主人公、包囲される。
耳赤の一手という言葉がある。棋聖・本因坊秀策が某という名人と囲碁勝負をした時、えいやと打った手が相手にとって致命的一手であり、形成逆転、名人も表面上はなに食わぬ顔でいたが焦りや戸惑いによって耳が真っ赤になっていた。そのような、形成をひっくり返した素晴らしい一手のことを耳赤の一手と呼んで、当代にてもさすが棋聖よ天才よと騒いでいるらしいのだが、俺は囲碁を知らないのでぶっちゃけよく分からない。それなのに何故囲碁を引いたのかというと、俺と対面の男が耳まで真っ赤にして見つめあっているからだ。お喋り出来ないこの気持ち、恋ではない断じてないのである。
「あ、あの……」
男は、未だに頬へ手を当てながら語り出す。俺としてもぼんやりしていると、このまま淫靡で耽美な世界へレッツゴーしてしまいかねない。俺は、女の子が大好きなんだい!
「な、なんでしょうか」
「……ホント、嬉しかった。……ありがと」
あかん。一瞬頭の端に「ああ、男でもいいや」という囁きが聞こえた。躊躇い勝ちに上目遣いで言われた言葉に心臓は8ビートを刻んでいるし、むしろコイツ女なんじゃないかとドッキンドッキン独禁法。などと小粋なジョークを飛ばしつつ、俺はいやいや、そんな、感謝されるものではないですしと答える。
なんとなく宙ぶらりんな雰囲気。さてどうするさてどうなる。お腹が一杯で眠たくもあり、まだまだ耳は熱を帯びてる。不思議だ!
俺達はブレイクスルーを探していた。そろそろお暇をする時間ではなかろうか。しかしそうするための言葉を持たなかったのが嘆きの始まりな訳でして。とりあえず、お名前でも伺おうか! そう決意した瞬間、扉がバタンと開かれ、ざわめきが入り込んでくる。ついでに、汗の匂いも。
「飯だ! 飯だ飯だよ人生は! 肉と肉と肉を頼む!」
肉しかないのか。男が4人、上半身裸で乱入してきた。マッチョイズムここまできわまれり、か……! 汗をタオルで拭き拭き、男達が部屋を進んできた。そうして俺を見つけ、なんだなんだなんですかとばかりに俺を囲んでくるではないか。俺は土地じゃないというのに!
「なんだこのちっこいの、とりあえず囲むか」
「マスコー人か? とりあえず囲むぜ」
「騎士志望にしてはちまいな、とりあえず囲もう」
「なにはともあれ囲めや囲め」
俺は四方を囲まれた。何故囲むのか、そこに人がいるからか。ズヌリと高い身長の男どもに囲まれ、俺はと言えば戸惑ってしまう。ヘルプミー、青年! などと青年を見つめれば、あわあわあわわと慌てた様子の青年がいた。落ち着いて、俺を救ってくれ、そう祈るのだが、ああ、世界は無情だ。
「用意、しなくちゃ……!」
パタパタと厨房へと向かっていった青年。まさかの放置にさすがの賢也も苦笑い「もう二度と異世界には来ないよ」などと言いつつまず帰れるかどうかも分からない。そうして囲んでいる男らは俺の頭をくしゃりくしゃりと弄びはじめる。
「ちっけー、マスコー人ちっけーなホント」
「何歳なんだろうかね?」
「12とか?」
「もうちょい下じゃね?」
「止めろ!俺の頭を撫でるな! 猫じゃねぇんだから頭を撫でるな!」
「なら背中か?」
「動物から離れようぜ! 人間的な扱いをした上で囲いを解いてくれ……回るな!」
お互い手を繋ぎながら、下世話な歌詞の歌を口ずさみながら回りだした男4人にツッコミを入れればケラリと笑われた。なんか今日は笑われまくった。多分明日は笑われぬだろう。希望的観測である。
「それで? 君は誰だね?」
一人の男が訊ねてきた。そいつは、むしろ肥え入っている男だが、おそらく素手で熊を殴り殺せるんだろうなと思わせるくらいには腕が太かった。しかし、俺が誰か。それは実に難しい質問である。
こちらに来てからというもの、俺はマスコーなどという人種に間違えられる。おそらく似たような外見の人々がこの世界にはいるんだろう。なら、嘘でもそのように振る舞う方が良いんじゃなかろうか。考えて欲しい。
「マスコー人の瀬戸口と申します」
「ははぁそうか、よろしくな」
というのが、
「異世界から来ました瀬戸口と申します」
「ははぁそうか、いい病院を紹介してやろう」
こうなる。レオナールには異世界から来たと伝えたが、あれは行き場が無かったから仕方ないことだった。けれども今に至っては、多少の嘘でも方便になればよいのではなかろうか。そう考えた俺は、愛想のよい笑顔で答えるのであった。
「マスコーから来ました、瀬戸口と申します」
「ははぁそうか、お前声ヘンだな!」
おっとシミュレーションと違う。何故だ、何故こうも笑われるのか。囲まれた状況で笑われる俺は苦しさと悲しさと少しばかりの嘆きを抱く。声がヘンって、そりゃまあ、緊張で声もヘンになったろうけどさ、親からも「穏やかないい声」と誉められた声を笑われるなんて……いささかショックである。
「それで、君はなんでここにいるんだい」
4人の中でも微笑程度だった、爽やか金髪兄さんと形容したい男が、泣き顔ショタる俺に訊ねてきた。それに対して手短かに居候することになったんですと答えたら、兄さんはよろしくねと手を指し伸ばしてきたじゃないか。握ってみれば強く握り返された。俺、この人とは仲良く出来そうな気がする。
そんなホワホワ気分も、すぐに消えたが。頭をガッシと掴まれ、わしゃわしゃと頭を撫でられた。目線を挙げれば、ゴリラにも似たゴツい男が俺を見下ろしていた。わあ、ゴリラだ。ゴリラを見たのは小学校3年生ぶりだ。
「しかしちまいな。男は筋肉つけねぇとな。肉食え肉」
まるでスエズ運河のようなケツアゴを持つケツアゴリラさんは、マッチョイズムの最先端を行く発言をしてきた。俺はと言えば体育会系が苦手なので、今さっき唐揚げ食べましたと呟くのみである。
「おっ、今日は唐揚げ定食か。おぅ、アラン、定食4つなぁ!」
ゴリラ兄さんが厨房に向けてそう怒鳴ったところ、ゴリラ語を解する青年が――アランというらしい――小さく頷いた後せかせかと用意を急いでいるのが見えた。そこでふと気がついた俺は、未だ頭をわしゃしゃんしているゴリラ兄さんに訊ねたのであるが、その返答に驚愕するのも詮なきことであろう。
「今はアランさんしか見えないですが、他の調理人の方々はどこにいるんですかネ? そろそろ夕食刻でしょうに」
「ん、アランしかいないぞ、ここ」
「……へっ? 冗談は顔だけにしてくださいよ」
「言うじゃねぇか小僧。しかし本当だ、アランのアランによるアランのための食堂、それがアランズ・キッチンだ」
何を言ってるんだこのゴリラさんは。一人? そんな食堂あってたまるか、近所の定食屋でさえ夫婦二人で切り盛りしてるんだぞ。呆れた口が塞げず、迷った俺は続けて訊ねた。
「ええと、この食堂を利用する人間の数は」
「具体的な数は知らないが、おおよそ400くらいだろうな」
解答者は、俺を囲むノッポ四天王が最後の一人、緑色した前髪で目元の隠れている青年らしき男性であった。しかし、俺はもう、何を言えばいいのだろう。とりあえず、万感の想いと共に叫ぼうと思う。
「一人で400人相手するって、わりと死ぬぞ!」
「……大丈夫、一応、生きてる」
びっくんと羽上がり、頭の上から降ってきた声を遡り見ればアランさんがお盆を両手に俺の傍に立っているではないか。机にお盆を置いた後、立ち去ったアランさんを見て、俺は更に更に頭の痛い事実に思い至ったのである。うひょうと叫びながら山盛りご飯を貪るゴリラ兄さんの袖を引く俺は、多少の胃痛を抱いていた。
「あの、もしやアランさんって、ああいう風に配膳まで……?」
「ん、そうだな。というか人がいないんだからアランが配るしかないだろ」
そこは自分たちで取りにいく形式にしろよ! 俺は叫びたかった。否、否、それじゃ足りない。俺は……俺は革命家たらねばならぬ! 俺は立ち上がり、解けた囲いを通り厨房へと駆け抜けた。そうしてカウンターに腕をのせつつアランさんに叫んだのである。
「アンタもう調理に専念しろ!――配膳は俺がするから、じゃないと死ぬぞ!?」
それなりに長く生きてきたが、まさか人の生死を気遣うようになるとは思いもよらなかった。まさに人生は流転である、俺は驚いたように見つめてくるアランさんの顔を眺めながら、内心、溜め息を吐いていた。