ピスアール
地球と月の2体微分方程式には一般解があるが、もうひとつ天体を加えた3体微分方程式には一般解はない。ただ、もうひとつの天体が地球や月よりも著しく軽いという制限条件のもとでは、重力均衡点が存在する。これがラグランジュポイントと呼ばれるもので、全部で5つのラグランジュポイントがある。
ラグランジュポイント1、2、3は、地球と月を結ぶ直線上の重力均衡点で、内均衡点がラグランジュ1、月に近い外均衡点がラグランジュ2、地球に近い外均衡点がラグランジュ3である。月の衛星軌道上でラグランジュ3と正三角形をつくる位置が、ラグランジュ4とラグランジュ5だ。
ザサンの建造位置はラグランジュ2。
いちおう、月資源を高効率で収集でき、完成後に惑星軌道への移行も容易、というふれこみでラグランジュ2にしたことになっているが、月資源ということなら月の引力圏を離脱できればよいので他のラグランジュポイントと大差なく、均衡点の安定度ではラグランジュ4や5のほうが上なのだから、この主張は眉唾モノだ。
単にラグランジュ2が地球から直接見えないから、というあたりじゃないかな、とジュニアは勝手に思っている。
見える、見えないなんて、たいした違いはないのだが、この件にからんでいる小悪党みたいなのにとっては、そういうところが重要らしいのだ。
ザサンの内部には1000人を超えるエンジニアが常駐している。
立ち上げ機の初期建造時にはもっと多かった。
ケミコさんを常駐させれば良さそうなものだが、ジルフーコ叔父さんすら手こずらせた情報核の量産、けっきょくこれがうまくいかず、ケミコさんは地球ではまだまだ貴重品だ。
もともと胞障壁間の移住を想定して設計されたのがダーの立ち上げ機だ。その居住区部分をざっくり10万分の1程度に削減したのがザサンだと思えばいい。
ザサンの居住区は快適とは言い難いけれど、本物の宇宙居住区だし、それだけで一部の宇宙好きならモチベーションも上がる。数千人程度のエンジニアが暮らすには、まあ、十分とは言って良かった。
地球や月基地との連絡艇は、常に複数でザサンのドッキングポートを占有している。常時、空きがあるのは1ポートだけだが、ジュニアはそれをふさぐことはしなかった。
ジュニアは多目的機をザサン外壁に横付けし、非常用脱出ハッチを外部から操作して中に入った。
ザサン側の管理部門にとって、こんなことはまったくの想定外だった。
彼らは、5万キロぐらい先から多目的機を捕捉だけはしていた。だが、多目的機は地球側の宇宙艇とは異なり、衛星軌道その他の重力の影響を考慮しない、まったく自由な航路をとりながらザサンに近づいてきた。迎撃は不可能だったのである。
ザサンに近づく多目的機を制止できなかっただけではない。
ザサンのメインコントロールは、当然、管理部門が掌握していた。しかし、いざ緊急事態となったとたん、管理部門側の指令はすべて例外事項として拒絶されてしまったのである。外部からの侵入者である多目的機の権限のほうが強かったのだ。
もちろん、多目的機単体ではそれほどの力はない。うしろに宇宙船、完全稼働している第2類量子コンピュータが控えているからこそできることだった。
緊急脱出ゲートから、逆に入ってきた3人を、ザサンのエンジニアたちは、何もできずに遠巻きに眺めていた。
彼らは、見た目、異様だった。
地球のものとは異なる宇宙服は、なにより、装着者の体型がはっきりとわかるほど体にフィットしていて柔軟だった。1人は宇宙服の上からでも、明らかに、女性とわかるシルエットで、あろうことか、もう1人は背の高さから子供としか見えなかった。真ん中の1人は普通の男性に見えたが、それだって本当のところはわからない。
ザサンのエンジニアにも女性はいる。だが、作業用宇宙服の外側から見て、男女の区別がつくようなことはなく、ましてや、子供サイズの宇宙服を着ている者などいなかったのだ。
無重量のザサン内をスラスターで滑空する3人。
「止まれ」
見かねたエンジニアの1人が声をあげた。
「君たちは何者だ。この施設への入場は、きちんとした手続きを…」
その声に我に返ったのか、棒立ちだった警備員たちが、いっせいに3人に飛びかかる。
3人のうち、女性とおぼしきラバースーツが、軽い手さばきで襲撃者をいなす。警備の者たちは彼女に微妙に変えられた軌道をもとに戻すことができず、皆、壁に激突した。
3人は何事もなかったかのように通路を進み、もう誰も彼らを諫めるものはいなかった。
ジュニアは、あてもなくザサンの立ち上げ機をさまよっていた。
ザサンと交信するだけなら、いますぐにでもできるが、やはり中心に近いほうがやりやすいだろうと思ったのだ。
あとは、ザサンの中心がどこか? ということになるが…
それは人間の魂の居座みたいな話しなので、ザサン自身に答えてもらうしかない。
「あなたは、だれ?」
声とも、そうでないとも思える音が、空間を満たした。
「ユズルヒノ」
双子のかたわれが答えた。
「アンヌワンジル」
アンヌワンジルも答えた。
「ジュニア、ジムドナルドジュニアだ」
ジュニアは自分の名を言ってから問い返した。
「ここでいいのか? このまま話すかい?」
左ななめ前のゲートが開き、室内に照明が灯った。
ジュニアは先頭になって進み、他の2人を手招きする。アンヌワンジルとユズルヒノもジュニアに従って部屋に入った。
「わたしは、ザサン」
部屋に入ると声が言った。でも、すぐに自信なげにつけたした。
「…で、いいのかな?」
「いいんじゃないか?」
ジュニアは真顔で言った。
「わりと良い名前だと思うぞ」
「わたしは、ザサンだとみんな言うんだ」
声はとまどいがちに言う。
「地球および太陽系の平和と発展に貢献しつつ、胞障壁を超えて、他の胞宇宙との間を行きかうのが、わたしの使命らしい」
「まあ、やりたいんなら、やればいいんじゃないか」
ジュニアはそっけない。
「俺も胞障壁は超えるつもりだし」
「いっしょに連れていってはくれないの?」
声が急に幼さを増した。
「自分で行けよ。できるだろ?」
「ダーは、最初、連れていってもらえたんでしょう?」
「そりゃあ、ダーを囲んでた最初の胞障壁は不適合型だったからな。誰かに連れてってもらわなきゃ、どうしようもないだろ? それとも、お前。超えられそうにないのか?」
声はしばし躊躇した。第2類量子コンピュータとしては、ほぼ無限の時間をついやした後、声は答えた。
「…たぶん、超えられるとは思うけど」
「じゃあ、だいじょうぶだ。がんばれよ」
「待って」
第2類量子コンピュータの声は、もはや、悲鳴に近かった。
「ぼく、頭が悪いんだよ。第2類量子コンピュータとしては、きっと、不良品なんだ」
アンヌワンジルとユズルヒノが顔を見合わせ、同時につぶやく。
「サイカーラクラ叔母さんとおんなじ」
「まるでサイカーラクラ叔母ちゃんだ」
「サイカーラクラ?」
声が震えた。
「だって、だって、サイカーラクラは、ダーを超えた唯一の完璧な第2類量子コンピュータだよ。だからどんな胞障壁も自由に行き来できるし、自分の情報核を励起子体として固定できたんだ」
「叔母さんが完璧かどうかは知らないけど」
アンヌワンジルが言う。
「あたしが赤ん坊のころ、叔母さんはあたしのことよく落っことしてたらしい。あたしは元気な赤ん坊で、落とされても、けろっとしてたから、母さんはあまり気にしてなかったみたいだけど。叔母さんはそのたびにパニックになっちゃって、しまいには怖がってあたしのこと抱っこしなくなったみたい。けっこう、大きくなってからも、頭とかなでられて、ゴメンンね、ゴメンね、って言われてたよ」
「叔母ちゃん、私頭悪いから、が口癖だからなあ」
ユズルヒノはサイカーラクラの口真似をして見せた。
「でも、ケーキ焼くのは母ちゃんより上手いな。もしかしたら、ばあちゃんより上手かも。だからまあ、ばあちゃん以上、って言ったら、そうなのかもしれない」
「というわけだ」
ジュニアは笑った。
「安心しろ。お前、普通の第2類量子コンピュータだよ」
「でも、ぼく、ひとりだよ。みんな行っちゃうんでしょ?」
「仲間を探せよ」
なだめるように、ジュニアは言った。
「サイカーラクラ叔母さんは、俺の父さんや、アンヌワンジルとユズルヒノの父さん母さんを探し出して、それで宇宙に出た」
「そんな都合良く、伝説の宇宙船乗組員みたいなのが、簡単に見つけられるわけがない。ぼくには無理だ」
「ちゃんと探したのか?」
「え?」
「ちゃんと探したのか?」
ジュニアは2度たずね、そして、つけたした。
「ちゃんと探したのに、いないってんなら、お前の言い分もわかるけどな。探しもしないで愚痴るのは良くないぞ。それに、俺は少なくともそういうの、1人は知ってる」
「1人、だけ…?」
「1人いりゃ、ラグランジュ2抜けるくらいなら十分だろ。それに、探したら、もっといるんじゃないのか?」
「うん、…うん、もう少し、いるみたい」
ザサンは情報キューブは無論のこと、地球上のあらゆるコンピュータと接続している。地球上のすべての人間を探すのに、さほどの手間はかからなかった。
「じゃあ、がんばれ」
ジュニアは笑った。
「まあ、いろいろ不満はあるだろうけどな。そのほうが絶対いいんだ。最初から怠けることばかり考えるのは良くない」
「怠けようと思ったわけじゃない」
ザサンは憮然と返した。でも、怒ったわけではないのは、次の言葉を聞いてわかった。
「ぼくが、ちゃんと胞障壁を超えられたら、…また、会えるかな」
「会えるさ」
ジュニアは力強く答えた。
「そのときは、たぶん、お前の友だちもいっしょだ」
「友だち?」
「人間じゃ、なかなか、友だち、ってわけにはいかないだろ」
ジュニアは笑う。
「第2類量子コンピュータには、第2類量子コンピュータの友だちがいたほうがいい」
「ダーのこと?」
「ばあちゃんは友だちにはむかないよ」
そう答えたのはユズルヒノだ。
「いくら優しいっていっても、ばあちゃんは、ばあちゃんだからな。友だちになるんなら、もうちょっと年齢が近いほうがいいんじゃないか?」