第十話:殴る、僕
「それにしても、錦が狐だったなんてね」
何年も一緒に暮らしながらも気づかなかった洋々は、錦を見る。細い髪が陽だまりのように光っている。昨晩の狐と同じ金色だ。
「あたくしたちのご先祖はその昔、当時の広木家のご当主に命を助けられたんです。以来、広木家に仕えて参りました。本来なら寄り代にたまった悪いものを退治するのも、あたくしたちの役目なんですがね。奥さまにたまっていたものは、どうにも陰険で強くって」
坊ちゃんのおかげで一掃できました、と錦は朗らかに笑った。
「じゃあ、ミト婆も?」
「はい。祖母はかれこれ百余年と勤め上げましたね」
「神さまのお使いなら、ぼくの腕のことも知ってた、とか?」
少しだけ哀しげな洋々の声に、錦ははたと表情を改めた。
「いえ、まぁ、なんとなく予想はついてました」
「じゃあ昨日の女の子と、赤ん坊を抱いていた女の人は誰だか知ってる?」
身を乗り出した洋々の質問に、錦はウーンと考える素振りを見せ。
「坊ちゃんが生まれる前、具合の悪い奥さまを心配して、旦那さまがお参りをしたことは聞いてますよね」
「うん。父さんにしてはあんまり現実的じゃなかったって、ミト婆が笑ってた」
「それほど大事だったんですよぅ」
錦はカラカラと笑った。
「その時に立ち寄った小さな神社で、旦那さまはある像を拾ったんだそうです。お賽銭を投げたところへ、小さな社から、小さな木像が転がり出てきたという。で、くすんだ赤銅色の、恐いけど愛嬌のあるその木像を思わず拾って帰ってきまして。それを奥様に、お守り代わりとして差し上げたんです」
小さな赤銅色の木像。昨日の晩、母はそれを握っていて、あの女の人に渡していた。
「そこは鬼子母神を奉った神社だったそうで。その社から飛び出してきたものだから、旦那さまもお守りなぞにしたんでしょうねぇ」
わたしが知っているのはそれくらいですよぅ、と呟いた。
「鬼子母神?」
「安産の神さまですよ」
雑草を引っこ抜きながら、錦は言う。
「あるところに鬼神の娘がいましてね。自分にもたくさんの子供がありながら、人の子を攫っては食べていたんです。そこへお釈迦さまが現れて、子を食べられる親の心をお教えになった。それに諭され、改心したという神さまです」
「じゃあ、昨日の人たちは――ていうか、職人さんの持ってきた、あの像って」
ふくよかな女性を象った木像。今朝、起きるなり探してみたが、影も形もなくなっていた。
「人から人へと渡って、いなくなった子供を迎えに来たのでしょう。鬼子母神はその由来通り、子煩悩で知られていますからねぇ」
錦は悪戯っぽく笑った。
「でもね、旦那さまが小さな木像を拾ったとき。あんまり兄弟が多いことに嫉妬したものか、悪戯をして叱られたのか、社を飛び出してきた像は何故だか、ほんのりとしょげて泣いているように見えたそうですよ」
二人は昨夜の強気な少女を思い出し、そろってくすくすと笑った。
そのときに何があったのか、夢で見た洋々は秘密を知っている。しかし、それは右手の名誉にかけて黙っていよう。
庭を風がかけ、外気にさらされた赤銅色の右手をくすぐった。
「じゃあ、母さんはずっとその木像を守っていたんだね」
大きな手を日の光に当て、きらめかせる。赤銅色をした、乱暴な少女からの預かり物。もしかしたら、母はその木像と一人息子を重ねていたのかもしれない。
「あるいは、寄り代として苦痛と向き合う毎日を、木像に守られていたのかも」
眩しそうに洋々の手を見上げ、錦は目を細めた。
「ねえ、坊ちゃん」
いきなり晴れやかに笑って、洋々の顔をのぞいた。
「何もできない子供じゃあ、なかったでしょう?」
丈夫で強く、母を守り――。歌うように囁く錦の言葉に、洋々ははにかむ。
「確かな愛情に守られた親子っていうのは、とにかく、神さまにもどうしようもない絆をもってるんですよぅ」
「……そうだね」
追い出した子をわざわざ迎えに来たり、追い出した親をそれとなく待ちわびていたり。
そのとき、天から一筋のしずくが垂れ落ち、洋々の頬を打った。
鳥のフンだ。
あ、と錦と洋々が同時に動きを止めた。錦が慌てて拭こうとしたが、遅かった。
「ううぅ……」
洋々は目を剥き、牙を剥き、立ち上がった。天を舞う鳥を追い、吠えたける。
「うごおおおおおお!」
「坊ちゃん、坊ちゃん、そこには池が……ああっ」
慌てて追いかける錦の声も聞かず、洋々は派手な水しぶきを上げて池に落ちた。ボッチャーン! と、池が叫んだようだった。
それでも声の限りに吠え続け、揺れる水面を激しいあぶくが打つ。
「うがあぁぁぁぅぶぁぼごぼごぼ……!」
丈夫に強く、母を守り――右腕の誘惑に打ち勝つ日はいつになることやら。
「坊ちゃん! 坊ちゃあん!」
泳げない洋々は、水中でぼんやりと錦の声の聞きながら思う。
いくら神さまの子供とはいえ、躾はしっかりするべき、で、ある……。
息子が池で溺れている。
そんな午後のひとときを人知れず眺めていた母親は、子供の将来を思うように視線を遠くへはせた。
四苦八苦。七転八倒。
どうにも不遇に見える洋々を思い、くすりと笑う。すると、隣に立った夫が苦々しい面持ちで妻を見た。
「笑っている場合じゃない。僕にさえ黙っているというのは君も意地が悪いな」
「自分のせいだと思ってほしくなかったのです。それに、言わずともうすうす気づいていると思っていました」
「僕を義父や義母と同じように考えないでくれ。原因は分かったものの、なおさらにっちもさっちもいかなくなったじゃあないか」
男はますます苦い顔になった。女の口元には悪戯な笑みが浮かんでいた。
「なに、あの子のいいようにさせてあげればよろしい」
細い声でそっと応じて、庭の騒ぎに背を向けた。
「前途遼遠。少年は大志を抱きなさい」
リズムよく儚く歌って、その姿は離れの中に消えた。
幸せは相当の不幸を下敷きにして成り立つのだから、ちょっとくらい苦労があったほうがいいのだ。
広木洋々の場合は、少しばかり特殊だけれど。