69 戴冠式前 それぞれの道2
アストリア国の聖女の戴冠式は、次の聖女が決まり次第行われる。
国王の戴冠式とは違い、現聖女が存命中に現聖女自身の手で、次期聖女に「聖女」の冠が授けられるのだ。
その次期聖女の戴冠式が、いよいよ明後日に迫っていた。
戴冠式は、第一塔門と第二塔門の間に立つ大聖堂で行われる。選定中は入口が閉じられていたため、リズたち候補者は中を見た事がない。
国王はもちろん王族や重臣たち、貴族などが招待され、次期聖女の戴冠を祝う。
当日はまさにすし詰め状態が予想されるため、王宮から兵士たちも呼ばれ、神官たちと綿密な調整と打ち合わせを行っていた。
そしてリズもまた、第二神殿内の一室で、侍女たちの手により服装確認の真っ最中だ。
戴冠式は行われても、当分の間は現聖女が表に立ち、リズはその補佐役だ。その間に聖女としての仕事を覚えろという事らしい。
(とりあえず初仕事は戴冠式だ。ちゃんとして、乗り切らないと)
決意の息を吐いた瞬間、コルセットを締め上げられて、リズは思わずうめいた。
薄い内衣を着て、その上に足首まである白のローブをまとう。ウエスト部分がゆるやかに締まっていて、詰まった首元を細かなレースがいろどっている。胸の部分と裾には銀糸の複雑な刺繍がたっぷりとほどこされていて、リズなど手を通すだけで震えるほど豪華だ。
しかし多少は余裕のあるサイズのローブなのに、コルセットをこれほどきつく締める必要はあるのか。心の中でぼやくと、侍女頭が言った。
「体のラインをきれいに見せるには、まずは内側からです。コルセットは必要ですよ」
ちらりと侍女頭を見ると、わかっているというようにうなずいた。
「戴冠式の間だけです。普段は着けなくても大丈夫ですので、どうぞご安心を」
よかった。リズは心の底から安堵した。
最後に、肩から神殿の文様が入ったストールをかければ完成である。
「袖をもう少し短くした方がいいわね」
「ウエスト部分も絞りましょう」
侍女たちが相談している中、神官長に教えられた戴冠式の手順を思い出していた。
「詳しくはまた説明いたしますが、宣誓と洗礼の後、私が聖女の杖をお渡しします。左手にお持ちください。そして現聖女様の指示がありましたら、少し膝を折り腰をかがめてください。現聖女様より聖女の冠を戴きますので」――。
侍女たちがローブの袖や裾の長さなどの最終調整のため、
「「どうかしら?」」
と、少し離れてリズを見た。そして、
「「……」」
何だ、この沈黙は。ものすごく気にかかる。
「あの、何か?」
途端に侍女たちが我に返ったように、笑みを浮かべて感嘆の息を吐いた。
「申し訳ありません。とてもお似合いだと思いまして。白い聖女の衣装が、もちろん歴代の聖女さまの黒髪黒目にも映えましたが、リズ様の白い髪だとまた違った趣がありますね」
「ええ、その通りです! 赤い目がアクセントですわね。宝石みたいで」
確かにリズの白い髪と赤い目に、聖女の白のローブはよく映えた。全身がほぼ純白で彩られる中、二つの赤い目が宝石のように深い色をたたえている。
「……ありがとうございます」
褒められ慣れていないせいか居心地が悪い。嬉しいのだが、全身が、ムズムズしてしまう。
若い侍女がリズの横に両膝をついた。
「失礼いたします。爪を磨かせていただきます……!」
「爪、ですか?」
戸惑うばかりだ。
「はい! 何しろ戴冠式ですから。全身を磨かせていただきます!」
今日までも湯船で体中をかなり強い力で洗われたり、あがった後は肌をきれいにするという泥のようなものを全身に塗られた。何回もだ。そしてそれより多く、冷たい水でみそぎも行っている。
(まだするの?)
衝撃だ。
「序の口です。これからが本番です。明後日までが勝負の時ですから」と、ストールを念入りに点検していた侍女頭が口をはさんだ。
言葉を失うリズの右手を、「失礼します」と若い侍女がおずおずと取った。濡れた目の粗い布と乾いた布で爪を入念に磨き、ハチミツのような、とろりとしたクリームを薄く塗っていく。
(……落ち着かない)
平民のリズには、こうやってしてもらう事自体が違和感だらけだ。肩が凝ってくる。
するとリズが戴冠式に向けて緊張していると思ったのか、若い侍女が顔を真っ赤にして話しかけてきた。
「本当にお似合いです! 本当に本当です!」
「……ありがとうございます」
驚きながらも礼を言うリズに、若い侍女が嬉しそうに笑った。
(何だかこの子の話し方、ナタリーに似てる)
語尾のはっきりした明るい話し方が、候補者だったツンデレのナタリーに。この侍女はツンデレではないようだが。
それでも気持ちが丸く温かくなって、リズは思わず微笑んだ。
若い侍女が一生懸命、リズの爪を磨く。
「リズ様は魔力持ちなんですよね? 黒髪黒目ではない魔力持ちの方もいらっしゃるのですね! 私、失礼な事に全然存じ上げなくて……!」
「全く大丈夫です。私は特殊みたいなので」
初めて見たと、神官長も現聖女も言っていたし。
「まあでも、自分が魔力持ちだなんてずっと知らなかったんですけど」
「え?」
侍女がぽかんと口を開けた。
「――知らなかったんですか? 選定中もずっと?」
「はい。私だけでなく、他の候補者たちや神官たちも」
そのせいで色々言われたなと、リズは顔をしかめた。まあ、仕方ない事だ。誰もリズが実は魔力持ちだなんて考えもしなかっただろうから。
「でも、どうしても聖女になりたかったんです」
だから頑張った。ふさわしくないと言われ続けても。
若い侍女の表情が惑うように揺れた。遠い雲の上の存在だと思っていた聖女が、予想外に身近な存在だと感じられたというように。
しかしそれは一瞬の事で、何かを思いだしたように顔が暗くなった。目の輝きも薄れている。
その理由が、リズには「自身の持つ力」でわかった。
「――結婚を約束していた恋人がいたんですね」
侍女が目を見開いて、驚愕の表情になった。なぜわかるのだ!? と言いたげに。
「でもその恋人の家が準貴族に召し上げられて、あなたとの身分に差ができた。そして恋人は、同じ貴族のお嬢様との結婚話が進んでいる」
平民の若い侍女は捨てられ、せめてものお詫びだというように神殿での侍女の職を紹介してもらった――。
侍女が唇を噛みしめてうつむいた。
どこかで聞いた話だ。リズは思い、かすかに震える侍女のつむじを見つめた。
(悔しいだろうな)
心底、悔しいだろう。よくわかる。やりきれないほど悲しいのだ。でも仕方ないのだと、そう自分に言い聞かせている事も。
リズは天井をあおいだ。
身分なんかに負けない力が欲しかった。自由に、自分らしく生きていけるものが欲しかった。
「悔しいですね」
静かにつぶやくと、侍女が顔を上げた。涙は見当たらない。ただ顔の内側、表情というものがどす黒い。様々な思いを呑み込んできたからだろう。納得していないのに呑み込まざるを得なかった。だからだ。
その思いを、悔しさを丸ごとすくい取るように、リズは真摯な目を向けた。
「私にも覚えがあります。貴族と平民、身分が違うのはわかっているし、積み上げてきたものが違うというのもわかっている。でも命や人生や、そういうお金で買えない大事なものがかかっている時だけでいい。対等に話したい。話せるような世の中になればいいのに。そう思っていました」
若い侍女は身じろぎすらしない。ただ、かすかに目が見開かれた。救いを求めるように。
「神殿へきて、次期聖女になれたら何か変わるだろうか、変えられるだろうかと、そういう思いに変わっていきました。もう二度と悲しい思いをしないように。そして、他の誰かにも悲しい思いをさせないようにと。だから、そういう世の中にします。必ず」
理不尽から逃げ帰る事しかできなかった前世や、ただの候補者だった頃とは違う。
それは手の届かない遠い場所にあるものではない。自分の力で、きっとどうにかできる。そんな地位にいて、そんな力がある。
強く赤い目でまっすぐ侍女を見つめて微笑むと、涙も出ずに凝り固まっていた侍女の顔が、ゆっくりと崩れた。
リズを一心に見上げる目に、光が見えたというように涙が浮かんだ。
この泣き顔が笑顔になればいい。心から納得して、笑って歩き出せればいい。そう思った。
ノックの音がして、「失礼する」とキーファの声が聞こえた。
リズは反射的に首を伸ばした。部屋のドアの前に置かれた木製のパーテーションから、キーファが顔をのぞかせた。
リズの姿を見たキーファが、言葉を失ったように呑み込む。そして、まぶしそうにリズを見つめたまま微笑んだ。尊いものを見たかのように目を細めて。
とても嬉しそうな光栄そうな素直な笑みに、リズは一瞬で気恥ずかしくなった。
「リズ」と、キーファが一歩踏み出したところで、
「殿下。失礼ですが、リズ様は戴冠式の準備中です。時間がありませんので邪魔をなさらないでください。それに、ここは男子禁制ですよ。全く見張りの神官は何をしているのかしら」
と侍女頭がきっぱりと言い、キーファは部屋の外へと速やかに追い出されてしまった。同時に見張りの神官に文句を言う侍女頭の声が聞こえてきた。
その隙をついたかのように、誰かが部屋へと入ってきた気配がした。パーテーションの向こう側で「神官様」と、半分呆れ、半分怒った侍女の声がした。
「殿下もお通しできなかったのですよ。もちろん神官様も――」
「神官長様から言伝を預かってきたんだ。今すぐに直々に、次期聖女に伝えてくれってね。だから人払いをしてもらいたいんだけど」
ロイドだ。そして言っている事はおそらく嘘だろう。ロイドの表情は見えなくとも、リズにはわかった。
対応した侍女も嘘っぽいとにらんだようだが、確信はないようだ。若い侍女に、本当かどうか聞いてきてもらうよう頼んでいる。そこへすかさず、
「秘密裏に頼まれたから他の誰も知らないよ。僕がリズを神殿へ連れてきた神官だから頼まれたんだ。何しろ次期聖女の信頼が最もあつい神官は僕だからね」
誰の信頼があついんだ。リズは本心から疑問を抱いた。
侍女がため息をつき、「わかりました」と渋々うなずくと、他の侍女たちを連れて部屋を出て行った。
「さて」と、満足そうに顔を出したロイドと目が合う。
瞬間、ロイドが目を見開いた。聖女の衣装を身に着けたリズに、息がとまったようにしばし呆然とリズを見つめ、そしてゆっくりとまばたきをした。
目を開けた後は、いつものロイドの顔をしていた。
「――白いね。全身が」
「見たままですね」
「敬語はやめろよ。すぐに正式に次期聖女様になる。対して、僕はただの神官だ。呼び方も『さん』はいらない。呼び捨てでいいよ」
「わかった。ロイド」
「……もう少し、ためらってからでもいいんじゃないかな」
本当に僕に気を遣わないよね、とぶつぶつ言っているロイドに、リズは笑いかけた。
「ロイドさん、ありがとうございました」
「何で礼を言うんだ?」
「ロイドさんが村で声をかけてくれなかったら、私は今ここにいないので」
ロイドが照れくさそうな表情になり、見られないように急いで顔をそむける。リズはずっと心にあった事を聞いた。
「あの時、村で、どうして私に鍵のありかを聞いたんですか? 魔力持ちでもない、ただの平民の私に」
「――あの村に着いてすぐ、エミリアの屋敷のメイドが話しているのを聞いたんだ。リズって娘が人に探せないものが探し出せる、不思議な力を持つ娘だとね」
それでか、と納得した。納得して、わかった。
「カバンをぶちまけて現聖女様から預かった鍵をなくした、なんて嘘だったんですね。わざと客間のベッドの下に置いて、私を試したんですね」
ロイドが「その通り」と、笑った。
「でも当たりだった。鍵についていた黄色いひもの事まで、リズは言い当てただろう? 神殿を出発する前、現聖女様から言われたんだ。『銀の鍵は、少しでも聖なる力を持つ者になら見える。だが、あのひもはそうそう見えるものではない』とね。
それを実物を見ずに言い当てた。その時思ったよ。平民だろうと、愛想がなかろうと、魔力持ちでなかろうと――まあ魔力持ちだったんだけど――、この娘は次期聖女の器だって」
部屋の中を、ゆるやかな風が吹きぬける。窓に取り付けられたカーテンが風を受けてふくらんだ。リズの髪を、ロイドのローブの裾をなでていく。
信じてくれていたのか。最初から。
込み上げてくる思いはひどく温かい。
「でもその方がおもしろそうだから、っていうのも、もちろんあったけどね」
そうだろうなとリズは微笑んだ。
ロイドが床に片膝をついた。そしてリズを見上げて、穏やかな笑みを浮かべた。
「おめでとうございます。次期聖女、リズ・ステファン様」
あの時と同じ光景だ。一瞬、故郷の村に戻ったような気がした。
「じゃあ」と、ロイドが少し寂しそうに微笑み、立ち去ろうとした。
そこを呼び止めた。言っておきたい事がある。本心から。
「ロイドさん。明後日の戴冠式の時、どこにいるんですか?」
「どこって――他の神官たちと同じ場所だけど」
振り向き、けげんそうな顔をされた。
国中の主要な人々が大聖堂に祝福に訪れる。中心にいるのは次期聖女と現聖女、そして国王と神官長。彼らを取り巻くその後ろに、神官たちは並ぶと聞いた。
そんな事はわかっている。リズは笑みを浮かべて続けた。
「明後日はそこでしょうけど、次はどこにいるつもりですか? さらに、その次は?」
「何の話だよ?」
なぞなぞのような問いに、心底意味がわからないと言いたげにロイドが顔をしかめた。
「だから戴冠式は明後日だけですけど、聖女はこれからも式典やら何やら行うんですよね? これから先、その時の事を言ってるんです」
考えるように口元に手を当てていたロイドが、かすかに目を見開いた。その驚いたような顔をまっすぐ見つめ、リズは不敵に笑ってみせた。
「その時、どこにいるつもりですか? 他の神官たちと一緒の場所か、それとも――?」
不敵に笑うリズの言いたい事を、ロイドは理解したようだ。あり得ないというように顔がゆがむ。
リズは目をそらさなかった。不敵な笑みもなくしていない。
やがて腰に手を当てたロイドは、長い長い息を吐いた。
そして顔を上げて、リズに視線を移し小さく笑った。
「――そうだな。近くで見ていた方がおもしろそうだよね。リズのすぐ後ろで」
聖女のすぐ後ろ、そこにいられるのはたった一人。神官長だけだ。
「目指してみるか。面倒くさいけどね。うん、本当に面倒くさいけど」
言葉とは裏腹に、楽しそうな光が頬に宿っている。
部屋の前を走り去るいくつもの足音がして、リズは思い出した。
「ロイドさん、神官長様から言伝を預かってきたなんて嘘でしょう? ばれたら侍女さんたちに怒られますよ」
「その前に逃げるよ」
ロイドが肩をすくめ、笑いながらリズを見た。
瞬間、ロイドの表情が切なく憂えるようなものに、一瞬で切り替わった。切れ長の黒い目が不思議なくらい真剣な光を宿している。
「ロイドさん?」
リズの言葉をさえぎるように、ロイドが自分の口元に人差し指を当てた。そして、
「今だけ」
様々な思いを込めたようにかすれた声でささやくと、リズの頭に手を乗せた。
ワシャワシャワシャと心地いい音が聞こえてきそうなくらい、まるで子供か動物を愛でるように激しく頭をなでられた。見なくても髪の毛がクシャクシャになっていくのがわかる。
「あの――?」
訳がわからず見上げると、リズは一心にロイドに見つめられていた。先ほど見せた胸を締めつけられるような表情。
子供っぽい行動と、あまりにちぐはぐな表情。そしていつものロイドとは違い過ぎる態度に、リズは驚きと困惑のあまり動けない。
リズの頭にあったロイドの手が、滑るように頭の横に下りてきた。リズの横髪を一筋、ゆっくりと手に取った。
ゆっくりと、慈しむように、愛でるように、ロイドの指がリズの一筋の髪を滑り下りていく。全ての感情を今そこに集約しているのだというように、全神経をもって大事に大事に髪に触れる。
リズは動けなかったし、目がそらせなかった。ロイドの気持ちに初めて気づいた。
勘がいいくせに全く役立っていないと、思わず髪をかきむしりたくなった。
なぜ気づかなかったのか。もちろんロイドがおくびにも出さなかったせいもあるし、もしかしたらロイド自身、自分の気持ちに最近まで気づいていなかったのかもしれない。
長い時間が経ったように思えた。リズの肩の長さの髪が終わり、ロイドがかすかに唇を噛みしめて指を離した。そこはちょうどリズの鎖骨の位置で、ロイドの指が鎖骨に触れた。リズは思わずビクッと体が震えた。ロイドの指に力がこもる。その時――。
動きが止まった。ロイドの視線はリズの首から下げられた革ひもの先にある指輪を見つめていた。キーファが子供の頃に大切にしていた指輪。リズがもらったもの。
ロイドが不意に微笑んだ。わかっているというような、仕方ないというような、あきらめにも似た寂しそうな笑み。
そして指を離し、顔を上げた。
「おめでとう」
小さく笑ったその顔は、いつものロイドのものだった。
窓など開いていないのに、部屋の中を一陣の風が吹き抜けたように感じた。まるで物事の終わりを表すかのように。
そして、いつもの軽い口調で言った。
「せいぜい着飾らないと。何せアストリア国始まって以来のアルビノの聖女なんだから。国民が声を失うくらい、きれいで優雅な聖女に――無理か」
「無理ですよ」
普通の声が出た。いつものやり取り。いつもの口調。戻ったのだ。ホッとした自分がちょっと嫌になった。
「じゃあ、戴冠式で」
ロイドが笑顔で、手を振って立ち去っていく。そして振り向いた。
「これからもよろしく。リズ様」
「はい。ロイドさん」
「敬語はなし。呼び捨てでいいって」
「わかった。ロイド」
「……気持ちいいくらい、ためらいがないね」
小さく笑いながらロイドが部屋を出て行く。
その背中を、リズはドアが閉まった後も見送り続けた。




