主人公、勤しむ。
小学校で書いた卒業文集から、少し引用してみたい。勿論文才のない俺であるからそれは恥ずかしいことであるのだけれども、それゆえ俺の信条は明確に伝えられると思う。
『僕の夢は、なににもならないことです。というのも僕は働くという行為にある種のナンセンスを感じていて、汗水たらして働いた挙げ句つかまされるのが痩せた身体と小さな家であるのがたまらなく嫌だからです。僕はなにもしたくありません、が、この資本主義の社会においてはお金が無ければなんにもなりません。だから僕は母親がアラブかロシアの石油王に見初められないかなと思います。そうして僕を働かないでも構わない状況にさせて、ただのんべんだらりと本でも読んで眠るような人生を送れればいいなと考えています……』
このような作文を書いたら、温厚で笑顔の可愛らしい阪口先生に満面の笑みで頭を叩かれたものである。書き直しを命じられ「将来の夢は検察官になることです」とかなんとか書いて、正式にはそちらが文集に載ったのであるが、今でも俺は働くということが嫌いなのだ。
というのも俺の父親はK大を出たあと一流企業に就職したエリートで、働くことが生き甲斐だとでも言わんばかりに働いていた。ぶっちゃけた話顔もよく知らない。深夜に帰ってきて俺が起きる前にまた仕事へ行く人だったから、まあ、よくやるなと感心していたが、それで死んでしまったのだから馬鹿げた話だと思う。病院のベッドで働けない身を罵りながら死んでいった父親は今思い出しても苦々しいストーリーだと思う。
だからこそ、俺は労働というものを軽視こそしないが全てを懸けるものではないと考えている。少なくとも生きていけるだけ稼げればよいのではないかしらん。であるから、今俺の目の前にいるような、労働者の鑑的なアランさんには苦い顔になってしまうのである。
アランさんはどこか躊躇った顔をしている。俺はアランさんが持っていた、先程注文せられた定食二人前を奪い取り、せかせかと配膳しに行った。後ろでアランさんが、小さく呟いたようだけど知ったことではない。俺は労働者の敵なのだから。
「はいはいおまっとさん、定食二人ねー」
「ん、ありがと。手伝うことにしたんだね」
先程の金髪爽やか兄さんは爽やかスマイルと共に爽やか弁舌を振るった。俺は微笑みながら、あれじゃ死にかねませんからネと答えると、爽やか兄さんは「そうだねぇ、あまり身体も丈夫でないんだし、頑張りすぎるのはどうかと思っていたんだ。手伝ってあげて、ケンヤくん」と、爽やかに答えたものである。爽やかの権化爽やか菩薩と名付けたい。
ふらふらとカウンターに戻ると、少しばかり寂しそうな顔をしているアランさんが俺を見つめてきた。やはり避けることは出来ない所であるから、俺は真っ向から対立することに決めた。
「ダメですかね? とはいえ俺としても容易くは認められない現状ですから」
「ダメ……じゃない、けど、これがボクの、仕事だから」
「そうですか。しかし、俺はこう思うんですよ」
俺はカウンターに身体を預けて、身を乗り出した。アランさんは黙ったままむっつりしている。自負心の強い人は、自虐趣味よりかはよいがしかし身体を痛め付けていることには変わらないのであまり好かない。
「あなたの仕事は美味い料理を作ることだ。しかし配膳を行うことはあなたの仕事である料理に専念出来なくさせるでしょう。それがまず一つの悪です。俺が配膳を手伝うことはあなたの仕事を邪魔するどころか、それを促進することにも繋がる。そして配膳は、決して料理の善し悪しには関わらないことですからね、あなたは安心して俺に仕事を任せられる。どうですか、まだあなたは配膳を含めても仕事だと考えますか?」
アランさんは答えない。肯定か否定か分からないのでそのまま続けることに決めた俺は、またもやお喋りをする。
「そして第二の悪ですがね、あなたがあなたの才能をご存知でないことです。あなたは料理を作る才能がある、羨ましいことですナ、なのにあなたは配膳や恐らくは皿洗いなんぞにかまけてその才能を殺しているでしょう。そりゃあもう悪も悪、大悪というやつです。俺は才能というのを崇拝しているんですよ、分かりますか。然るがゆえにカルタゴは滅ぶべき……ではなく、あなたの才能がより発揮されるよう俺は働きたいと思うのです。まあ、善意の勝手な押し付けですがね」
ついうっかりカトー先生が出てきて驚いたが、とりあえずは語れたので満足である。カウンターをトンと叩いて、俺はアランさんを見つめた。どことなく拗ねた様子のアランさん、小さく溜め息を吐いた後、「君は卑怯だ」と呟いた。バレたか。生まれつきの卑怯者はすぐさま馬脚を露呈するものだヒヒン。
「……ありがと。手伝って、くれる?」
「はい、喜んで」
人間というのは、プラトン的な考えで行くと元々は男女一緒だったのだ。だからだろう、こんな風にアランさんが上目遣いで、しかも頬を赤く染めながらだ、お願いしてくると脳髄に住むエロい小人がうっひゃらほいと駆け回るのである。女の子以上に女の子。もう、これで男とか詐欺の領域、友人が言っていた「こんな可愛い子が女の子な筈がない」という頭の悪い台詞が俺にも理解出来た訳だ。もうアランさんの性別は男女とは違う、性別アランさんとでも呼んでおこうと今決めた。
夕食刻、人が食堂へと押し寄せて来た。俺がせかせかと動き回っていると、人々は毎度の如く「ちっさー」だの「誰だ」とか言ってくるのでやはり徐々に答えるのにも飽きてくる。最終的には小さい呼ばわりされた時には「俺が小さいのではない、世界が大きいのだ!」と壮大なことを口走るに至った頃、食堂へ見慣れた顔が入り込んできたのが見えたのであった。
「あっ、ケンちゃん、こんなとこにいたんだぁ」
レオナールと男前さんとが連れだって歩いてくる。席に着いた二人に俺も近寄れば、唐突に頭をグワシャッされた。なんやねんと思いながら頭を撫でに撫でてくるレオナールを睨めば、あっはと笑うだけである。
「ビックリしたんだよ、部屋覗いたら迷子の猫ちゃんがいなくなってたからねぇ。なに、食堂でお手伝いしてるの?」
「ええまあ、さすがに居候というのもつまりませんしねぇ。んな訳で、何にしますか? ちなみに定食は唐揚げです」
「カボチャのピュレ、あとは魚とサラダ適当にー」
「へいへい、男前さんは?」
俺が尋ねてみたが、男前さんは答えないままだ。まあなんてことだろう、質問には答えるべきだ、答えられないなら勝手にすべきだってばっちゃが言ってた。
「……そのなんだ、『オトコマエ』って私のことか?」
頷く俺に、男前さんは「そういえば自己紹介を忘れていたな」と呟いた。そうして眼鏡を押し上げた後、柔らかくはにかみながら口を開いた。
「イジドール、イジドール・ド・リールだ、よろしく」
「はい、お世話になります。それではイジドールさん何にいたしましょうかね?」
「定食で頼む」
「はいよ、定食一つ、よろこんでー!」
俺はとてとてととてとカウンターへ行き、アランさんに注文を伝える。忙しなく動いた後、アランさんはお盆に載せた料理を二人前用意する。戻って配膳するとまたレオナールから頭を撫でられた。頭には精霊が宿るので触っちゃダメだと習わなかったのだろうか?
「はいはい、どうぞおまちどおさまです」
「ありがとねぇ、ケンちゃん」
「その前に頭撫でるの止めましょうか。俺は猫じゃないのでね!」
ぺしこんと叩けばはにかみながらもレオナールは手を離した。犬派を舐めてはいかない、狼ですぞわんわわん。そんなことを考えていると、イジドールさんが口を開いた。どうもイジドールさんはここのお偉いさんらしく、どうせなら食堂手伝いとして働くかいと提案してきたのであった。給料も出してくれるというので、今日1日で食住に加え職まで掴めたという訳だ。さすがに笑われたり蹴られたりしただけあり、神様も俺に微笑んでくれたのだろう。俺は謹んで引き受けた。
会釈の後、仕事に戻った俺は、性分にあわず熱心に働いた。時間を悟ることもなく、気がついた時には人も捌けていた。とりあえずは、1日目終了という奴である。途中、料理に髪が入らないようにと貰ったタオルを頭から外して、息を吐いて椅子に座る。ぼんやりしていたらと目の端にグラスが映る。目を向ければアランさんが、はにかみながら俺の対面に座っていた。
「お疲れ様……ありがとう」
「いえ、こちらこそ無理を言ってすみませんね」
「……隊長から聞いた。明日からも、手伝ってくれるって?」
俺は頷く。人の去った食堂に音は緩んでいく。アランさんは、笑顔を浮かばせた。帽子を取った時、茶の髪が額に揺れ、緑の瞳が明るく煌めいたような気がした。
「明日、朝から、来て。待ってるから」
「はい、分かりました」
それから、何をするということもなく俺達は微笑んでいた。窓の外で静かに夜は沈んでいく。色々と忙しかった1日も、終わりが近づいていた。
アランさんは明日の準備をしてから終えるという。手伝えることがあれば手伝ってしまおうと思ったのだが大丈夫と言われたので先に上がることにした。それでは、お先にと言えば、ちょいちょいと手招きをされた。はてなんだろうと思いつつ近寄れば、アランさんが少しばかり腰を屈めて顔を寄せてきた。
頬と頬とが触れ合う。少々呆然としていたら、アランさんが頭を撫でながら「おやすみ」と小さく言ってくれた。
文化というのはやはり不思議なものだ。日本人の俺にはこのような挨拶が馴れない。それに、何故こうも撫でられるのだろう。あまり馴れないことばかりされたので、俺は目眩を覚えながら廊下を歩いていた。突き当たりに嵌め込まれた窓から顔をのぞかせて夜風に当たることに決めた。
漆黒の空に小さな星が数え切れないほどに集まっている。濡れた鏡のように美しい月が、2つ、俺を見下ろしている。俺は今も夢を見ているのではないか? そんな感傷が胸の浅い所を犯すその瞬間にも、見慣れぬ2つの月は煌めいていた。