第二話:僕は、僕
広木洋々はなんとなればものを殴る性質があった。
母親の身体があんまり弱かったので、ひどい難産になるか、ともすれば母子もろとも危ない、といわれていた末に生まれた子供だった。それが、オギャアオギャアと生まれたばかりで、取りあげた産婆をしたたか殴りつけて昏倒させた。
身ごもった細君が、日に日に衰弱していく――その姿を見かねた父親が、神社という神社に節操なく通い続けて半年。一心にかけた願いが叶ったらしかった。
いわく「丈夫で強く母親を守り、あらゆる誘惑に負けない子供が無事に生まれますように」。
無事に生まれた。ただし眉間を殴られた産婆はその後、赤ん坊恐怖症で引退したという。
こうして誕生した赤ん坊は『洋々』と名づけられ、実に可愛がられて育っていった。
この洋々、不思議なことに生まれつき右手がでかかった。なにしろ場数を踏んだ産婆を悶絶させるほどの拳だ。でかいうえに肘から下は見事な赤銅色で、鉄のように硬かった。
この奇怪な手は成長にあわせて大きくなり、十歳になるころには手の平と指をあわせて三十センチにまでなっていた。
それを扱いかねているのは、もちろん洋々だけではない。
その日の午後。仕事に出かけたご当主と入れ替わるようにして、修繕の職人がやって来た。
「いやあ、毎度ながらすごいねぇ」
まるで嵐か竜巻が通り抜けたような光景を、禿頭の大工職人は慣れた様子で眺める。横に立った家政婦より頭ひとつ分も背の低い小男である。シャンと立った姿は、どことなく猿に似ている。
「床板は厚くしたつもりなんだがね。今度はもちっと、頑丈な木を使うか」
「お願いします。いつもいつも、お手を煩わせて申し訳ありませんと、当主が申しておりました」
家政婦はそのご当主がしていたように、心からの謝辞を込めて頭をさげた。和装姿の少女をしげしげと眺めた職人は、気持ち良さそうに笑った。
「なに、広木様ぁ一番のお得意さんだ。それに、可愛い姉ちゃんの顔も拝めるしなぁ」
キキキキとそれこそ猿みたいな高い笑い声を上げ、袖をまくる。
しばし修繕を眺めていた家政婦は、小さく一礼をして座敷を辞した。お茶の用意だ。
洋々は背後の座敷から視線を離した。細い喉の奥から憂鬱なため息が出る。少年は離れを向いた縁側に座っている。気を取り直して顔をあげると、庭の向こうにある小さな建物を見つめた。
離れは母屋よりも豪華で、頑丈だ。広木家の血筋は昔から病弱者が多かったそうで、そうした者を長く静養させるために造ったのだという。そのせいか入り口や屋根にはこれでもかとばかりに破邪の印やら守り神の絵柄やらが彫られていた。
静謐に満ちた建物だった。母屋も庭も手入れが行き届いて綺麗だが、洋々にとっては離れが特別に輝いて見える。そこに母親がいるせいかもしれない。
病弱な母は洋々が生まれてこのかた、ずっと離れで生活している。出てくることは滅多になく、たまに出てきてもすぐに体調を崩し、再び引きこもってしまう。それだから、洋々は祖母や前の家政婦に育てられた。
不可解な右手を持つ息子としては、あまり接触がなくて良かったともいえる。広木家のみんなが、まるで繊細なガラス玉でも扱うように母のことを大切にしているのを知っていたから。離れはある種の聖域で、母は侵してはならない存在なのだ。
そんな繊細な母をもつ彼は、反して、なんとなれば人を殴る習性があった。というより奇怪な右手が勝手に、ふとしたはずみで暴れ出すのである。
犬に吠えられたとき、猫に引っかかれたとき、庭の池に落ちたとき、叱られたとき。ひどいときは、蚊にさされただけで逆上した。彼自身がなんらかの被害をこうむったとき――『攻撃されると暴走する』のだ。
その『攻撃』を感知するのも、洋々の意思ではなく右手の感覚だった。叱られて、洋々自身はごめんなさいと反省しているのに、なぜか右手は暴れ出すということがよくある。そして、一度暴れ出すと洋々自身にも手がつけられない。右手の気が済むまで獣のように吠えることしかできなくなる。
その破壊力たるや、細身の洋々とは結びもつかない凄まじさを誇った。
おかげで外に出ることもままならず、学校も休みがちだ。
幼稚園の入園式で、洋々の手を気味悪がって泣きだした子供をしこたま殴りつけて以来、父親は息子を集団生活に順応させようと奮闘してきた。その甲斐もなく洋々は徐々に他の子供から離され、今では教室でたった一人だけで授業を受けている。
もちろん町中など歩いたら何が起こるか分からないので、家政婦が送り迎えをしている。