57.静かに出番を待っていた勇者様と黙ってはいられなかった親友様
窓が開いているのだろうか。漂ってきたぬるい風が頬を撫でつけていく。
じりじりとした暑さも心地よい涼しさに変わっている。
目を開けたら全てが空っぽで風だけが吹いていても、ああやっぱり、と受け入れられそうな静けさ。
きっと辺りはもう暗い。
日が落ちたばかりなのか、夜中なのかはわからない。
ただ、目を閉じていても、昼間のそれではない事はわかる。
夜は良い。それもとびっきり真っ黒で、満月がぽつんと取り残されているようなやつなら最高だ。
真っ黒の中に身を沈めて、距離感の曖昧になった月を眺める。そうしてぼんやりと過ごしてみたり、月の中に何かを見出だそうと顔をしかめてみたりする時間が大好きだ。
月に兎を見出だした最初の人も、きっと夜が好きだったに違いない。
ただし、残念ながら異世界の月に兎はいない。正確には月と呼んでしまって良いのかもわからないけど、異世界の夜に浮かぶ月に似た衛星の呼称についてはまた今度調べておこうと思う。
日本で見るよりも一回り大きなそれには、月と同じく模様を見てとる事が出来る。しかし、それを斜めにしてみてもひっくり返してみても、兎に見立てるのは難しい。
かわりと言ってはなんだが、月の兎のように昔から語られている話はあるようだ。
異世界の月を題材に語られるのは、ペグホーンとかいう地球でいうところの猪のような姿をした動物で、長く伸びた牙の先がぐしゃりと潰れている事からその名が付けられたのだとか。
このように説明されても、ペグってこの辺の言葉だと潰れたとかそういう意味になるんだな、くらいの事しかわからないし、この説明を熱意たっぷりにしてくれた騎士団長さんがどうして拳を握りしめているのかも俺には見当がつかない。
あえて物語の詳細は調べずに月の画像からペグホーンを見つけてやろうと意気込んだ俺は、異世界の夜空なるストレートなネーミングを持つ写真集を穴が開くほど睨み倒した。
結果は……残念ながらお手上げだった。
我ながら情けない想像力だとは思うのだけど、クレーターが模様になっているのかなとしか思えない点々とした影の中には、猪どころかその角さえも見てとる事はできなかったのだ。
地球で昔の人が考えた星座のように、そこをそういう風に考えるには相当な絵心が必要でしょう! と盛大に問い詰めたくなるのと同じような体なのかもしれない。
半日ほど写真集を抱えて悶え回った俺は、気になる事は自分で調べます! と達筆で書かれた威風堂々のオーラを放つたすきを心の中でそっと肩から下ろし、誰でもいいのでどうか教えて下さい。と下手くそな字がよれよれとへばりつくたすきを背負いなおして写真集を閉じてしまった。
そして、謎は驚くほど簡単に解けた。
異世界の月に影を残していたのはペグホーン本体ではなく、かわいらしい足跡だったのだ。
名前の由来まで聞いてしまった事で、てっきり潰れた角を掲げた横顔であるとか、今にも駆け出しそうな躍動感溢れる姿を想像してしまっていた。
そうあるべきだと思い込み、なんとか猪の姿を見出そうと点と点を結んでみたりもした。
しかしどうだろう、点々とこびりついた影こそが答えだったのだ。
俺は悔しい気持ちと同時にスッキリとした表情を浮かべて、ようやく足跡に見えてきたペグホーンの逸話に想いを馳せる。
ペグホーンは、長年の進化を経て、通常の猪に比べて優れたジャンプ力を手に入れた。
跳躍とは無縁そうな猪でも、努力の末にお月様を踏み台にして跳ね回る程に成長する事が出来る。
この世界の月に刻まれた足跡の影はそんなニュアンスで語られているのだ。努力を重ね、思った以上の結果を得られた時に「こりゃ月を蹴ったな!」等という使い方をするのだそうだ。
お月様がボッコボコじゃないか、というクレームはさておき、悪くない話だなと思う。
ただし、これにはひとつだけ物申しておきたい事がある。
異世界での猪についてちゃんと調べてはいないので、地球のそれとは違うということなら改めて謝罪したいとは思うのだけど、少なくとも地球産の猪は、なかなかの跳躍力を持っている。そう気軽にジャンプする事はないとしてもだ。
突進するイメージの強い猪であるから、そんな猪でも地道に努力すればジャンプ出来るようになるのだよと上手い事まとめたつもりなのかもしれないが、ポテンシャルはあるという事だ。
元々の才能がある上で努力をしたのであれば、月を足蹴にも出来ようというもの。残念ながら、適性至上主義である異世界ならではの諺だと言わざるを得ないだろう。
そんなひねくれた事を考えてはいるものの、親切に教えてくれた通りがかりのおばちゃんに難癖をつける程ひん曲がってはいないつもりだ。
俺はお礼を言うべく、ありがとうございました! の文言が元気よく踊るたすきの準備にとりかかる。
もちろん脳内で、嬉々として跳ねまわるペグホーンの鳴き声をリズムに乗せて響き渡らせながら。
ペギィ! タタン! ペギイイィ! タタタン!
「あの……もう話しかけても?」
「もちろん。このタイミングを逃したら、呆れていなくなっちゃうまで鳴き続けるしかないところだよ」
「えっと、最初は寝言なのかなって思っちゃって」
目を開けると、苦笑い半分ほっとした表情半分のルキちゃんがベッド脇の椅子に腰掛けていた。
俺が魔法対決に臨んだ日にちょうど王都に戻ってきていたらしいルキちゃんも、あの場で模擬戦を見ていたらしい。この子に見せるためにヘンリーが3日後の指定をしたのかもしれない、というのは考えすぎでは無いだろう。
辺りを見渡した俺は、そこが王城の一室であろう事を確認する。
「俺、どれくらい寝てたのかな?」
「お昼に倒れて、それからずっとですから半日以上です」
「そっか。良かった」
丸3日とか一週間なんて言われたらどうしようかと思った。まだ、今日なんだ。
「良くないです……いつも危ない事ばっかりして」
どちらかと言うと危ない事は避けたり仲間に入れてもらえなかったりする事の方が多いんだけど、印象って大事だよね。実際、この子の前ではもう2回も倒れているわけだし。
「ごめん、勢いというか成り行きというか。えっと、兄貴は……っていうかあの後、どうなったの?」
「先輩が倒れたところで模擬戦は中止になりました。ヘンリーさんにお礼を言って下さいね!」
「え?」
どうしてヘンリーに? という言葉をなんとか噛み殺す。
「飛び火した魔法で先輩が倒れた時に、真っ先に駆け寄って医務室に運んでくれたの、ヘンリーさんなんですよ」
いや、嘘でしょ? 兄貴は?
「嘘なんてついてどうするんですか。お兄さんも一緒でしたけど、魔法を纏めるのに少し時間がかかって。それと、随分とショックを受けていたみたいで……今はレオナルドさんが用意して下さったお部屋に篭られているそうです」
纏める、というのは拮抗していた2人分の魔法が収束するまで押しとどめておいたという意味らしい。
それはともかく、話が全く入ってこない。
部屋に篭ってる? 誰が?
「はは、そんな事ある訳ないって。とにかく、その部屋に案内し……て……あれ?」
立ち上がろうとして、身体にほとんど力が入らない事にようやく気付く。
「もう少し休んでいないとダメですよ。お兄さんの回復魔法で火傷は治っていますけど、体力までは回復出来ていないんです」
「え、そんなとんでもないのが当たったの? 全然熱くなかったのに」
「お互いに模擬戦用に威力を落とした上で、その欠片が制御を外れてしまった事故……とは言っても、あのレベルの魔法をほとんど生身で受けたんですから」
なにそれ怖い。2人ともあれで威力を落としてたのか。俺は、掠りもせずに宙に消えていった自身のファイヤーボールに手を合わせておく。
「くそ、ヘンリーのやつ……」
ルキちゃんや他の観客には事故に見えたのかもしれない。でも、あれは事故なんかじゃなかった。
だってあいつは嗤っていたんだ。兄と魔法で競り合いながら、狙いすましてしっかりと威力を込めた火の玉をこっちによこしてきたのはほぼ間違いない。
思わず口をついた悪態にルキちゃんが反応する。
「あの、どうしてそこでそんな言い方になるんですか?」
「どうしてって。そりゃあ兄貴の事だって、俺を気絶させたのだってあいつが……」
「確かに、威力を落としたとはいえ調合魔法はやり過ぎだったと思います。でも、そもそもユーキ先輩が無理を言って始まったんですよね? それなのに、真っ先に駆け寄って医務室に運んでくれたヘンリーさんにそんな事を言うのはいくらなんでも勝手じゃないですか?」
「ちょっとストップ、俺が無理を言って始まったって? どうしてそんな話になっちゃってるの?」
ぬるかった風が重みを増し、静けさを保っていた夜がざわめき始める。
「違うんですか? お兄さんまで巻き込んで、自分は怪我して気絶して……」
どれだけ心配したと思ってるんですか、という台詞は右から左に抜けていった。
兄を巻き込んでという一言を聞いた時点で、俺の理性はぐるんと傾いていた。
そこから先は、売り言葉に買い言葉の応酬。
脳裏には、小気味良い呼吸音のする黒い仮面を被ったお父さんが大暴れして主人公を苦しめる、SF超大作のテーマがズンズズンと鳴り響き、脳内での吟味を拒否して口先から生まれた言葉がぼろぼろとこぼれる。
対するルキちゃんも、ぎゅっと口元に力を入れて泣きそうな顔で反論してくる。
「もういい、兄貴のところに行く」
ベッドから跳ね起きた俺は、鼻息荒く部屋から飛び出した。
つもりだった。
実際はよろよろとベッドに手をかけて立ち上がっただけだ。鼻息は荒いには荒いが、血気盛んにというより最後の力を振り絞っている風である。
そこから見事な千鳥足で右に左に大きく迂回しながらドアに辿り着いた俺は、両手でなんとかドアノブを押し込むと、べしゃりと廊下に崩れ落ちる。
「やっぱり休んでいた方が……」
散々に言い合った直後のこのタイミングだというのに、心配そうな声が俺を包み込む。
「ほっといてくれ!」
目の奥から出ていこうとする水分をなんとも残念な捨て台詞で押し戻すと、全身を使ってドアを閉める。
医務室からあの部屋に運ばれた時点で早々に引き上げたであろうヘンリーから看病を引き継ぎ、兄の様子を確認した上で俺が目を覚ますまでそばにいてくれたルキちゃんに、お礼を言うどころか捨て台詞を吐いて出てきてしまった。
経緯はどうあれ、負けた相手に八つ当たりするのも筋違いだ。それもわかってはいる。
それでも、兄の事、すれ違う話、力の入らない身体……脳内にひしめいてバッドミュージックを奏でるオーケストラは勢いを増すばかりで、たまらなかったのだ。
まずは兄に会わなくてはいけない。巻き込んでしまった事を謝って、もうすっかり元気になった事を伝えよう。それから、ルキちゃんにもしっかり謝って、お礼を言う。とにかくひとつずつだ。
「ユーキ、本当にすまなかった」
運良く見かけた兵士さんに兄のいる部屋を聞き、気力を振り絞った笑顔でドアをノックした俺は、そのままの格好で固まってしまった。
実の兄の、いつも涼しい顔を浮かべていた兄の憔悴しきった顔。謝りたいのはこっちだというのに言葉が出てこない。
「今回の事で、自分が如何に力不足か思い知ったよ」
そんな事はない。
俺がいなければ、勝てていたはず……少なくとも互角ではあったはずだ。それこそ兄が気に病む事など無いはずなのだ。しかし兄は首を横に振る。
「明日の朝には発って、1ヶ月くらい消えてみようかな」
俺は目を見開く。
「はは、そんな顔するなよ。ちょっと自分を鍛え直そうと思ってね」
なんだ、消えてみようなんて言うから焦ったじゃないか。兄貴に限ってそんな事……
「ユーキがドアを叩いてくれるまでは本当に逃げ出したい気分だったけど」
「えっ」
今度は声が出てしまった。
「でもさ、ふらふらな癖にそんな痩せ我慢の笑顔まで作って心配してくれてる弟を見たら、逃げ道なくなっちゃったよ。ありがとな、ユーキ」
結局ごめんもありがとうも先に言われてしまった。ここに来てからの俺ときたら、最初の「入るよ、兄貴」とさっきの「えっ」しか言ってないよ。どれだけのシャイボーイだ。
「だから、そんな顔するな」
「うん」
「ユーキだって、このまま終わるつもりはないんだろ?」
ふわりと笑った兄は、いつもの兄に戻っていた。
そして翌朝、力尽きて兄の部屋で眠ってしまった俺は、言葉通りに兄が姿を消した事を知る。行き先は誰にも告げずにふらりと出ていったらしい。
俺は蚊帳の外で気絶して満身創痍、兄は姿を消し、ルキちゃんとも喧嘩別れ。日が高くなる頃には早速、瀧本兄弟にとって嬉しくない噂がちらほらと流れ始め、反対にヘンリーの評価はうなぎのぼり。
まさにヘンリーの描いた通りの完全敗北という結果で魔法対決は幕を閉じた。
「よーし、それじゃあ行ってみようか」
しかし、その裏で交わされた兄との密かな決意や、俺の諦めの悪さと開き直りの早さまでは予測出来ていないはずだ。
「えへへ、短期留学を思い出すね。またユーキと一緒に冒険出来て凄く嬉しいよ! 頑張ろう!」
数日後、体力を完全に回復した俺は新たな可能性を求め、勇者パーティーの1人という肩書きで動き出した。
お読み頂きありがとうございます!
ゆっくりペースが続きますが、出来る限り楽しんで頑張っていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。