絶対領域
「何してるんですか?」
ビュッフェとミーティングルームの間の敷居から、むこうをのぞきこんでいるユズルヒノに、カオルヒノが声をかけた。
しっ、と右手の人差し指を唇にあてて振りむいたユズルヒノは、小声で言う。
「いま、姉ちゃんが、がんばってるから。邪魔しちゃだめだ」
何がです? カオルヒノも敷居の間仕切りから半分顔を出して中をのぞいた。
ジュニアがいつものように大の字にソファに寝ころんでいて、そのソファにのすみっこに、アンヌワンジルがあさく腰かけている。
「お姉さん、何してるんです? どうせソファに座るのなら、もっと、お兄さんにくっつけばいいのに…」
「ばあちゃんやエイオークニにいろいろ言われたらしいんだよ。それから、どうも、おかしいみたいだ」
「いろいろ、って何です?」
「兄ちゃんの子供、産む気あるかどうかとか、そんなことらしい」
「あらま」
カオルヒノは目を丸くした。
「ワタシたちには、まだ無理ですからね。それで? お姉さんは何と?」
「顔真っ赤にして、何も言えなかったらしい」
「お姉さんらしいですね」
カオルヒノは嘆息をついた。
「別に、先に産んでもらったってかまわないのに。そんなに減るものでもないんですから」
「そりゃ、ま、そうなんだが…」
ユズルヒノはソファの2人から目を離し、ユズルヒノに向いて、言った。
「姉ちゃんもゾンダード育ちだからなあ。そのへん、地球育ちとはいろいろ違うのかもしれないじゃないか」
ソファのはしっこに座って、
アンヌワンジルは、ジュニアの寝顔をずっと見つめていた。
――どうしよう
いろんな思いが頭の中を駆けめぐって、アンヌワンジルは途方にくれていた。
何がしたい? と聞かれれば、このままずっと見ていたい、というのがアンヌワンジルの本音だった。
それで満足、というわけでは、もちろんなかったけど…
それでも、この何かと面倒の多い男の子の寝顔は美しく、造り物のように整った額にかぶる金色の巻き毛は、見ているだけでアンヌワンジルの心を和ませた。
――あれは観賞用だから
ジュニアのお父さん―ジムドナルドを指して言ったママの言葉にはとても納得できる。
もちろん、起き上がって活動しているジュニアは凄いと思う。
ただ、パパやママ、あるいは伯父さん伯母さんたちのようなのを見慣れてるとはいえ、ジュニアの挙動とその思考は衝撃的だった。
人ではない、それは、ダーのようなコンピュータともまた違う、ほんとうに名指し難いものだ。
――もし、神様がいるとしたら?
アンヌワンジルは、その先を考えるのをやめて、ソファから腰を浮かした。
「手伝ってほしいことがあるんだ」
目をつぶったまま、そう発したジュニアに、ひっ、と小さく悲鳴をもらし、アンヌワンジルはとびのいた。
「まあ、そう、びっくりしないでさ」
怯えた顔のアンヌワンジルに、ジュニアは微笑みながら右手を差し出した。
おそるおそる、目の前に差し出された手に自分の手をそえるアンヌワンジル。
「そんな難しいことじゃないんだ。ひとりでもできなくはないが、手伝ってもらえるとありがたい」
「まずこいつが鶏レバー、塩こしょうして、軽くソテーする」
ジュニアはソテーパンでレバーを炒めるとブランデーをそそいだ。
「そっちに牛肉と豚肉があるから、フードプロセッサーで挽肉にしてくれ」
「これ?」
「そう、それ」
ぎこちない手つきで肉を挽いていくアンヌワンジル、ジュニアは炒めたレバーを器にあけて冷ましながら、アンヌワンジルに言った。
「そう、そんな感じ。挽き終わったらボウルに入れてよく練りこんでくれ」
アンヌワンジルは悪戦苦闘しながらも、どうにか合いびき肉をこねる。
「どこから、こんなもの持ってきたの?」
「え?」
「どこで、こんな肉、手に入れたの?」
「合成だよ」
フードプロセッサーで豚レバーを挽きながら、ジュニアが答えた。
「地球出るときはばたばたしてたからな、仕入れるヒマがなかった。双子の母さんが肉の合成レシピをかなり改良してくれたんで、天然ものと遜色ないと思う」
「ナミコヒノ伯母さんが?」
「そうだ。もともとはザワディ用だったらしいんだが、意外にザワディが何でも食うんで、人間用にもおこぼれが回ってきたんだ」
「…なる…」
「お、だいぶ粘りが出てきたな、いい感じだぞ」
ジュニアはアンヌワンジルが混ぜているボウルに挽きたての豚レバーを加えた。それから、パン粉、塩こしょうを少々、オールスパイス、最後にブランデーをたらす。
「だんだん肉がまとまってきたろ? そんな感じだ。もう少し頑張ってくれ」
アンヌワンジルが肉をこねている間に、ジュニアは豚の背脂を1センチ角に切りブランデーを振りかけた。すっかり冷えた鶏レバーも同様に1センチ角にきざむ。
「良さそうだな。ありがとう」
アンヌワンジルから受け取ったボウルに、背脂と鶏レバーを入れてザックリと混ぜた。
「手を洗ったら、冷蔵庫にテリーヌ型があるから出してくれないか。内側にバターが塗ってあるから、触らないように気をつけて」
テリーヌ型に隙ができないように、慎重にタネを詰めていく。詰め終わったタネの上に生のタイムとローリエの葉を敷き詰める。
「これ、どうしたの?」
タイムとローリエを指差してたずねるアンヌワンジルに、ジュニアはウインクした。
「ゴーガイヤに作ってもらってるんだ。食いでがないけど、いいのか? ってゴーガイヤは言うんだけどな」
「へえぇ」
アンヌワンジルはローリエの葉を一枚とって鼻の下にかざした。さわやかな香りが鼻腔をつたって肺の中いっぱいに流れ込んできた。
ジュニアは裏にバターをひいたアルミホイルでテリーヌ型にふたをした。
そして、テリーヌ型を天板に移すと、底にお湯を入れ、そのまま、オーブンのふたをしめる。
「一時間くらいだな。ま、茶でも飲みながら待ってよう」
ジュニアはキッチンテーブルの前の椅子に腰かけ、アンヌワンジルに煎れたての紅茶を勧めた。アンヌワンジルは、ありがとう、とジュニアのとなりに腰かけた。
「うまいことやるもんだなあ」
キッチンの入り口から中の様子をうかがっていたユズルヒノが独り言ちた。
「あの顔で、あんなことされたら、たいていの女はイチコロだろ。宇宙船に隔離しといて良かったな」
「そんなことより、問題は、あのオーブンの中身です。あ、もう、いい匂いがしてきた。焼きあがったら、さっそくお味見を」
「何、言ってんだよ」
ユズルヒノはカオルヒノはたしなめた。
「あれ、テリーヌだぞ、しかも本格的なヤツ。最低でも1日置かないと味が落ち着かない」
「そんなことわかってますけど、それは、また、明日、食べたらいいのであって、こんないい匂いがしてるのに、ほおっておくなんて出来ません」
ヤレヤレ顔で腕組みをしたユズルヒノは、何か思いついたらしく、突然、身を隠すのをやめて、ズケズケとキッチンの入り口から中に入った。
「おーい、兄ちゃん」
「あ、待って、ユズルヒノ、ワタシも…」
何事? と眉根をあげてしかめっ面のジュニアに、ユズルヒノが言った。
「腹減った。テリーヌ食いたい」
「いま、焼いてるとこだ。明日まで待て」
「オーブンの中にあるやつじゃなくて、冷蔵庫に入ってるほうだ」
はあ、と、大きく嘆息して、ジュニアは立ち上がると、冷蔵庫の扉を開け、中からアルミホイルで包まれた塊を取り出した。
カオルヒノがうっとりと見守る中、テリーヌを皿に切り分け、スープゼリーをその上に散らしながら、ジュニアがたずねた。
「何で、もう一個あるってわかった?」
「そりゃ、兄ちゃんは何やるんでも慎重だからな、いつだって隠れて練習してる。練習で作ったやつが、必ずあると思ったよ」