68 戴冠式前 それぞれの道1
暗く重苦しい空気がたちこめる牢の中で、シーナはぼうっと石の壁についた汚れを見つめていた。
牢獄で刑罰を待つ身だが、どうでもいい。虚無感が体を支配していた。
コロラド地方に紛争を引き起こした手助けをし、シーナに姿を変えて国王や神殿をだました。本来なら有無を言わさず死罪、よくて一生幽閉だ。確かにアイグナー公爵に加担はしたが共犯者というよりは操られた、そして自分の身をかえりみずコロラド地方の大勢の人々を助けた、その事が考慮されれば。
しかし――。
シーナに伝えにきた神官がそこで言葉を止めた。その憐みのような表情の理由はわかった。
死罪にせずとも、シーナの命はじきに尽きるじゃないか。そう言いたいのだ。
シーナは苦笑した。頬をゆがめた瞬間、脇腹がズキリと痛んだ。体の内からえぐられるような重い痛みだ。
シーナに姿形を変えコロラド地方へ行ってからたびたび起こった体中の痛みが、ますますひどくなってきた。
偽の聖女が行ったのは禁術だ。体にものすごく負担をかける。そう言われたし、覚悟の上だった。
三十日後か百日後かはわからない。だがシーナは命を終えるだろう。体中が禁術の反動でむしばまれ、ボロボロになって。
けれど。
(どうでもいいわ)
全ては終わったのだ。リズに対する憎しみも恨みも、もうない。コロラド地方で戦火の中を駆けずり回った事も、遠い記憶だ。
自分が皆の前で処刑されようと、体が朽ち果てて牢の中で一人死のうと、どうでもいい。
一日中牢の隅に座り込み、定期的に訪れる激痛に耐えながら、シーナはぼうっと石の壁を見つめている。
「昼食だ」と、神官が粗末な食事の載った盆を差し入れてきた。
「豪華だろう? 何せ、次期聖女様の戴冠式の日が近いからな。国中がお祭り騒ぎだ。お前たち罪人にも施しをしてやろうという者も出てくる」
次期聖女、つまりはリズの戴冠式だ。
だがそれを聞いても何の感慨も湧かない。遠い国での出来事のようだ。
「まだ食っていないのか?」
置かれた手つかずの朝食を見て、神官が眉根を寄せた。
と、不意に牢の入口辺りが騒がしくなった。
「え、聖女様!?」
神官の裏返った声に、さすがにシーナは顔を上げた。
聖女という事はリズがきたのか。何のために? エミリアを笑いにきたのか? 笑えばいい。好きなだけそうすればいいのだ。
だが違った。聖女は聖女でも、現聖女だった。
「シーナ。いえ、エミリアと呼ぶべきですか?」
どうやらお供の神官を牢の入口に残し、一人で階段を下りてきたようだ。慌てて走ってきた見張りの神官を笑顔で「大丈夫ですから」と払い、現聖女が格子越しにシーナを見つめた。
シーナは座り込んだまま、かすかに眉根を寄せた。なぜ現聖女がここに来る? リズならわかるが、現聖女が来る意味がわからない。
不審そうに目だけを動かすと、現聖女が小さく笑った。
「なぜ私が来たのかと疑問の顔をしていますね」
そして笑みを引っ込めて、凛と背筋を伸ばし、よく通る声で言った。
「あなたがアイグナー公爵と協力して、コロラド地方に紛争を起こした事は許しがたい事です。あなた方は決してしてはならない事をしました」
説教をしにきたのか。わずかにあった興味すらなくなり、視線を壁へと戻す。その様子に気づいたのか気づかないのか、現聖女が声のトーンを落とした。
「ですが、あなたがコロラド地方の人々を救った事もまた事実です。傷ついた人々のために駆けずり回り、昼夜問わず看病をしてくれました。……私はマノンに姿を変えていたため選定から抜けられず、コロラド地方へは足を運べませんでした」
多大な後悔の念が口調に混じったのがわかった。
懺悔をしているのか。けれどどうして牢獄で、しかもシーナに向かってするのだ。もっとふさわしい場所も人もいるだろうに。
不審感のこもった目で現聖女を見ると、現聖女がまっすぐ見つめ返してきた。
「ですが、あなたがいてくれました」
思いもよらない言葉に少しだけ心が動き、シーナはかすかに目を見開いた。そんなシーナを見つめたまま、現聖女が微笑んだ。
「こんな事を私が言ってはいけないのかもしれません。ですが、あなたは確かにコロラド地方の人々を救ってくれました。自分の身をかえりみず、必死に看病してくれました。大勢の人が救われました」
そしてシーナに向かって、深く深く頭を下げた。
「あなたがいてくれて本当によかった。礼を言います。心から」
心の底まで届くような、正直な声音。
シーナは思わず立ち上がった。格子越しに、現聖女の後頭部がある。
混乱していた。頭の中が真っ白だ。
この国の聖女だろう。なぜ罪人に礼を言うのだ。
それでも込み上げてきた感情は、先程までの無気力とは比較にならないほど激しいものだった。体を突き破る勢いで、様々な感情が一気に噴き出してくる。嬉しいのか嫌なのか、幸せなのかうっとおしいのか、わからない。
この感情には覚えがあった。
コロラド地方で人々の手当てをした。看病をした。泥だらけの汚い服をまとった人々がシーナに言った。「ありがとう」と。涙を流しながら。
あの時は心の中でせせら笑った。自分が公爵と一緒に起こした事だ。何も知らず何を感謝している。
確かに、そう思ったのだ。だが心のどこかで、そうしないと自分が壊れていく気がした。リズへの復讐という目的が、そのためにここまでした自分が揺らぐ気がしたからだ。後戻りはできなかった。絶対に。
シーナは両手を強く握りしめて、歯を食いしばった。
現聖女が静かに続けた。
「コロラド地方の人々は、あなたがいわば騙した事に怒りをあらわにしていました。許せない、悪魔のようだと。第一神殿付きの侍女――親戚がコロラド地方でシーナに助けられた――のように。ですが、それでも自分はシーナに助けられた。行いはもちろん許せないが、シーナがいなかったら自分や家族は死んでいたと、少数ながらあなたをかばう者たちもいました」
そんな事、自分は望んでいない。そんなもの欲しくない。シーナが欲しかったものは、もっと別のものだ。皆に敬われ、愛され、尊敬され、羨ましがられる、そんな立場。
そんな少数の者たちに、しかも地方の平民たちに感謝される事ではない。
それなのに――。
なぜだろう。なぜ、そんなただの平民の者たちの言葉がこれほど心に染みるのだろう。救われた気持ちになるのだろう。なぜ?
行き場のない感情を持て余すようにうつむくと、現聖女の視線を感じた。
「人生はやり直す事はできません。やり直せると言うけれど、あれは嘘です。自分がしてきた事、口に出した事、それらはなかった事にはできません。それができたなら、ずっと道を違わず頑張ってきた者が不公平になりますからね」
それはそうだ。そんな事はわかっている。
「それでも、それらを受け入れたら、そこから新しく始める事はできます」
思わず顔を上げたシーナを、現聖女がまっすぐ見つめていた。きれいごとではなく、現実を見すえるように。
「接ぎ木をした枝からは、それ本来の花は咲きません。ですが違う種類の花は咲きます。たとえ短い間であろうと、それはきっときれいな花でしょうね」
感情の波が心を揺らす。シーナの目から涙がこぼれた。どれだけ歯を食いしばって耐えても、次々と流れてくる。
格子に額をくっつけて、指が白くなるくらい両手で強く握りしめた。
脳裏にコロラド地方の人々の顔がよみがえった。泣きながらシーナに感謝していた姿が。
――刑罰がどうなるかわからない。死罪になるとしても、その前に命が尽きようと、その時まで精一杯生きよう。せめて一生懸命、短い間であろうと。
それはシーナが初めて流す、心からの悔恨と謝罪の涙だった。
現聖女が牢から出てくるのを、オリビアは通路の手前で待っていた。
同じく、お付きの神官たちが心配そうな様子で階段の下をのぞいている。
ゆっくりと階段をのぼって姿を現した現聖女が、オリビアに気づいたようで、神官たちに何か告げた。一礼して、彼らが距離を置いた。
一人になった現聖女が微笑んだ。その笑顔に励まされ、オリビアは緊張しながらも口を開いた。
「私、侍女になりたいんです。第一神殿付きの侍女に。聖女に仕える侍女になりたいんです」
近くにいたい。聖女になるという夢はかなわなかったが、近くで見ていたい。それが素直な気持ちだと気づいた時、自分の扉に納得がいった。
第一神殿への扉のノッカー。そこを今、叩こうとしているのだと。
「――第一神殿に仕えるという事は、私だけでなくリズにも仕えるという事ですよ?」
現聖女の口調は慎重で、少し緊張しているようにも聞こえた。偽の聖女の事を思い出したのかもしれない。
「わかっています」
「そうですか」
現聖女がうなずき、そしてもう一度うなずき、嬉しそうに微笑んだ。
「それは願ってもない事です。よろしくお願いします」
「はい!」
「あら、ペンギンが」
オリビアの後ろからヨタヨタと走ってきたペンギンが、ようやく追いついてこようとしている。
「このペンギンも、これから第一神殿で暮らす事になりますね。聖竜も仲間がいて力強い事でしょう。名前はあるのかしら?」
「はい! サンダーグリフォンです!」
「……今回の候補者たちは、総じて名付けのセンスがありませんでしたね。壊滅的です」
「そうですか? マノン、いえ、現聖女さまの黒ヒョウの名前は何というんですか?」
「クロ――いえ、何でもありません」
同レベルだ。
衝撃を受けたオリビアは話題を変える事にした。
「ミミズンはレベッカと一緒に、家に帰る事になったんですよね?」
「ええ。レベッカに頼まれて了承しました。さすがに聖竜だと神殿外には出せませんが、ミミズンなら大丈夫でしょう。レベッカのそばにいた方が、ミミズンにとっても幸せでしょうしね」
そして思い出したように顔が曇った。
「神官のハデスは残念でした」
「はい……。神官長様が落ち込んでいらっしゃいましたね」
もっと早く精霊を呼び出せていればと呻いていた姿を思い出した。そうすれば助けられたかもしれないのに、と。
ロイドも、ハデスを捨て駒にした偽の聖女に対して、ものすごく怒っていた。
偉そうな態度のハデスを、オリビアはあまり好きではなかった。だがこれほど思ってもらえていた事に、ハデスが気づけばよかったのに。そんな思いが込み上げた。
ペンギンがようやくオリビアたちに追いついた。やれやれ、というように息を吐いて腰を下ろした。その瞬間、
「行きましょうか」
現聖女の言葉に、マジか!? と言いたげにペンギンが目を丸くした。「はい」と、うなずいたオリビアにもっと目を丸くして、急いで立ち上がり、必死でついてくる。
オリビアは歩調を緩めようとしたが、すでに現聖女がそうしていた。
ゆっくりゆっくりと、二人と一匹で歩いて行く。
明るい日ざしが降りそそぎ、大きなブナの木の葉が風に揺れる。さらさら、さらさらと心地よい音が耳に届いた。
あと3話で、本編完結とさせていただきます。