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「よくも、この……私の」


 すこし離れた先に立つ鴉天狗は呟く。


「よくも私の左腕をッ! 食らってくれたなッ!」


 瞬間、境内全域に異変が起こる。まるで鴉天狗の怒りが現象として現れたかのように、大気が打ち震え、清水が乱れ、あらゆる物が重力に反して宙に浮かぶ。それは地震とも錯覚させられるほどの強大な何かだった。


「左腕の恨み……汝、簡単には殺さんぞ」


 右の手が持ち上がり、刀の鋒がこちらに向かう。その動作に警戒心を抱く。が、それはとても無意味な行為だった。警戒の網も、思考も、反射も、それの前ではないも同然だ。それは鋒がこちらを向いた瞬間に、俺の体内で起こったのだから。


「あぐッ!? あああッ!! あた――ま、が……われッ」


 直接脳を鷲掴みにされているかのような感覚に襲われ、激痛の波が止めどなく訪れる。腕を断ち切られた時の痛みなど、些細なことのように思えてしまうほどの痛み。それは恐怖と言い換えても遜色ないほどの危険信号だった。


「な、にを……したッ!」

「神にも通ずる力だ。私の神通力をもって、汝の脳に干渉し縛っている。このまま締め潰すことも可能だが、それでは私の気が収まらん。絶えず苦痛を味わいながら、ゆっくりと死んでいけ」


 更に痛みが強くなる。断っていられないほどに、膝を折るほどに、それは強大になっていた。もう指先に力が入らない。足腰は立たず、思考も回らない。停滞する。痛みによって脳の機能も、身体の機能も、停止し掛かっている。

 なんとかしなくてはならない。そう思いはすれど、思考が心に追いつかない。


「ふん。あの犬め」


 耐え難い痛みに苛まれる中、しかし微かに硝子が割れるような鋭い音が耳に届く。


「結界を破ったか。しかし、もう随分と遅い」


 結界は破れた。銀は、どうやら役割を果たしたらしい。これで俺の時間稼ぎもせいこうした。せいこうしたが、だがもう耐えられそうにない。だんだん、かんがえが纏まらなくなってきた。

 いまじぶんがなにをしているのかも、あいまいになる。

 おれは、いったいなにを。


「おやおや、君は僕の言ったことを何も理解していないんだね」


 なん、だ?


「言った筈だよ? 食べることは、奪うことだって」


 なにを、いっている?


「さぁ、おもてを上げて敵を見据えるんだ」


 おもてを、上げて。


「大丈夫、君は彼を食べられる」


 やつを、敵を、鴉天狗を、捕食する。


「あっ、ああっ、あ――」


 鴉天狗は何処にいる? 遠い、此処からでは届かない。なら、どうする? 歩くか? 走るか? いや、それは遅い。もっと早く、もっと確実に、奴を仕留めて食らうには、移動なんてしていられない。此処で、この場所で、一歩も動かずに仕留めるにはどうすればいい?


「あぁ、なんだ。簡単じゃあないか」


 変異する。変貌する。変形する。

 断ち切られた左腕にありったけの生命力を流し、再生し、その上で変化させる。

 もっと逞しく、強靱で、鋭く、無骨な腕に。かつて見たあの腕の如く、この左腕を変えてやろう。そう、あの鬼のように。


「なん――だとッ!?」


 完成した左腕は紛うことなき鬼となり、復活を遂げる。

 槍の如く爪を束ね、鞭の如く撓らせる。鬼の腕は神通力の影響を物ともせず、俺の意志に従い目標を定めた。そして、放つ。驚愕を露わにした、鴉天狗の胴体を狙い澄ませて。


「これで――終わりだッ!」


 震える大気を貫いて直進した鬼の腕は、軌道上に射し込まれた刀を折り、なおも突貫した。束ねた爪は鋒となりて鴉天狗の皮膚を裂き、肉を断ち、心臓を貫く。それは鴉天狗にとって紛れもない敗北となり、死の証明になった。


「な、ぜだ。なぜ、鬼の力が」


 吐血しながらも、鴉天狗は言葉を紡ぐ。


「くそ……私の命も此処まで、か」


 絶命する。鴉天狗は命を落とし、神通力の影響も鳴りを潜めた。

 宙に浮かぶ総てのものが重力に引かれて落下する。その最中、左腕を下の人間の腕に戻した俺は、突き動かされるように鴉天狗のもとに歩み寄る。そしてその頭部に右手を乗せて、捕食能力を発動させた。


「これで……ほんとうに」


 まだ俺は立っている。動いている。奴は死んで、捕食された。俺は勝ったんだ、鴉天狗に。そう自覚して、認識すると一気に疲労感が湧いて来た。疲れとは肉体にだけ起こることではないのだと、この時、再認識せざるを得なかった。

 心は身体に影響を及ぼす。それが例え、半生半死の身体であってもだ。

 そのまま立ち上がることもせず、境内に倒れ込む。ごろごろとした小石が邪魔で仕様がないが、移動する気にも、取り除く気にもならない。ただただ、此処から動きたくなかった。休みたかった。


「おい、坊主! しっかりしろ!」


 遠くから銀の声が聞こえてくる。

 けれど、もうダメだ。返事をする気力もない。

 俺はぼやけた視界に小さな銀を捉えながらも、ゆっくりと瞼を閉じた。

 やることリストその二、霜月家の仕事を手伝うこと。終了。

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