41 エミリア1
「治癒魔法と薬草……ですか?」
エミリアは内心、戸惑った。それらが神殿に行く事とどうつながるのかわからない。それでもリズを見返してやれるなら、必ず覚えてみせる。
カーテンの閉まった窓を背にして、公爵が言った。
「一つ大事な事を聞いておかなければならない。王太子妃の地位を手に入れるために、君はどこまでできる?」
「……どういう意味ですか?」
「例えば名前を変える事。エミリア・カーフェン――いや失礼、すでにカーフェン家は存在しないんだったね――の名前を捨てられるかい?」
何だ、そんな事か。「ええ、もちろんです」と力強くうなずいた。
この名前に未練はない。公爵の言う通り、カーフェン家はなくなったのだ。多少心は痛むが、修道院から娘を救い出せる力すらない両親など必要ない。
「では、その顔は? 今の、その顔も捨てられるかな?」
エミリアは眉を寄せた。公爵の言葉の意味がわからない。ひょっとして顔を焼いてなくすという事か? 恐怖に震えが走ったが、思い直した。そんなみにくい火傷だらけの顔で、王太子妃に選ばれるなんてあり得ない。
「顔を変えるんだよ。別人の顔にね。そうする事ができる術者を知っている。顔も名前も替えて、君は全くの別人として生きていくんだ。――そうする覚悟はあるかい?」
言っている内容は冗談にしか聞こえないのに、かけらも冗談ではない事がわかった。背筋が冷たくなる。
それでも――。
「もちろんです」
エミリアは凛と顔を上げた。他に道などない。あんな小汚い田舎の修道院なんかで、細々と人生を終えたくない。人にかしずかれ羨ましがられる、そういう立場にエミリアはなりたいのだ。そのためなら何でもする。
公爵が満足げに微笑んだ。
翌日、公爵が呼んだ薬師がやって来た。壮年の、口をあまり動かさずぼそぼそとしゃべる陰気な男だった。
エミリアは元より頭も悪くないと自負している。死に物狂いで覚える意志もある。それでも何の知識もない素人がアストリア国全域に生息する全ての薬草を、しかも短期間で覚えるのは無理だ。それは薬師もわかっていたようで。
「心配する必要はないよ。主にアストリア国東部、しかもコロラド地方周辺に生息する薬草類だけでいいと、アイグナー公爵に言われている」
「……なぜコロラド地方なのですか?」
何の変哲もない田舎ではないか。エミリアが住んでいた村と大差ない。
エミリアの質問に薬師は首を横に振った。理由は知らないのだとわかった。そしてそれに疑問を持とうともしていない事も。エミリアはそう悟り、教えられる事をただただ頭に叩きこんだ。生息地帯や採集時期、処理の方法、効能や副作用など。
ザック地方の山間部にある、人里離れたこの屋敷を訪れる者は、ほとんどない。使用人も最低限しかいない。そして公爵に言われているのか、使用人たちはエミリアの世話はしても、世間話などをして親しくしようとする者は皆無だった。
公爵は時折エミリアの様子を見に、この屋敷にやって来た。エミリアの物覚えの良さに満足そうにうなずいている。
公爵は一見、人当たりは良い。穏やかだし上品だし微笑みも絶やさない。けれど本心が全く見えない。穏やかに微笑んでいても、内心は全く別の事を考えているのではないかと、そう思う。
なぜコロラド地方なのか、というエミリアの質問も、
「それは、まだ内緒だよ」
と、はぐらかされた。
そして魔術師がやって来た。足元まであるローブで体をすっぽりと隠してはいるが、驚くことに若い女性だった。エミリアとあまり年が変わらないように見える。そう思ってハッとした。
「……ひょっとして顔を変えたんですか?」
自分自身の顔を。
「ええ、その通りよ」
答えた声も若かったが、若干しわがれているようにも聞こえた。
彼女から、まず治癒魔法を教えられた。治癒魔法といっても、もちろん万能ではない。治せるものなど限られている。少しだけ熱を下げたり、流れる血を止めたりといった、いわゆる自己治癒力の補助みたいなものだ。医術で治せないケガや傷を治したりと、そういった事はできない。
そういった奇跡のような事ができるのは、多大な聖なる力を持つ者――つまりは聖女だけだ。
それでも薬草を頭で覚えるのとはわけが違う。エミリアが魔力持ちといえど、触れたこともない治癒魔法を使えるようになるのは難しかった。
「ねえ、あなたが望むなら治癒魔法を使えるようにしてあげるわよ。少し体に負担がかかるけど、たいした事じゃないわ」
「……なぜ、あなたほどの力を持つ方が、このようにひっそりと生活なさっているのですか?」
エミリアは愕然として聞いた。当然の疑問だ。顔を変えられる事ももちろんそうだが、治癒魔法を開花させるなんて、そこらの魔力持ちレベルではない。名のある魔術師や上級神官以上、それこそ聖女レベルだ。
彼女は答えず、にっこりと笑った。その笑顔からは何も読み取れない。しかし外見こそエミリアより少しだけ年上の二十歳そこそこに見えるが、実際はかなり年をとっているのだろう。
神殿へ行くのに、なぜ薬草の知識や治癒魔法が必要なのか。そもそも顔を変えるとは、どんな顔に?
その疑問に答えてくれたのは、エミリアが魔術師の手を借りて治癒魔法を開花させ、薬草の知識をあらかた吸収した時だった。
「もうしばらくしたら、東部コロラド地方でいさかいが起きる。民族同士の抗争だ」
「……え?」
呆然としてしまった。何を言っているのだ。コロラド地方は複数の少数民族が暮らす地域である。それでも民族同士の間で協定が結ばれていて、もう何百年もいさかいは起きていない平和な地域だとエミリアだって知っている。
「ちょっと待ってください。一体どういう――?」
「言葉の通りだ。これから紛争が起きるんだよ、エミリア嬢」
公爵が薄く笑った。
エミリアは息を呑んだ。つまり、公爵がいさかいを起こすのだ。コロラド地方に。
「そんな事どうやって……」
「人が集まって生活している以上、不満がないなんてあり得ない。ただ皆、表面的に仲良くやっているだけだよ。くすぶる不満を腹の底に隠して、顔で友好的に笑っているだけだ。それは王都から辺境へいけばいく程ね。そこに火種を入れてやれば簡単に、そして勝手に燃え広がっていくものだ」
あくまで穏やかな口調にゾッとした。
公爵が続ける。
「そこで君は献身的に、傷ついた人々の看護を行う。身に着けた治癒魔法と薬草の知識を使ってね。人々は君に感謝するだろう。まさに戦場に舞い降りた天使だ、聖女だ、とね」
自分が? エミリアが平民のために尽くす? まるで笑い話ではないか。
――けれど、それが笑い話などではなく、これからエミリアがしなくてはならない事なのだとわかった。
「神殿は今、次期聖女の選定中なんだよ。普段以上に警戒されている。そこへもぐりこむためには色々と準備が必要だ。それにキーファ殿下に目をかけてもらうためには、少しでも特別な地位にいた方がいい」
それは、わかる。しかし――。
「今の話を聞いて心が痛んだかな?」
微笑みながら聞いてくる公爵を、エミリアは見すえた。
それが神殿へ行くための手段ならばエミリアに異存はない。何人死のうが、しょせん地方の異民族だ。エミリアには関係ない。
エミリアの考えがわかったのか公爵が楽しそうに笑った。
「やはり君を選んだのは正解だったよ」
その通りだ。
そして、ついにエミリアの顔を変える時がやってきた。
「言っておくけれど、変えた顔は一生、元には戻らないわ。あなたのエミリア・カーフェンとしての生は今日で終わり。明日からは全く別の人間として生きていくのよ」
魔術師の言葉に、深くうなずいた。覚悟はできている。
「これは禁術だ。存在することを知っている者すらごくわずかだよ。使える者といえば、さらに限られてくる。では始めよう。顔は、前に私が言った通りに。体は――まあ、そのままでいい。多少良すぎるくらいだが、そこはご愛敬だ。殿下にも、あの貧相な体よりは、きっと気に入っていただけるだろうから。――さて、心の準備はいいかな?」
一体、誰と比べているのだ? そんな疑問が頭にわき上がった瞬間、エミリアの意識は途切れた。
――次に目が覚めた時、すでに太陽の位置は高く、魔術師の姿もなかった。顔に痛みや違和感は全くない。それでも急いでベッドから飛び起き、鏡をのぞいた。そして、
「何なの、これ!?」
と悲鳴のような大声をあげた。
ものすごく地味な顔立ちだったからである。特に特徴もない、十人並みな顔。むしろ、ぼんやりとしていて貧乏くさい。元のエミリアの顔の方が何十倍も美人だ。こんな華やかさとは無縁な顔を、キーファ王太子が気に入るわけがない。
エミリアの声を聞きつけたのか、公爵が部屋に入ってきた。
「何ですか、これは!?」
エミリアは我を忘れて突っかかった。
あごや口元も変わったせいか声まで違う。品がない声だ。まさに声まで貧乏くさい。
「ふざけないでください、王太子妃になれるというから私は覚悟を決めたのです! それを――!」
激しい怒りがわいてくる。しかし憤るエミリアに、公爵は顔色も変えない。
「まあ確かに、世間でいうところの美人ではないね。だが、キーファ殿下はお好きな顔だよ。それは確かだ。必ず気に入っていただける」
まるで地の底から不気味に這い上がってくるような、そんな確信に満ちた言い方だった。エミリアは続く文句を飲み込んだ。
「新しい名前と身分も用意した。君はたった今から、シーナ・ブライドだ」




