64 期待
神官長は心の中で、精霊の言葉を反芻した。
魔術を打ち消す、無効化させる力。その力があれば、あのくさびを壊す事ができるのか?
しかし、あのくさびには魔石と違って、ご丁寧にも魔力と聖なる力の双方が練り込まれている。魔力しか持たない神官長たちに壊せないように、偽の聖女がやった事だ。
だが、少しでも望みがあるのなら――。
「そのような魔力を持つ者が存在するのですか! その者はどこに!?」
精霊は答えない。突然、その体が揺らぎ始めた。消えようとしているのだとわかった。待て、待て。今、消えてもらっては困る。神官長は詰め寄った。
「お待ちください! その力を持つ者は――!」
「方法は教えた。お前の望みに私は応えた。代わりにお前の大事なものをもらう。命ではない。お前の体の一部だ」
怖ろしい言葉を残して精霊は消えた。後には、ところどころ消えかかった魔法陣と、静寂が残るのみだ。
自分の大事なものをもらう。その言葉は心底怖ろしい。だが今は現聖女の方が先だ。神官長は必死に考えた。
魔術を打ち消す力。魔術を無効化させる魔力――。
部屋中を歩き回りながら考える。ジャンプしてみた。スキップも。後ろに上半身を反り返らせながら歩いても思いつかず、両手で頭を抱えた。
(……ん?)
もしやと思い、もう一度確認して青ざめた。右手の指をまっすぐくっつけて、熱を測るように眉毛の上に置く。そしてその親指から隙間を残さず、同様にした左手を額に乗せるのだ。すると精霊を呼び出すまでは確かに両手の指全部、つまりつむじの部分までは前髪があった。それなのに今は触れない。右手を離し、おそるおそる左手の親指の先に置いてみると、その薬指の部分から上しか髪が触れないのだ。
(何という事だ……!?)
精霊は神官長の髪を持っていったのだ。確かに大事なものだ。量としてはほんの少しだけれど、ものすごく貴重なものだ。
ショックを受けた神官長は頭から両手を下ろした。うつむく神官長の視界に、白いものが映った。右手に残った、抜けた髪の毛だ。さらに抜けてしまったのか。悲しい気持ちでそれを見つめた。白い髪の毛を。
(白い――)
その瞬間、神官長は雷に打たれたように立ち上がった。
魔法を打ち消す魔力。魔力があるのだから魔力持ちだろう。だが打ち消す能力なのだとしたら、その者は魔力持ちの外見をしていないのではないか?
そうだ。魔力持ちの外見でないのに、魔力のような不思議な力を持っている者は――。
(リズ……!)
神官長は息を呑んだ。
リズが実は魔力持ちである事を、神官長と現聖女は悟っていた。外見に特徴が出ない理由まではわからなかったが、聖なる力は魔力持ちの女性の中にしか表れない。
「お前は本当は魔力持ちなのだよ」と、あえてリズに伝えなかったのは、現聖女がリズや他の候補者たちの正直な反応を見たいと言ったからだ。特にマノンに姿を変えて、候補者たちの中に混じるのだから、彼女たちの嘘偽りない態度が見たいと。
「聖なる力」と「魔力」。見る者にとっては区別がつかない事がほとんどである。特に「聖なる力」は。
今思えば、魔石騒ぎの時。偽の聖女の魔法である黒い光が、リズの体に触れた瞬間、消滅したと聞いた。
あの力は、リズの聖なる力ではなく魔力だったのか。
そうだ。あの魔石には、偽の聖女は魔力しか込めていなかった。聖なる力を込めれば、すぐに正体がばれるかもしれないと考えたからだろうが。
だから神官長にも封印できた。リズが魔石を壊せたのは、リズの持つ聖なる力ゆえだと思っていたが違ったのだ。
魔法を打ち消す力。魔術を無効化できる魔力。聖なる力を持つリズがそれを持っているなら、魔力と聖なる力の両方が込められた、あの憎きくさびをどうにかできるのではないか――。
希望が見えた。一瞬で髪の事を忘れた神官長は、慌てて部屋を飛び出した。
* * *
リズはオリビアと、第二神殿内のレベッカの部屋にいた。
「――現聖女さまが偽者だった? あ、じゃあやっぱり魔石はリズの犯行じゃなかったのね。え? リズの扉が見つかったの? 良かったわ! え? すでに砕け散った!? はい? マノンが実は現聖女様で、命が危ない!?」
リズたちの話にレベッカはついていけないらしく、頭を抱えている。テーブルの上に置かれた小さな箱の中で、ミミズンが心配そうに頭をうねうねともたげていた。
レベッカの部屋はすっきりと片付いていて、窓から差し込む日ざしも明るい。それなのに部屋の中をただよう空気はひどく重かった。
「マノ――現聖女様は大丈夫なのよね……?」
レベッカの懇願するような響きに、リズもオリビアも答えられない。レベッカがショックを受けたようにうつむき、ぽつりとつぶやいた。
「聖女選定はどうなるのかしらね……」
ソファーに座ったリズは唇を噛みしめた。第一神殿での事を思い出し、胸が苦しくなったからだ。
先ほどオリビアの部屋へ来る前、リズは自室へ寄り道をした。そこで――。
「シロ、出して」
聖竜がゲホッと腹の中のものを吐き出した。割れた手鏡の破片だ。
ハデス相手に使った、リズの「扉」だったもの。
苦い気持ちが込み上げてきた。とてつもなく苦い気持ちが。
「……ねえ、シロ。これって本当に私の扉なのよね?」
一縷の望みを持って確認した。だがシロは自分の腹から吐き出した破片を見つめ、「キュー……」と、実に悲しそうな声で鳴いた。自分の希望がなくなってしまったと言いたげに、しょんぼりと肩を落として落ち込んでいる。
その姿に、やっぱりそうなんだと、リズは奈落の底へ落ちていくような気持ちになった。
やはり、これはリズの「扉」だったのか。
そして割れてバラバラになった今、リズは聖女選定に落ちる――。
(嫌だ!)
素手で破片を拾い集め、何とか元に戻せないかと必死に破片同士を組み合わせてみた。けれど役目を終えてもろくなった破片は、つかんだだけでさらに細かく砕け散ってしまった。リズの心のように。
打つ手なしだ。
レベッカの部屋で、絶望感から両手で顔をおおうリズに、オリビアがためらいがちに声をかけようとしているのが気配でわかった。
だが「あの――」と言ったきり、言葉が続かないようだ。適切な言葉が見つからないのだろう。リズにも覚えがある。クレアだ。一回目の選定で落ちた候補者のクレアに、合格したリズは何と声をかければいいかわからなかった。
それでもクレアは笑って「頑張ってね」と言ってくれた。「ずっと応援しているから」と。ナタリーもアナも、そう言ってくれたじゃないか。あんなふうに他人を応援できる人間になりたいのだ。
リズは努めて明るい声を出した。
「最終選定はオリビアとレベッカの二人だね。どちらかが次期聖女に決まる。頑張ってね」
笑おうとした。けれど頬がこわばる。わがままな自分を戒めた。これは選定だ。落ちる者もいる。自分がその一人だけだっただけだ。精一杯やったんだからいいじゃないか。仕方ないんだ。
自分を納得させようとするのに、強い強い本音がどうしても引っ込んでいかない。
次期聖女になりたかった。どうしてもなりたかった――!
(……最初の頃とは全然違うな)
自分でも驚くほどだ。
ロイドに連れられて神殿へ足を踏み入れた時は、ただエミリアに陥れられた事が悔しくて、自分の立場も周りの状況も、前世と何も変わっていない事が悔しくて歯がゆくて。それをどうにかしたかった。ただ、それだけだった。それだけだったのに。
(――それに神殿は、もういられない)
故郷の村へ帰らなければならない。村は好きだ。それでも、ここを出たらキーファに会えなくなる。
胸が痛い。込み上げてくる気持ちはひどく苦い。
優しい笑顔。温かい口調。ちょっと変わっているけれど、リズをまっすぐに見つめてくれる。セシルではなくリズを。そう言ってくれた時には本当に嬉しかった。
(嫌だ。ここにいたい!)
激しい本心が体を突き破って、今にも出てきそうだ。
オリビアとレベッカの心配そうな視線が突き刺さった。途端に我に返った。
(ダメだ。笑え、私)
リズは全神経を顔に集中した。
「……リズ、顔がかゆいの?」
オリビアが眉根を寄せて聞いてきた。リズが両手を使って、目元と口元を必死で上げようとしていたからだろう。
ソファーの端っこに座り、ビスケットを丸飲みしていたペンギンが、怯えたように体を縮めた。
「かゆくない。違うよ、笑おうと思って」
「笑う?」
若干引き気味になっていたオリビアが、レベッカと顔を見合わせて、ああ、と納得したようにうなずいた。
「他の候補者たちのようにって事? でも、クレアやナタリーやアナが笑っていたのは、落ちた事に納得したからだと思うわ。そりゃ心底悔しかっただろうけど、でも自分よりも次期聖女にふさわしい人を見つけたからじゃないかな……」
ひとりごとのようにつぶやき、そして懐かしそうに微笑んだ。
「私ね、小さい頃、現聖女様に会った事があるのよ」
「「そうなの!?」」
「現聖女様が出ていらした式典を、家族で見に行ったの。式典が終わって、現聖女様が馬車に乗り込もうとするところへ、人々が殺到したわ。もちろん護衛の神官たちが取り囲んでいたけれど、皆熱狂してて、少しでも近くへ行きたかったのよね。
私は小さかったから、人々の足元の隙間をすり抜けて行ったの。でも途中で転んでしまって。でも皆興奮してるから気づいてもらえなくて。大勢の人たちに踏みつけられて死ぬんじゃないかと思った。痛くて怖くて、声も出なかった」
「大丈夫だったの……?」
オリビアがうなずいた。
「大丈夫だった。不意にね、体が浮き上がったの。視界が真っ白になって、気づいたら白い光に全身を包まれていた。呆然としていたら、目の前に現聖女様が現れたのよ。『大丈夫?』と、心配そうなお顔で。姿も見えないほど遠くにいた私を見つけて、助けてくれたんだとわかった。ケガもいつの間にか治っていたわ。
優しい声で『お名前は?』と、聞かれたわ。でも私はものすごく緊張していて、夢見心地で、どうしても声が出せなくて、結局答えられなかった。神官たちが迎えにきて現聖女様は行ってしまわれた。
あの時、自分の名前を言えなかった事がずっと心残りだったの。どうしても、もう一度現聖女様にお会いして、今度こそ名前を言いたい。あの素晴らしい方に少しでも近づきたい。その思いで、ずっといたのよ」
オリビアは夢見るような顔をしている。
その時からずっと、現聖女に憧れていたのだろう。次期聖女になりたい気持ちは皆、一緒なのだ。
ふと部屋の外の廊下が騒がしくなった。人々のざわめきと、いくつもの足音。そして侍女たちの悲鳴のような大声。
オリビアとレベッカが怯えたように顔を見合わせる。
リズは一人、静かにドアへと近寄った。息を詰めてドアノブに手を伸ばす。その瞬間、勢いよくそのドアが開いた。
「リズ――おおいっ!」
神官長だ。リズも驚いたが、ドアを開けたらいきなり目の前に目当ての者がいたのだから、神官長はさらに驚いたらしい。
(何事なの?)
神官長は長いローブの裾をたくし上げて、息を切らしている。その背後には思い詰めたような顔の神官たちと、青ざめた顔の侍女たち。
一気に血の気が引いた。
「まさか現聖女さまが――!?」
「そうではない」
神官長がリズの両肩を強くつかんだ。
「リズ・ステファン。現聖女さまを助けて欲しい」
「……は?」
「リズならできる。魔力持ちのリズになら、必ず!」
唖然としてしまった。リズが魔力持ち? ぼけたのか、神官長は? それか精霊に体を乗っ取られた? 冷たい目になるリズに、背後の神官たちも神官長に詰め寄った。
「一体どういう事なのですか? ちゃんと説明してください!」
「精霊召喚は成功されたのですか? 戻ってきてすぐ『リズはどこだ!?』と走って行かれたんですから、訳がわかりません!」
「リズならできるって、魔力持ちだって、アルビノですよ? どういう事ですか!?」
神官長が大わらわで説明している。
ロイドが神官たちを押しのけて部屋に入ってきた。
「ロイドさん、どうなってるんですか?」
「さあ? 僕にもよくわからない」
首をひねるロイドの頬に、安堵の色が見えた。神官長が無事に戻ってきたからだとわかった。
リズが微笑むと、考えを読まれた事に気づいたのか、ロイドが嫌そうに、少し顔を赤くして顔をそむけた。
リズは口を開いた。もう一つ気づいた事がある。とても重要な事だ。
「ロイドさん。神官長様の前髪が少しだけ、ほんの少しだけなんですけど、後退した気がしませんか?」
「え?」
ロイドが眉根を寄せて、神官たちの包囲網を何とか突破しようとしている神官長の頭をじっと見つめた。
「本当だ。さらにハゲ――いや、後退してる。というよりさ、あれは前髪と呼んでいいのか?」
必死で神官長に食い下がっていた神官の一人が、リズたちの会話が聞こえたのか、怒った声で叫んだ。
「お前たち、こんな大事な時に何を言ってるんだ! そもそも後退してない! 元々、神官長様の髪はあんなものだった!」
「……聞こえとる」
神官長が多大なショックを受けたように、少し寂しそうな声でつぶやいた。
それから再度、リズに真剣な顔を向けてきた。
「リズ・ステファン。突然で驚くと思うが、お前は実は魔力持ちなのだ」
「……え?」
「そして現聖女様を助けられるのは、リズだけだ。リズの持つ、魔法を打ち消す事ができる力が必要なのだよ!」
不審と戸惑いが入り混じり、ぽかんとするリズに、
「頼む。現聖女様を助けてくれ!」
と、神官長が頭を下げた。驚きだ。そこへ、
「神官長、年の割に足が速いな。素晴らしい事だが」
と、同じように息を切らせてやって来たのは――。
「国王様!」
侍女たちが大声をあげた。その後ろから重臣たちと兵士たちもやってきた。キーファもだ。
あまりの大人数に、レベッカの部屋には入りきらず、廊下の先まで人がはみ出している。リズは圧倒された。キーファの自室で見た、まさに恐れ多い顔ぶれだが、まさか神殿で姿を見るとは思わなかった。
「国王様。このリズが、現聖女様を助けられる唯一の者なのです」
「そうか」
神官長の言葉に、国王がリズの前へと出た。向かい合い、見つめられる。リズは思わず後ずさった。
「私からも頼む。現聖女を助けてくれ。この国を救って欲しい」
国王が深く頭を下げた。
途端に周囲が騒然となった。候補者といえど、ただの平民に国王が頭を下げたのだから当たり前だ。重臣たちが青ざめた。身分に厳しい外交大臣なんて今にも卒倒しそうだ。
(……何、これ?)
目の前に頭がある。でもこれはこの国で一番偉い方の頭だ。恐れ多くて視線を落とすと、床に流れるローブの裾が見えた。国王が身にまとっている、いくつもの宝石が金糸で縫い付けられた豪華なローブ。この金糸一本だって、リズが一生働いても買えないだろう。
息を呑んだ。とても現実とは思えない。
助けを求めてキーファを捜した。目が合ってホッとしたのもつかの間、父親を止めるどころか、自分からも頼むと言いたげに真剣な顔で頭を下げた。焦げ茶色の、王太子の髪が揺れる。
違う、今して欲しい事はそうじゃない。
焦ってロイドを捜した。だが目が合った瞬間、全力で視線をそらされた。さすがに、からかえる場面ではないようだ。
「お願いします!」
「頼む! 現聖女様は我々にとっても、この国にとっても必要な方なんだ!」
「――私たちからもお願いする」
神官長の本気を感じ取った神官たちが、次々に頭を下げた。そして他に方法はないと悟った重臣たちも。
リズの前には、揺れるいくつもの頭。普段なら、いや普段でなくても絶対に見られない光景だ。
(何、これ?)
リズはもう一度、息を呑んだ。