主人公、迷う。
「ここが寄宿舎、僕もここで寝泊まりしてる。君は、やっぱり色々と厄介だし、僕の隣の部屋に来なよ。空いてるし」
イケメン……いや、レオナールは例のへらりとした笑顔で語りながら、建物に瞳を巡らした。建物は灰色がかった石造りで、低くへばりついたその姿はなんとなく蜘蛛っぽい。いやまあ白い蜘蛛がいるのか知らないが。レオナールの後をついて寄宿舎に入るが、あの長足である、俺はちょこまかと小走りで歩かなければならない。
寄宿舎は、どこかしら汗臭く、俺はなんとなくさ迷った挙げ句入り込んでしまった柔道部の部室を思い起こしてしまい体育会系の末恐ろしさを嘆くばかりだ。手狭な廊下にはちょくちょく人がいて、俺とレオナールを見かけては俺が何者かを尋ね、ご丁寧にもレオナールは迷子の猫だのほざきやがる。犬派の俺はハートブレイクしなんとか上手くして奴の踵を踏んづけてやろうと狙うのだがうまく行かないのが人生というものだ。
後ろに目でも付いてるのか知らないがひょひょいと避けられた後、これが最後とばかりに狙いをつけ、踏み出した所で足は止まった。目標を見失った俺のおみ足、そして体勢を崩してずっこけかけた俺の頭に、ぺしこーんとチョップが降ってくる。若干痛い、涙で見えぬ明日の向こうを見上げれば、朗らか笑顔のイケメンが見えた。ははぁ、こいつが毛唐の好む天使という奴か!
「馬鹿しちゃダメだよ、せっちゃん」
「せっちゃんとはなんだねせっちゃんとは。そんなせっちんみたいな響きは断固拒否しますぞ」
「じゃあ、ケンちゃん」
うわあ、幼少期の思い出。母親からケンちゃんケンちゃんと呼ばれ続け、給食にけんちん汁が出た時には生き別れの兄と再会したような気持ちになった小学生の追憶のまま、俺はなんとも言えず唸ると、よしと小さく頷いたレオナールはケンちゃんここだよと扉を指差した。
「ここが、俺の部屋ですかナ」
「ううん、僕の部屋ぁ。覗いちゃダメだよ?」
誰が覗くか。金髪碧眼美少女になってから出直してきなさい! そんな叫びを知ってか知らずか、ふわりとその隣の部屋に押し入ったレオナールについて、俺も未知の世界にカムインしたのである。
部屋は意外と綺麗だった。警察の寄宿舎というからには無機質なのかと思っていたが、ベッドとクローゼットのあるワンルームである。共益費水道代込みで家賃驚きの33000円、貧乏学生の善き友である。驚いたのが、どこかしら使い込まれた後がある椅子と机が部屋の真ん中に置かれ、そして皺一つない制服が―レオナールやさっきの男前が着ていたものと同じものだろう―ベッドの上に畳まれていた。
「ああ、片付けてなかったか。まあ、好都合かな。机とか使っていいよ、制服は着れないだろうけど」
「おやおや、先住民がいたのですかね」
「うん、死んじゃった」
軽い口調で重いことを言われた。なに、そういうムーブメントがあるの? いやぁな雰囲気に苦笑いしてると、レオナールはそれじゃと手を上げて部屋を出ていった。まさかの投げっぱなしジャーマンである。
一人、静かになってみたが、どうにも緊張感は生まれなかった。つらつら思えば、菓子を買いに行く途中で道に迷い、知らない世界に来てしまったというのに、一切慌てていない。それはもしかしたら迷った直後に騒動に巻き込まれ動揺していたからなのかもと思っていたのだが、一人になってもこうなのだから、多分に緊張感というのが無い男なんだろうと思う。慌てぬ心はエターニティ。俺はベッドに飛び込んで転がった。
シーツからは薄く汗が臭い、先住民が遺した物を手にしてみれば、首回りに何かしらの記号が縫い付けられている。はて、イニシャルか、それとも恋人の祈りか。分からんがとりあえずはサイズが大きすぎて着れないから、クローゼットの中にあった針金ハンガーに掛けてやる。
さて、どうするか。投げっぱなしジャーマンは、意外と困る。ぶっちゃけると知らない世界だから、レオナールに色々とこの世界の常識やらを尋ねようと思ったのだが、叶わない夢であった。やんぬるかなやんぬるかな!
ひょいとベッドから降りて、俺は、散策に出ることにした。多分黙ってニコニコとしていたら、問題なんかも起きないだろう。なにより俺は、この世界がどういう物かを知らなくちゃならなかった。
こういう時に困るのが、子供の好奇心と方向感覚の欠落である。ふらふらとほっつき歩いていたら、多少ふらつくだけの当初の予定がまさかの迷子となってしまった。自室が分からぬ道理も分からぬ、分かるのは母親の皺の数だけだよ全く。どこかに人がいたら「レオナールって人の部屋はどこですかぁ?」などと可愛らしく訊ね、「気持ち悪い!」と殴られることも出来たのだが、人っ子一人見当たらないのでやるせない。
さっきまでの喧騒はなんだったのかと不思議に思いながら、ふと、鼻をくすぐる芳香に意識を捕らわれた。醤油、味噌、これは恐らく料理の匂いじゃないか。そう気づくと、不意に腹の虫がくくるくくぅと唸りだした。朝食を食べないで家を出た物だから、さっきのカツ丼が最後の食事である。育ち盛りがあれで我慢出来る筈がない、肉を!肉をもっと寄越せ! 胃袋の指令に、憐れな人の子は逆らえないでいる。俺は雨降りの犬みたいに鼻をくんくんさせながら、芳香を辿って行ったのであった。