第九話:僕と、荒くれ少女
「そ、その腕!」
「あー、これな」
少女は立ち上がり、右腕をこすった。
まさか、と眉をひそめた洋々の予想は当たった。
「ちょっと悪さしてさー、人間のものと変えられちまったんだ。家を追い出されたアタシを、ちょうどよく拾ったヤローの子供とさ。つまり、本当ならおまえのものだったってわけ。で、おまえの腕はアタシの腕なんだよ。ほんと難儀だよなー」
言って、愛しそうに、涙さえ浮かべて洋々の右腕に頬ずりする。そんな娘を母親が鋭く睨んだ。視線に気づいた少女はぎくりと身を引いて、ぎこちない笑みを浮かべた。
「殴ってごめんなさい。心から反省してます。まじで、ほんとに」
「ならば、今あるその腕を可愛がることよの」
しおれた顔つきを見せる娘へ、女は厳しく言い放った。それから洋々を見る。
「のう、ぼうや。おまえの腕をもう少し、この子に貸しておいてくれや。人の腕ならば乱暴に扱えば容易に傷つくし、痛みも分かろうからね」
「はぁ」
次に洋々の母を見下ろし、ほんのりと微笑んだ。
「我が子が世話になったの。いつまでも野放しにはしておけないゆえ、連れ帰る。だが、いま少し、お子の手を借りるぞ」
洋々の母は静かに笑って、頷いた。
ゆくぞ、と少女に言い置いて、女は部屋を出て行った。
少女は名残おしそうに洋々の右手を見下ろし、自分の右手を差し出した。
「いいか。持ち主に返すまで、お互いの手を大事にすること」
洋々はおずおずと、本来なら自分のものだったはずの手を握り返した。三十センチを越える手の中で、それは本当に小さく、いまにも折れてしまいそうに弱い。
「アタシ、ウラニってんだ。アタシの手、ほんとに、ほんとに、大事にしろよな。じゃないと、タダじゃおかねーぞ」
唇を尖らせたウラニが乱暴に言った。ちらりと見える牙が禍々しい。
「きみも」
むしろ、それはこちらのセリフだ。心中で呟きながらも、洋々は大人しく頷く。
じゃーなと言い置いて、少女は駆けるように母親を追った。途中、洋々の母にそっと手を振って。
洋々は最後に残った金色の獣を見つめた。見知らぬ九尾狐へ話しかけるべきかどうか、迷う。すると狐は尾をゆったりと揺らし、もともと細い金目をさらに細めて、笑った。
「坊ちゃん」
聞き覚えのある声に、軽妙な口調。え、と目を丸くして、洋々は立ち尽くす。
「まさか、錦?」
そのまさかでございますよぅ、と狐は朗らかに笑った。
「広木家は地鎮を司る役を担った家なんです」
翌日のこと。いつもの和装をたすきで結んだ錦は、庭の雑草をむしりながらそう言った。
よく晴れた昼だ。昼食後、錦は洋々の質問に答えることを快諾してくれた。
それで、母の体から出てきた獣はなんだったのかと聞いたのである。
「このお屋敷は、地脈を整える『ツボ』にあります」
「地脈?」
「土地の血管みたいなもので、畑や人の状態さえ左右する重要なものです。広木家はその『ツボ』を守り、地脈を汚す悪いものを取り除いているんです」
「悪いものって?」
「そうですね、誰かが怪我をしたとしましょう。痛い、と思い、怪我をさせたものを憎らしく思う。そういう、負の働きから湧く邪鬼のようなものです。それが積もり積もれば、いろいろなものに害をなす。この広木のお屋敷は、それらが溜まりやすい『ツボ』に建てられているんですよぅ」
錦は庭の先に見える離れを示した。
「あの離れは表向き、病弱な人のために作られたといわれます。でも実際は、その悪いものの寄り代となる巫女がこもるためのお社なんです。代々、広木家に生まれた長女がその任を負ってきました。そして今は奥さまの代なのですよ、坊ちゃん」
「じゃあ、昨日の獣は、その悪いもの?」
飲み込みの早い生徒に、錦はにっこりと笑った。
「そうです」
「破邪の印とか、守り神だとかが彫られてるのは、そのためだったんだ」
「そうです」
「それで、母さんは離れを出ると具合が悪くなるんだね」
「そうです。そして、坊ちゃんはその、たまりにたまった悪いものを退治してくだすった」
洋々は照れくさそうに頭をかいた。
昨日の晩、母はそれこそ憑き物がとれたように、安らかな顔つきをしていた。とはいえ、今はその役目に戻るため、再び離れにこもっている。