろう」
「王都から遠く離れた田舎の村らしいぞ」
「何だか身近に感じるねえ。いや、身近ではないんだけどさ。でもね――」
嬉しそうな話し声が続く中、バルコニーの上でリズが――次期聖女が手を振る。
期待と興奮で熱狂的に手を振り返す人々の前で、白い髪が風に舞った。
冠が光を受けて輝く。まっすぐ前を見つめる赤い目が、ゆっくりと微笑んだ。




