第八話:僕と、獰猛な獣
得体の知れない獣が太く吠える。合わせて、母の顔がいっそう苦しげに歪む。洋々が見たこともないものである。
「な、なんだ、これ」
「ぼうや」
柔らかい呼び声に、呆然としていた洋々はハッと我に返った。
もっとも母に近い場所にいるはずの女が、まるで平然として微笑んでいた。
「ご母堂が苦しんでおるえ。おまえにやれることはないのかい?」
「やれること、っていわれても」
こんなでかく禍々しい気配のある獣に、広木の血を継ぐとはいえ、非力な少年が敵うわけがない。
すると女が呆れたようにため息を吐き、洋々へ向けてさっと手を振った。すると忌まわしい右手を封じていた包帯が、するするとほどけた。
赤銅色をした大きくて武骨な手があらわになる。瞬間、洋々は己のすべきことを理解した。
広木洋々はなんとなればものを殴る癖があった。その元凶である右手は、どんなものでも貫き、潰し、砕ききる。
母を苦しめる獣――これこそ我が獲物だとばかりに、右手が鼓動をうつ。洋々の純朴な瞳が怒りをこめて吊りあがり、人のものとは思えぬ咆哮をあがる。
「うがあああああああおおおおおおう!」
右手が膨れ上がる。なおいっそう醜く、赤く。突き出したそれは、黒い獣の腹を難なく貫いた。弾力の弱いゴムのような感触に、身体を巡る血がたぎる。
突き刺した腕をひっこ抜き、暴れる獣の首に振り下ろした。鋭い手刀は一撃で獣の首を斬りおとした。
腹に風穴を開けた胴は力なく倒れ、さらに洋々の拳をくらい、霧散する。
「頭を……!」
母がうめいた。血走った鋭い視線を走らせた洋々は、庭へ逃げようとしているそれを見つけた。
洋々はぐるるる、と喉を鳴らして床を蹴った。気づいた獣の首が威嚇するように吠え、矢のように庭へ飛ぶ。
瞬間、横手から金色の塊が飛び出した。
九つの尾を炎のように揺らした狐だ。ぱくりと大きな口をあけ、獣の首をくわえてしまう。それから優雅に咀嚼して、そのまま飲み込み、けふ、と控えめなゲップを吐いた。
標的を失った洋々は、迷うことなくそちらへ飛びかかった。
「おおおおおおおおおおう!」
驚いた九尾狐は、キャッと鋭い鳴き声をあげて部屋に逃げ込んだ。洋々が快調も快調の右手をふるって、すぐさま後を追う。
怯えた狐が赤子をかかえた女の背後に隠れた。その尻尾をつかんだ洋々の右手を、女が強く打った。
「およし!」
ピシャリと、鉄のように硬い右手に激痛が走る。とたんに洋々は勢いを失い、二倍以上に膨れていた右手が一気にしぼんだ。
女は人ならぬ形をした洋々の手を握り、憂鬱そうな息を吐いた。
「難儀よな。まったく、節操のないこと」
言って見下ろす足元には、いつの間にか灰色の髪を荒れ放題にさせた少女がいた。ふてくされたような、しかしどこか安心したような顔をして、あぐらをかいて座っている。
まさしく、洋々が夢で見た少女だ。だが一点だけ違う。
たくましい少女の、その右腕。全身、余すところなく赤銅色の肌をしているのに、そこだけ白い。その上、凶悪そうな四肢に比して不恰好なほど小さく、脆弱だ。
それは見紛うことなく、人間の手だった。