1 前世のセシル
不幸は突然やってきた。
王都の外れにある古い集合住宅の一室。貧乏ながらも恋人のユージンと幸せに暮らすセシルの元に、名門ハワード家の使いだと名乗る者があらわれたのだ。
「ハワード家の跡継ぎ? 俺が?」
あっけにとられるセシルの隣で、ユージンがぼう然となっている。無理もない。生まれてこのかたずっと平民だったのに、突然「あなたは実は貴族です」なんて言われたのだから。
使いの者が、うやうやしくうなずいた。
「はい。ユージン様は確かにハワード家の現当主のご子息です。ユージン様の母親は――十年以上前に亡くなったそうですが――当時ハワード家のメイドをしており、現当主の子供を妊娠中に行方をくらませてしまったのですよ」
聞けばハワード家にはユージンと同じ年の一人息子がいたが、半年前に病死してしまったという。そのため、代わりにユージンを正式な跡継ぎとして迎えたいという事だった。
目の前で繰り広げられる夢物語のような現実に、セシルは息苦しいほどの不安が込み上げてきて、見慣れたユージンの粗末なシャツのすそをぎゅうっと握りしめた。
ユージンがハワード家の跡継ぎになってしまったら平民のセシルとは一緒にはいられないだろう。結婚の約束もしていたのに。
思い描いていた未来がガラガラと音をたてて崩れていくようで、目まいがした。
「とりあえずハワード家へ行ってみるよ」
使いの者が去った後、ユージンがぽつりと言った。
セシルは胸が一杯で答えられなかった。
ユージンは口には出さなかったが自分の父親がどこの誰なのか、ずっと知りたがっていた。それが、やっと判明したのだ。跡継ぎになるかどうかは別としても、実の家族に会える機会が訪れた。ユージンのためには喜ぶべき事だ。
それなのに、ちっとも喜べない。むしろ嫌だ。本当に嫌だ。自分は捨てられてしまうのだろうか。ユージンを失ったら生きていけない。
「ちゃんと帰ってくるよね……?」
絶望のふちですがりつくようなセシルの心を読み取ったのか、ユージンは笑って安心させるようにセシルを強く抱きしめた。
「父親の顔を見てみたいだけだ。大丈夫、すぐに帰るから。戻ってきたら結婚の誓いの指輪を贈るよ。資金がようやく貯まったんだ。セシルの目の色と同じ、青色の石がついた指輪をね」
翌朝、祈るような気持ちでセシルはユージンを送り出した。ユージンはいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
気を抜くと悪い方へ悪い方へと考えてしまうのを奮い立たせて、セシルは頑張っていつもと変わらない毎日を過ごした。朝ご飯を食べて、仕事に行って、掃除をして、夕ご飯を食べて。ひたすらユージンの帰りを待った。
けれど、いくら待ってもユージンは戻ってこなかった。
セシルは意を決してハワード家へ行ってみた。
そこでハワード家の執事から、ユージンがハワード家の正式な跡継ぎになった事、そして何より同じ貴族であるグルド家の令嬢と近々結婚する事を聞いたのだ。
すでに周知の事実で、当人たちもとても乗り気だと。
(嘘よ……)
頭を固いもので殴られたような衝撃だった。
信じられない。そんなの信じたくない。
うっとうしさを隠そうともしない表情の執事に、セシルは詰め寄った。
「一度でいいんです、ユージンに会わせて下さい。少しでいいんです!」
「たかが平民ふぜいが次期当主のユージン様に会えるわけがないだろう」
「私はユージンの恋人です! 結婚の約束もしていました!」
「何を馬鹿な事を! ユージン様はグルド家のご令嬢と結婚なさるんだ」
「だから、お願いですから一度会わせて!」
玄関先で押し問答していると
「嫌ねえ。何事なの?」
流行のシルクのドレスとおそろいの帽子をかぶった若い女性が眉をひそめていた。
「これはグルド家のお嬢様!」
セシルの時とは打って変わった態度の執事が慌てて深い礼をした。
(グルド家の令嬢……この人がユージンの結婚相手!?)
セシルは息を呑み、そして唇を噛みしめた。令嬢と自分との違いが一目でわかったからだ。
最先端のドレスを着こなし、日焼けなどした事もないような白くなめらかな肌と手。
セシルもハワード家へ行くのだからと持っている中で一番いいワンピースを着てきたが、令嬢のドレスの前ではボロ同然だ。そして自分の日焼けした頬と水仕事でガサガサになった両手。
何もかもが違う。
存在する世界が違うとよく言われるけれど、その通りだ。残酷なまでに見せつけられた、平民と貴族という自分たちをへだてる深い深い溝に目の前が真っ暗になりそうだった。
令嬢がさげすむような目でセシルを見た。
「どういう事? なぜ下女が正面玄関にいるのかしら?」
お前にふさわしいのは裏口でしょう、と暗に言われている。
「申し訳ありません、お嬢様! すぐに追い出しますので!」と執事が乱暴にセシルの肩に手をかけて、外へと引きずり出そうとする。
嫌だ。このまま帰ったら二度とユージンに会えない。
セシルは泣きそうになるのを必死でこらえて声を張り上げた。
「待ってください! 一度でいいんです、ユージンに会わせて!」
「ユージン?」
令嬢がゆっくりとまばたきしてセシルを見すえた。冷たい目だ。同じ生き物と思っていないような。
セシルは自分を奮い立たせて令嬢を見返し、そして気付いた。
「その指輪……」
令嬢の右手の薬指には、大きな青い宝石のついた金の指輪が光っていた。
このアストリア国では女性が右手の薬指につけるのは、親しい男性からの贈り物の時だけだ。ユージンと結婚予定の令嬢がユージン以外の男性から贈られたものを身につけるはずがない。
顔をゆがめて恐る恐る視線を上げれば、令嬢の目もセシルと同じ青い色だった。
がく然とした。
ユージンだ。これはユージンが贈った指輪だ。
「……あなた、もしかしてユージン様が平民だった頃に一緒に暮らしていたという女なの?」
令嬢が驚いたように目を見開いた。そして今にも崩れ落ちそうなセシルを前に、勝ち誇ったような顔をした。
「残念だけどユージン様は私と結婚するのよ。平民のあなたとでは、もう住む世界が違うの。――それにしてもユージン様の言っていた事は本当だったのね」
「ユージンが言っていた事……?」
すがりつくような顔をしていたと思う。実際セシルには他にすがるものはなかったのだから。ユージンの心にまだ少しでも自分がいる事を確かめたかった。
けれど令嬢の言葉は非情なものだった。
「ええ。平民だった時の恋人が――あなたの事よね――何か勘違いをして自分に会いに来るかもしれない、って。本来なら関わり合いにならない身分だったのに。全ては間違いだった、二度とあなたには関わりたくない、ってね」
地の底まで打ちのめされたセシルに、令嬢が薄く笑った。
「そうそう。手切れ金なら少しは用意する、とも言っていたわ」
どこをどうやって帰って来たのかわからない。気が付いたら部屋にいた。泣いて泣いて泣いたところで、タチの悪い流行風邪にかかったセシルはあっという間に寝込んでしまった。
ショックで気力がなくなっていたのも原因だろう。
失意のうちにセシルは死んだ。十八歳という若さで――。
――というのがリズの前世である。
セシルの死からおよそ五百年が経ち、同じアストリア国内にセシルは「リズ・ステファン」として生まれ変わった。
前世の記憶を残したまま。
(我ながら、ふざけた人生を送ったものだわ)
前世を思い出すたびにリズは心の中で悪態をつく。
貴族だとわかった途端に、あっさりと恋人を捨てるような、しかも姿を見せて釈明する事もなく黙って逃げた男。そんな男をひたすら想い続けて一人きりで病気で死んだなんて、後悔しかない。何てもったいない人生にしてしまったんだろう。
だから心に決めていた。
(今世は絶対に自由にたくましく、自分の思う通りに生きてやるんだ!)