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彼女をわらうな

花咲夢は家族に恵まれなかった。男と出ていった母とアルコールと暴力にまみれた父、彼女の幼少期は絵にかいたような不幸で構成されていた。ある日、いつものように彼女に拳が飛んでくる。まだ五歳の彼女は大柄な男の力で大きく宙を舞う。コンビニエンスストアの袋に入った空き缶が硬質なクッションとなり、彼女を畳には寝かせてくれない。それはここ数年の花咲家の日常だった。ただ、この日は彼女にとって特別な日となった。夢を見ていたのかもしれない。自分の頭が創り出した妄想だったのかもしれない。薄い意識の中、大人になった彼女は可愛らしい服を纏い、同じような服を着た沢山の人と共に大きな門をくぐっていた。そこから、ビデオの早送りをしているように飛び飛びに映像が浮かんできた。そのなかで自分は、昔絵本で見たような王子様達と楽しそうに過ごしている。おとなになったら、じぶんはしあわせになれるんだ。みんなみんな、わたしをすきになってくれる。疲弊しきった幼い心に、その気持ちは深く、深く染み込んでいった。それからも父は彼女に暴力を振った。しかし、彼女はつらくはなかった。大人になれば幸せになれるのだから。


彼女が六歳になって少しのち、小学校に登校しない彼女を不審に思った学校が花咲家を訪問したとき、彼女の地獄は一旦終わりを告げる。教師が見たのは倒れる男と酒の空き缶、そして微笑んでいる痩せこけたこどもだった。


 花咲夢は病院である程度の健康を取り戻し、それから児童保護施設に送られた。医師は彼女の言動に虐待のストレスからくる精神の不安定さを感じたが、身体の回復と共にそれは薄れていったようだった。少なくとも、傍目には。父は死に、母は何処が知れない。親戚は不明。そんな彼女にも施設の職員は献身的に働いた。特に施設長は彼女に人一倍手を掛けた。同じような境遇の子は大勢いる。ただ彼女、花咲夢には彼ら、彼女らにはない危うさがあった。笑顔を絶やさないことが彼の衰えた目には恐ろしく映った。


時は流れる。高校生になった彼女はあの日見た大きな門をくぐっていた。学費無料の特待生として明星学園に入学したのだった。これまでの彼女は努力を欠かすことはなかった。記憶の中の彼女はテストも運動も上手くこなせていたし、友人だって多かった。それを違えるわけにはいかない。得意なことも苦手なこともある。彼女はその点では普通の子供だ。ただ、普通の子供とは違い時間を惜しんだ。彼女が寝食まで管理した成果は、現在の国の最難関、明星学園の特待生というところに確かに表れたのだった。彼女の学園生活は順調だった。あの日みた通り、食堂で生徒会長に話しかけられ、副会長の作り笑いを見破った。

会計、書記とも親しくなり、校舎裏の不良の動物好きにも理解を示した。風紀委員達とはまだあまり話せていないが、二年生になれば接触できるとわかっていたので焦りはしなかった。望んで入った寮にも不満はない。ただ一つ同級生の女生徒の一人から時折強い視線を感じることがあることが気にかかった。花咲夢は幸せになった。あの時自分が見たように。夕方に受ける暴力も、夜中に隠れて眠ることもない。みんなが自分を好きになってくれる。そんな日常がそこに存在していた。彼女はそれがずっと続くのだと信じて疑わなかった。

そんな彼女の幻想が打ち砕かれたのは、入学して一年が過ぎようかという時期だった。自分の周りの人たちが、どんどん周りからいなくなった。わからない。わからない。なぜ、彼らは離れていったのか。あの通り、みた通りにしていたのに。テストも学年一位を保っていたし、運動も男子に負けなかった。流行の研究だってした。彼らの好みだって調べて、そのような自分になった。なのに……。

そのとき彼女は呼び出しを受けた。下駄箱に入っていたのは視線の彼女からの手紙だった。


「彼らに付きまとうのはもうやめて」


校舎裏で彼女を迎えたのはそんな声と仲の良かった彼ら。


「もうわかっているのよ、あなたがゲームの記憶を使って彼ら全員と仲良くなろうとしてること。でもね、ここはゲームの中なんかじゃない、ここは現実なの」

「花咲、お前が俺たちみんなにいい顔をしようとしてるって夏希から聞いたんだ。お前がそんな奴だったなんてな」

「花咲さん、私の好みを全部知っていたのも偶然じゃなかったんですね」

「花ちゃん、夏希ちゃんにここがゲームの世界に似た世界だって聞いて僕ら混乱したんだ。でも、夏希ちゃんが言ったとおりに君が行動するからちょっと驚いちゃった。それに納得した。あんまりにも君が僕たちのことをわかっているから」

「花咲、テストもその記憶で首席をとっていたのか」

「こんな奴に騙されていたとは、不覚だ」

「信じられないよ、最低」


視線の彼女、斎藤夏希。不良の彼。副会長。会計の双子。担任教師。生徒会長。バスケット部のルーキー。その他にも彼女の知り合いたちが次々に声を上げる。


「花咲さん。彼らだけじゃないよ。相川さんにも親友だって言って無理やり連れまわして。そのせいで彼女、彼らのファンクラブに制裁を受けたんだから」

「まぁ、すんでのところで俺らが取り締まったから何とか無事だったが」


そういって現れたのは風紀委員長だった。

彼女は私の友人ではなかったのか、私が一方的に思っていただけだったのか。彼女の頭にはそのことが頭に圧し掛かっていた。


「生徒会の機能が一時期停止寸前だったが、夏希のおかげで何とか持ち直したんだ」

「俺たちは今までお前に夢中で仕事を忘れかけていた。でもこいつが目を覚まさせてくれたんだ」


風紀委員長と生徒会長が言う。なんで。なんで。あんなに楽しそうだった。幸せだったじゃない。


「いいかげんわかりなさいよ。あなたは彼らをダメにする。これ以上彼ら全員を狙っても無駄よ。」


おんなのこがいう。ほかにもこえがきこえる。たくさんのこえ。たのしくなかった?しあわせじゃなかった?あのとおりにしたのに。しあわせじゃなくなってしまう。よみがえる。びーるのかん。かたいたたみ。おとうさんのおおきなこえ。いたみ。こわい。

彼女の視界がぐるぐる回る。衝撃。次に彼女が見たのは革靴と地面だった。斎藤が顔を青くする。男たちが花咲に近づいていく。意識が途切れる。その翌日、花咲夢の入院が伝えられた。


花咲夢は目を覚ました。あたりを見渡して今いる場所が見慣れた病室だと悟る。またここに戻ってきてしまった。しばらく視線をどこともなくやった後、彼女は昨日のことを思い出だし始めた。彼女の周りの男のこと、斎藤夏希の言葉。そして友人の真実。彼女の頭の中はまたいろいろな言葉で埋め尽くされた。ゲーム。その言葉が響いてきた瞬間、何かが瓦解した。脳にあの狭い檻で見た光景がまた浮かんできた。ただ、今度はそれは箱の中に入っており、誰かがそれを外から見ていた。私だ、と彼女は悟った。あの、薄暗い部屋の中画面を見つめている髪の長い女は、前の私だ。地獄からの救いはただの幻だった。彼女が見ていたのは未来の自分などではなかった。前の彼女だったものの残滓だったのだ。彼女は全部思い出してしまった。遠い過去の孤独を。失意と絶望の時代を。生まれ変わっても彼女は彼女のままでしかないのだな、と花咲夢になった彼女は思う。また、何もない頃に戻るのだと考えると、リセットボタンを押したくなった。あの女が言った通り、ここは

ゲームの世界などではないのに。風でカーテンが揺れているのを彼女は見た。まるで

誘っているようだそんなように彼女には思えた。



相川遥は苛立ちを感じていた。ホームルームで親友の入院が伝えられてから、この教室には嫌な空気が流れている。生徒の多くが好奇心のままにざわめいていた。そのことも彼女の感情の一端となっていたが、大元は先日のファンクラブとの一件にあった。もう少しのところで邪魔が入ってしまった。ともかく、放課後に病院に向かわなければ。そのことだけが彼女の脳を占めていた。



ひらひらと手をこまねくカーテン。ベッドの上の彼女は掛けられていた布団を退け、ゆっくりと起き上がると、窓に近づいたそのままカーテンを開けて階下を覗き込んだ。彼女の入院している階は病院の最上階近くに存在しており、窓から見ると地上の人はとても小さく見えた。覗いた勢いのまま身を空に預けようとしたとき、彼女の耳はドアの向こうから聞き覚えのある声がすることに気付いた。振り向き、ドアに近づいてみる。しかし彼女の手はドアを開けることができなかった。正確には彼女の無意識がドアを開けさせなかった。


「ついてこないで!」

「なんでまだ彼女のところに行くの?もうあなたは自由にしてもいいの

よ!」

「だから自由にしているの!」


言い争う声が彼女の耳に入ってきた。友達であったはずの彼女と花咲夢になった女の幻想を砕いた彼女が言い争っているように思えた。二人がなぜここにいるのか彼女には見当が

付かなかったが、二人の口振りからなにやら自身について話しているようだと気付いた。いつの間にか彼女はドアを背に、半ばよりかかった状態で動くことができなかったが、視線を動かすとそこでは自分の左手はカギに手を伸ばしていた。


「親友に会いに行くのがそんなにいけないことなの!?」


カギを回そうとした左手が止まっていた。彼女を拒絶した彼らのファンが彼女を、友人だった相川遥を傷つけようとしたらしい。それを風紀に助けられて、それで私とは友達じゃなくて……。彼女の思考は断続的にそして支離滅裂に働いていた。座り込み、頭を抱え込む彼女はとても小さくなっていた。背の声は止まない。ただ二人とも現在の居場所のことを思ってか、声のトーンは下がっていた。


「だから、花咲夢はファンクラブに対する隠れ蓑としてあなたを利用していたのよ。記憶を使ってあなたも彼らも思い通りにしようとしていた。なのに、なんで、もう辛いことはないのよ。」

「うるさいっ。彼女のことをそんなふうに言わないでよ。」


片方の語気が強くなる。自分でも制御が聞いていないような勢いで、その声は叫んだ。


「記憶を使って?なら、なんで夢はあんなに遅くまで勉強してるの?泊まりに行った私が寝ちゃった後もずっとずっと。なんで、男の子たちのことをみんなに聞く必要があるの?ファッションだって、運動だって、全部、全部あの子が頑張ってたからじゃない!生徒会のみんなにはいつも、大変だけど仕事も頑張ってねって。ファンクラブのことだってそう、夢と私はあの人たちと話し合ってた。今のままじゃだめだ、みんなが納得できるようにしようって。最初は全然だめだったよ。嫌がらせをされることもあった。でも、もう少し、もう少しで上手くいくはずだったのに。」


視界が滲んで彼女はどこにいるのか分からなくなった。頭にあった手は少し下がり、決壊しそうな瞳を押さえつけた。


「彼女の努力を馬鹿にするな!なにも知らないくせに彼女を、私の親友の花咲夢をわらうな!」


女は立ち上がることができそうになかった。激流を止めることも。誰もいなかった前の自分が哀れになった。虐げられ、裏切られ、無くして今の花咲夢になった。花咲夢も同じ道を辿ってきた。でも、私の周りにはこんな子がいた。親友がいた。それだけで彼女には充分だった。あの日から、泣かなくなった日からの分を取り戻すように、一人の女は泣き続けた。そうしてその後泣き止んだときから女は本当にはなさきゆめになった。




桜が咲いて、春が訪れた。建物から出てくる一人の女を迎えたのは、まぶしい陽光と、それを背にこちらに向かい手を振るシルエットだった。あの日は、もう来ない。襲いくる痛みと何かに救いを求めた日。幻想に呑まれた日。生まれ変わった少女の目には光に満ちた世界が広がっていた。




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