42 エミリア2
「シーナ・ブライド、十八歳。捨て子で、親はいない。このザック地方の南部にあるブライド修道院で育った。優しく素直で、慈愛あふれる敬虔な修道女――という設定だ」
公爵がまるで書類を読み上げるように、淡々とした口調で告げた。
そのブライド修道院に多大な寄付をしている領主が、公爵の配下の貴族だとわかったのは、後の事だ。
「私がいいと言うまで、私と君は知らない者同士だ。顔を合わせた事もない。いいね?」
エミリアはうなずいた。
しばらくして公爵の言葉通り、隣のコロラド地方で民族同士のいさかいが起こった。それはまるで火が燃え広がるように、あっという間に大きくなっていった。
エミリアは呆然となるしかない。公爵は魔力を持っていないのに、魔法を使っているかのようだった。
「これからはこの男に任せる。言う通りに動いて、傷ついた人たちの手当をするんだ。あくまで優しく、慈愛あふれる女神としてね」
公爵の部下が雇った現地の男に言われた通り動くと、ちょうどいいようにその近くで争いが起こった。でき過ぎなくらいに、戦が起きて死傷者がでた。
エミリアは頑張った。あっちでケガ人がいると聞けば駆けつけ、こっちで病人がいると聞けば、粗末なベッドから飛び起きて手当てに向かった。
必死だった。
戦火の中、昼も夜もなかった。だが不思議と恐怖はない。忙し過ぎたせいもあるし、これでリズに近付けるという目的もある。何より、もう後戻りはできないとわかっていた。
顔も名前も変えた。今さら自分が、エミリア・カーフェンだと名乗っても誰も信じないだろう。
戻る場所はない。なら突き進むだけだ。前へ、前へと。
そんな事を続けているうち、エミリアはいつしか「コロラドの聖女」と呼ばれるようになっていた。もっともそう呼ぶように仕向けたのも、公爵なのだろうが。
エミリアが目指していたのはアストリア国の聖女だった。こんな辺境地域の聖女なんかではないのに、ここだと「聖女」と呼ばれる。皮肉だなと苦笑いをした。
「キーファ殿下にはまだ会うな」と、公爵から言われていた。「神殿で会った方が運命を感じていただける」とも。
キーファのウワサは幼い頃から耳にしていた。この国の女性なら誰もが憧れる存在。
それでも地方の男爵令嬢ごときでは近づけもしなかった。それが実際に会えるのだ。キーファと結婚できたら、この国の女性たちから全力でうらやましがられるだろう。最高じゃないか。
「ようやく話がついた。君は王宮で、国王に謁見する。そこで国王にほうびに何が欲しいかと問われたら、神殿にあがりたいと言うんだ。そのためのお膳立てはしてある。重鎮の中にも私の味方はいるからね」
ついにきた。思わず武者震いがでた。
「君は本当によく頑張った。想像以上だよ。ゆくゆくは私は君を養女にしようと考えている。君はアイグナー家の娘、シーナとなるんだ」
これまでの頑張りを認められた気がして、涙が出そうになった。
そして向かった神殿で、初めてキーファに会った。
「初めまして、キーファ殿下。ようやくお会いできました」
本当に、ようやくだ。
まるで幽霊でも見たかのように青ざめたキーファに、エミリアは万感の思いを込めて、にっこりと笑った。
外は雨が降っていた。食堂の前の廊下は、神官や聖女候補者たちであふれている。その全員が呆気にとられたような顔で見つめてくる中、
「君は誰だ……?」
かすれた声で聞いてくるキーファの顔は、気の毒なくらいこわばっていた。
それでも食い入るようにエミリア――シーナの顔を見つめてくる焦げ茶色の目には、切なさと何より愛しさがあふれているのが見てとれた。
(素晴らしいわ)
エミリアは感嘆した。
公爵に言われた「その顔を、殿下は必ず気に入る」との言葉は真実だった。
ちらりとリズを見ると、リズもまた衝撃を受けたように固まっていた。心の底から喜びがわいてきた。リズを気に入っているはずのキーファが、エミリアに惹きつけられている。リズにとっては最大の屈辱だろう。
(もっともっと見せつけてやるわ)
ぞくぞくしながら一歩踏み出したのに、
「リズ! 話がある」
とキーファがリズを連れて行ってしまった。
(逃がさない!)
廊下の突き当たりまで追いかけたのに、あろう事か、キーファは背後からリズを抱きしめて去って行ってしまった。まるでエミリアからかばうように。
(冗談じゃないわ)
エミリアはますます奮い立った。
翌日、廊下でキーファを待ち伏せた。
「殿下」
ささやくように呼びかけると、キーファが凍りついたようになった。
エミリアが一歩近づくと、キーファが一歩下がる。けれど、その足運びに力はない。自分の素直な感情を、理性で必死に抑えつけようとしているのだとわかった。
(素直に、本能に従えばいいのに)
エミリアは心の中で舌なめずりをした。だがそれを決して表面には出さず、静かな足取りでさらに近づいて行く。
公爵には控えめでいろ、と言われている。ぐいぐいと積極的に攻めず、大人しく受け身でいろ。それが殿下のお好みだよ、と。
キーファの背中が後ろの壁についた。もう逃げられない。エミリアは心の中でほくそ笑んだ。何て楽しいんだろう。何て万能感だ。王太子が自分の思うままに動くなんて。
「殿下……」
その広い胸に手を添えたいのを我慢して、体同士が触れるか触れないかギリギリのところで止まった。うるんだ目で見上げてやる。
エミリアに見上げられたキーファが、肩をこわばらせて何とか逃げようとしている。別に縄で縛られているわけではない。逃げようと思えば、すぐにこの場を立ち去れるのに、どうしてもそれができないのだろう。
キーファがきつく目をとじて、エミリアから顔をそむけた。見なければいいと考えたのか。苦肉の策だ。
しかし、そんな事はさせない。
心持ち体を前に倒すと、エミリアの胸がキーファの体にかすかに触れた。キーファの体がビクッと震えた。何て素敵な体だろう。うっとりする。
「キーファ殿下……」
しおらしく呼びかける。一瞬だけエミリアに向けたキーファの目には、確かに愛しさが透けて見えた。
エミリアは逃さず、微笑んだ。本来のエミリアの笑い方とは全く違う、やわやわとした貧乏くさい笑みだ。
だが効果はてきめんだった。途端にキーファの顔がゆがんだ。今にも泣き出しそうなくらいに。
壁に背中をべったりと押し付けたキーファの目は赤い。もうやめてくれと心の底から懇願するように、両手で頭をおおった。
けれどエミリアは、逃がす気はない。もう逃げ場はないのだ。さあ、とどめを刺そう。
エミリアはうつむき、寂しく見えるように目を伏せた。
「実は、リズさんが私の事を嫌っているようなのです。あいさつをしても無視されてしまって。誰か他の人――特に男の方です――が一緒にいれば、笑顔で話してくれるのですが、二人きりだと全然態度が違って無愛想で。私、本当に悲しくて……」
かすれた声で、ささやくように訴える。
リズに対して不信感を抱かせるためだ。リズはキーファが愛するような、そんな女ではないとキーファに刻み込んでやる。
「リズが……?」
キーファの愕然としたような、かすれた声が返ってきて、嬉しくなった。
「ええ、そうです! 私と二人きりの時だと、とても冷たいのに、誰か男性がいると途端に愛想がよくなってニコニコしてるんです。他の聖女候補者の方たちも、リズはいつもそうだと言っていました」
切々と訴えると、キーファがショックを受けたように口元に手を当てた。伏せられた震える目元に、長いまつ毛がおおいかぶさる。
エミリアは心の中で高笑いをした。そうだ。リズはキーファにふさわしい女ではないと、早くわかればいい。
期待に胸躍らせるエミリアの前で、やがてキーファがゆっくりと顔を上げた。
(……え?)
だが予想に反して、キーファは真顔だった。
怒るわけでも悲しむわけでもなく、素の顔で、まじまじとエミリアを見つめてくる。その表情には、先程までの狂おしい程にもだえるような光は、すっかり消えていた。
(なぜ? どうして!?)
「そうか、すごいな。俺はリズのにこやかな笑顔なんて見た事がないし、向けられたこともない。俺と二人きりだろうが、他に誰かいようが、リズはいつも無愛想だ。まあ他の誰かとは、たいてい、あの不真面目そうな神官だが」
これ以上ないほど真剣な顔だ。
エミリアは困惑した。キーファの言葉の意味がわからない。リズはキーファに愛嬌を振りまいているはずだ。そうでなければ王太子が平民のリズを相手にするわけが、ましてや気に入るはずがない。
「ですが……!」
思わず声をあげたが、キーファにさえぎられた。
「いいんだ。そうか。リズも、にこやかに笑う時があるのか……いや、待てよ。一度だけ見た覚えがある。だが、あれは俺に向けられたというよりは、リズが安心したゆえに一人で笑っていただけか……」
キーファが遠くを見て寂しそうに笑った。何だ、この自虐のような笑みは。
わけがわからなさ過ぎて、顔がゆがんだ。そんなエミリアの様子を不安がっていると勘違いしたのか、キーファがエミリアに向かって真剣な顔で、励ますように大きくうなずいた。
「大丈夫だ、心配する事はない。君は嫌われてなんかいないぞ。自信を持っていい。むしろ好かれている! ……俺とは違って」
「……はあ?」
思わず素の声が出てしまった。
キーファが何を言っているのか、心底理解できない。
キーファはリズに多大な興味を持っているはずだ。今まで他の女性には見向きもしなかったのに、リズに対する態度だけ違うと聞いた。リズだってキーファを想っているのではないのか。
(……どうなってるの?)
あ然となるエミリアとは逆に、キーファはすっかり自分を取り戻したようだ。
「では、俺はこれで。何かわからない事があったら、神殿にいる神官や侍女たちに聞くといい。きっと丁寧に教えてくれる」
と笑顔で、その場を去って行った。
(何なの!?)
取り残されたエミリアは、呆然とキーファの後ろ姿を見送るしかなかった。
廊下の角を曲がり、シーナの姿が完全に見えなくなったところで、キーファは深い息を吐いた。
申し合わせたように、側近の男が近付いてきた。足を止めないキーファの隣に並び、同じ歩調で歩き続ける。キーファはもう一度深い息を吐いてから、側近の男に小声で告げた。
「もう一度、シーナ・ブライドのいたブライド修道院へ調べに行ってもらいたい。本当にシーナ・ブライドが存在したかどうかを。事実を確認してきてくれ」
側近の男が、かすかに眉を寄せた。
「――何か思うところがあるのですか?」
「わからない」
正直に言うと、側近の男が興味深そうに笑った。
キーファは前を向いたまま続けた。
「ただ、同じ間違いは二度としない。そう誓った」
前世のように、他人の言う事をそのまま鵜呑みにはしない。あんな事は、もうたくさんだ。
同じ間違いは繰り返さない。今度こそ、本当に大切な人を守ってみせる。
真剣な光を目に宿しながら前を向き続けるキーファに、「御意」と側近の男が微笑み、一礼した。




