第七話:僕と、儚げな君
ハッとして目を開くと、心配そうに覗き込む錦の顔があった。
「坊ちゃん、大丈夫ですか」
「うぅ……。うん」
ほんの数秒の夢だったらしい。錦の後ろからは職人の猿顔も覗いている。目を見開いて、なおさら滑稽な顔になっている。
「急にお倒れになったので、心配しましたよぅ。お具合でも悪いですか?」
「大丈夫……」
洋々は錦の手を制しつつ、殴ってしまったはずの木像を探した。錦の腕の中にそれを見つけると、慌てて身を引いた。
「坊ちゃん?」
「それ、傷ついてない?」
錦はきょとんと木像を見下ろし、それからにっこりと笑った。
「ついていませんよ。ご覧になりますか?」
包帯で真っ白になった右手をぎゅっと押さえて、洋々は慌てて首を振った。
「いい、いい。気分が悪いから、ちょっと寝るよ」
廊下に飛び出して自分の部屋に駆け込むと、引っ張り出した布団にすっぽりとくるまった。
夢で見た少女の腕は、自分の右腕と瓜二つだった。それは、夢だからこその符合だったのだろうか。
その晩、洋々は廊下に誰かの気配を感じて目を覚ました。それを証明するように、床の軋む音が鳴る。
「誰?」
ゆらりと、障子の向こう側に細長い影が生えた。布団の中で身構える洋々に対して、隠れようともせずに部屋のすぐ前までやって来た。
細い手が伸び、そっと障子を開ける。月光に照らされながら現れた人物を見て、洋々は息をのんだ。
浴衣姿の、か弱い肢体。腰にまでかかる漆黒の髪。優しげな細面。病的なまでに青白く、いまにも消えてしまいそうな儚い女性。
「あれ。か、母さん?」
離れに閉じこもっているはずの母親だ。驚きのあまり目を白黒させる洋々を尻目に、幽鬼のように部屋に入ってくる。
「どうしたの? 出てきても平気なの?」
「あの方はどこ」
笛でも吹くような、か細いが美しい声が降った。透けるほど白い顔と優しげな眼差しは、しっかりと息子を見下ろしている。
「返してさしあげなくてはならないの。私はずっと――」
と、その顔が急に苦しげに歪む。そしてうめき、握り合わせていた手を胸に当て、その場にうずくまった。
「母さん」
慌てて走り寄ろうとした洋々を、しかし母の視線が止めた。ついぞ見たことのない険しい目つきに、思わず足を止める。すると、どうにも動けなくなり、洋々はあわあわと情けなく立ち尽くした。
「あの方を……」
「あの方って、誰?」
途方にくれて尋ねるが、母は苦しそうに喘ぐばかりで、なかなか答えてくれない。しかし間もなく、顔を上げた。その視線を追って、洋々は目を丸くする。
廊下にさらなる影が現れた。ゆったりと袖と裾の長い着物を着た、ふくよかな女だ。大事そうに赤子を抱いている。
昼間の奇妙な夢の中で、赤子を抱いていた女性によく似ている。
職人の持ってきた木像にも、よく似ている。
女は足音を立てることなく部屋に入ってきて、母の背後に立った。凛とした声が部屋に響いた。
「そなた、持っておるよな」
その短い言葉で十分だったらしい。母は恋人の再来を待ちわびていた乙女のように微笑み、胸に当てていた両手を開いた。
ころん、と手の平に転がったのは小さな木像である。野性味溢れた子供を象ったものだ。赤銅色をして、髪は荒れ、今にも襲いかかってきそうな恐ろしい形相をしている。目を見開き、牙を剥き、完全無欠の猛獣のような像は、しかし右腕が欠けていた。
「おお、これよ」
女は愛しげに小さな木像を眺め、手に取った。
「よくぞ置いてくれたの。礼を言うぞ」
そのとき、母の苦しみようは限界に達した。ああ、ああと喉の奥からふりしぼるようにうめき、倒れた。
ぞっとするような寒気が部屋に広がった。母の体から闇の色をした何かが立ち昇っていくのを見て、洋々は息をのんだ。
「母さん?」
近づくな、と先ほど止められた足が動かない。煙とも、液体ともつかぬ闇色のそれは、ぐるぐると母の頭上を舞い、やがて形作った。
獅子舞。洋々はまっさきにそれを連想した。ただし、ずっと大きく、もっと獣に近い姿をしている。たくましい四肢にはサイの角のような爪が生え、黒々と光っている。――前足が倒れた母の肩を抑えつけ、その鋭い爪を食いこませた。