アンヌワンジル
家に帰ってソファに寝ころび、もらった本を読んでいると、母さんがやってきた。
テーブルの上にある本をとると、ぱらぱらとページをめくる。ふーん、と勝手にうなずきながら、ジュニアのとなりに腰かけ、そのまま読みだした。
2人は、黙って本を読み続ける。
途中、ふと思い立ったジュニアが、キッチンに行ってオートミールのはいったボウルを2つ持ってきた。それを見た母さんは、「ありがと」と微笑んで本を読み続けた。
最初、母さんはジュニアの読み終わった1巻から順に読んでいたのだが、ジュニアが3巻を読みはじめると、いきなり飛ばして、4巻を手に取った。
そして、ジュニアが3巻を読み終わっても4巻を手放さない。
「返してくれる?」
ジュニアの言い方はとても自然で柔らかいものだったが、母さんはなかなか4巻をジュニアに渡さない。
「まだ、読んでるから…」
「読んでないだろ」
母さんは何か言いかけたが、あきらめて、本をジュニアに渡すと立ち上がった。
「もう遅いから、ほどほどにしてね。明日は学校でしょう?」
「もう学校には行かない」
ジュニアは本から顔を上げると、そう言った。
「それに、大事だから、ちゃんと読めって言われた」
「誰に言われたの?」
「アンヌワンジル」
そう、と母さんは細く長い息をついた。それから、微笑もうとしたのだろうが、母さんの顔は、もう、涙でぐちゃぐちゃで、あまり笑っているようには見えなかった。
母さんは、ソファに寄り添うとジュニアを抱きしめ、頬にキスをした。
「おやすみ、ジュニア、またね」
母さんは、また明日ね、とは言わなかった。母さんにはもうわかったのだろう。
「おやすみ、よい夢を」
ジュニアは母さんに言って、本の残りを読み続けた。
次の日、
ジュニアは、商業施設で昨日と同じテーブルに座っていた。
シェークは頼んでいない。
いつ来るかわからないし、待っているあいだ飲み続けてシェークで腹いっぱいになるのはかっこ悪いと思った。
平日の商業施設は人もまばらだ。
ジュニアは、見ためだけなら大人だから、平日の昼間、こんなところでぶらぶらしていても、誰も何も言わなかった。背格好というより、落ち着きはらった面持ちが、子供のそれではなかったから。ヘンなところばかり似る、とボヤいていたのは父さんだ。
「本は読んだ?」
いつの間にやってきたのか、
目の前の金髪の少女がジュニアに微笑みかける。
「読んだよ」
そう、と笑うアンヌワンジルは、もういちど、たずねた。
「で、どうする?」
「宇宙に行く」
どうやって? と、いたずらっぽく笑うアンヌワンジル。
「君の乗ってきた宇宙船に乗っていくさ。後のことは後で考える」
アンヌワンジルの顔から笑みが消え、かわりに美しい顔がほんの少しこわばった。ジュニアの答えを真剣に受けとめたようだった。
それがいいね、アンヌワンジルが言って立ち上がろうとする。それを、ジュニアが留めた。
「頼みがあるんだ」
「何?」
アンヌワンジルは、椅子に腰を戻して、じっとジュニアを見つめる。あまりにまっすぐな眼差しに、ジュニアのほうが、ちょっとどぎまぎしてしまう。
「出かける前に…」
ジュニアは言った。
「母さんに会ってくれないか。その…、とても喜ぶと思う」
「ラーベロイカ叔母さんに?」
アンヌワンジルは、母さんを昔の名で読んだ。それから、思案気に顔を曇らせたが、思いきったように言った。
「いいよ。ママとパパからもご挨拶するように言われてたし」
「ありがとう、母さんも喜ぶよ」
ジュニアは立ち上がって、優しくアンヌワンジルの前に手を差し出した。アンヌワンジルはためらいも見せずにジュニアの手をとり、引かれるままに歩き出した。
「あたし、1人なの?」
玄関の前で、いぶかしげに問うアンヌワンジル。
「うん、まあ」
と、ジュニアも、こればかりは気まずそうだ。
「たぶん、俺も一緒だと、母さん、泣いちまうからな」
アンヌワンジルは、じっとジュニアの顔を見つめていたが、わかった、と返事した。
「勇気がいるな」
アンヌワンジルは言った。
「友だちのお母さんに会うときには、いつも緊張するんだ」
そう言って、少しだけ頬を膨らませたアンヌワンジルの背中を見送り、ジュニアは後ずさりしながら木陰に身を隠した。
小一時間ほどして、アンヌワンジルが玄関から再び現れる。母さんが家から出てこないのを確認して、ジュニアも木陰から身を現した。
「優しいお母さんだね」
アンヌワンジルは言った。
「卵をもらったよ。美味しそうだ」
「卵?」
ジュニアはちょっとだけ顔をしかめた。
「検疫のこととか、何も考えてないな」
「食べられないの?」
「いや、それは…」
ジュニアは取りつくろうように即座に答えた。
「何とかする。割らないようにだけ、気をつけてくれ」
良かった、と顔をほころばせるアンヌワンジルだったが、ふと、眉間に小さくしわをよせると、ジュニアにたずねた。
「ほんとうに、会わなくていいの?」
「いいよ、だって、ほら」
ジュニアは右手を上げて、遠い地平線を人差し指で指し示す。
その地平線に吸われるようにのびる細い道路の先に動く点、
はじめは点にしか見えなかったそれは、近づくに連れて大きくなる。粉塵を巻き上げつつ走る屋根のないスポーツカー。
とても乗り心地の悪いガソリン車は、わざとらしく急ブレーキを踏んで、いましがたアンヌワンジル出てきたばかりの家の前に止まった。
運転席のサングラスの男は、ジュニアによく似た金色の巻き毛をなびかせ、花束と、きれいに包装されたプレゼントの包みを抱え、車から颯爽と降り立った。
「あれ、何?」
呆気にとられて問うアンヌワンジルに、ジュニアは苦笑いしながら答える。
「父さんだよ。父さんは、いなきゃならない時にはかならず現れるからな。なんなら、父さんにも会ってみるかい?」
「いや、いい」
アンヌワンジルは首をふった。
「あなたのお父さんは、ほんとうにママの言ってたような人みたいだから、それなら、絶対に会わない方がいい」
それを聞いて、ジュニアは笑った。
「イリナイワノフ叔母さんは、なかなか、かしこいな」
それから、アンヌワンジルに視線を向ける。
「行こう、あとのことは父さんにまかせるさ」
多目的機のハッチから中に入ると、いきなりザワディに出くわした。や、と片手を上げてあいさつしたジュニアに、ザワディは面倒くさそうにアクビを返す。
ライオンへのあいさつをすませたジュニアは、そのまま操縦室に入った。
席に着くとすぐに、計器を調整しだしたジュニアに、あとから入ってきたアンヌワンジルが目を丸くした。
「操縦できるの?」
「父さんがさ」
造作もなく、機体をホバーさせながら、ジュニアが言う。
「たまにしか帰らないくせに、家にいるときは寝てるとき以外、ゲームばかりしてたんだ。こっちもゲームは嫌いじゃない。でも、父さんは、何だって上手いからな。そうそう勝てるわけはないんだ。だから、父さんがいるときもいないときも、暇を見つけては練習した。父さんよりうまくなろうと思ったんだ。そのゲームさ、学校で話しても誰もやったことがない。そりゃ、そうだ。操縦席が、ここ、そっくりだったんだ」
機体を安定させ自動操縦に切り替えたところで、ジュニアはアンヌワンジルに振り返る。
「ま、うまくはめられた、ってヤツだ。たぶん宇宙船の操縦もできると思う」
「じゃあ、このまま、宇宙に行く?」
「いや、その前に行くところがある。カナダだ」
カナダと聞いて、アンヌワンジルの顔に笑みがさす。
「双子のところに行くのね」
「そうだよ」
ジュニアは答えた。
「あの双子をおいていったりしたら、後で何を言われるかわかったもんじゃない。そもそも、宇宙に行くときは一緒に行こう、って約束してたんだ」