南国の後宮へやってきた人質姫。生き抜くためにかき氷屋さん始めます
北の国の王女シグリッドは、揺れる馬車の中で、背筋をぴんと伸ばしていた。
十歳の身体には、少し大きな座席である。足が床に届いていないことは本人も承知しているが、今はそれどころではなかった。
「ごきげんよう。北の国より参りました、シグリッドと申します。このたびは、お招きにあずかり――」
小さな声で、今朝から何度も何度も挨拶を練習している。向かいの席の護衛騎士が、窓の外を見たまま肩を震わせているが、姫は気づいていない。
(噛まなかったわ。でも、お辞儀の角度が少し浅かったかもしれない)
膝の上には、二通の手紙と銀細工の小箱がある。国を出るとき、二人の兄がそれぞれ持たせてくれたものだ。
長兄ハーラルの手紙は、『困ったことがあれば、すぐに書くこと』の一行だけ。次兄ビョルンのほうも、『無理をするな。食事はきちんと摂れ』と、不器用なほど短い。小箱は、部屋でも馬車の中でも、まわりの温度を快適に保つ魔道具で、南の国は暑いと聞いた兄たちが、職人に急いで作らせたものだった。
(兄様たちは、立派に北の国を支えていらっしゃる。わたくしも、王女として恥ずかしくないようにしなくては)
自分が何のために南の国へ行くのか、シグリッドはちゃんと分かっている。北の国は、鉱物の交易があるからこそ、大きな南の国と並んで独立していられる。その友好の証として、王女が人質に出る。敵意があるわけではなく、これは大切な務めなのだ。
(失敗はできないわ。笑顔で、礼儀正しく、皆様に好かれなければ)
ぎゅっと両手を握りしめたところで、窓の外の景色がすっかり変わっていることに気づいた。雪も針葉樹もない。見たこともない背の高い木々が、強い日差しの下で葉を揺らしている。道ばたの人々は薄手の衣で、額の汗をぬぐっていた。
(本当に、暑い国なのね)
それなのに、馬車の中は少しも暑くない。膝の上の小箱から、ひんやりした風が静かに流れ続けているのだ。毛皮の外套を着込んだままでも、シグリッドは汗ひとつかいていなかった。
(兄様たちのおかげだわ。これなら、北の王家の正装のまま、堂々と降りられるもの)
「姫様、まもなく到着だそうです」
「外套の毛並みは、乱れていませんか?」
「完璧でございます」
「よかった。南の国の暑さにも、負けませんよ」
* * *
馬車の扉が開いた瞬間、熱い空気が、ぶわっと顔に押し寄せた。
(……!)
馬車の中があまりに快適だったので、すっかり油断していた。降り立った石畳は、足の裏までじりじりと熱い。毛皮の外套の中に、みるみる熱がこもっていく。
それでもシグリッドは、すっと背筋を伸ばした。
目の前には、南の国の王宮が、白くそびえていた。
丸い屋根と細い尖塔が青空に映え、壁には金や青の細かな模様が走っている。庭には絶えず水の湧く噴水があり、色鮮やかな花が咲き乱れていた。甘い香りの風が、頬をなでていく。
(なんて、華やかなの……)
圧倒されそうになるのを、シグリッドは顎を引いてこらえた。ここで気後れしては、北の国が侮られてしまう。
後宮の門の前で、護衛騎士は深々と頭を下げた。後宮は、王と王子殿下がたのほかは、男性が立ち入れない場所なのだという。荷物はすべて門で女官たちに引き継がれ、小箱も先に部屋へ運ばれていった。
シグリッドは心細さをぐっと飲み込んで、門をくぐった。案内されたのは、後宮の中庭だった。広い日よけの布の下に、色とりどりの薄衣をまとった女性たちが、ずらりと待っている。腕や首元で金の飾りがきらきらと光る一方、こちらは毛皮の外套に毛皮の帽子。浮いている。かなり浮いている。
それでも、シグリッドは一歩進み出て、ドレスの裾をつまんだ。
「北の国より参りました、シグリッドでございます。このたびは、この国に迎えていただき、心より感謝申し上げます。至らぬ身ではございますが、一日も早く南の国のしきたりを学び、皆様のお役に立てるよう――」
用意してきた挨拶を、一息に言い切った。噛まなかった。お辞儀の角度も、おそらく完璧だ。
(言えたわ!)
顔を上げると、正面に立つ女性と目が合った。長い黒髪に、深い緑の衣。堂々としていて、あたたかな笑みを浮かべている。この方が正妃のジャミーラ様だと、事前に聞いていた。
ところが、返事がない。
中庭がしんと静まり返り、シグリッドの背中を、暑さとは別の汗が流れた。何か間違えただろうか。
「……ねえ」
ジャミーラの口元が、ぷるぷると震えている。
「あの帽子、耳がついているわ」
「え?」
毛皮の帽子には、たしかに丸い小さな耳飾りがついている。北の国では、子どもの帽子によくある意匠だ。
「か――」
「か?」
「かわいいいいいい!」
中庭が、爆発した。
「クマちゃんだわ!」「クマちゃんよ!」「まあ、ちっちゃい! もこもこ!」
妃たちがわらわらと集まってきて、あっという間に囲まれた。誰かが帽子の耳をつつき、誰かが外套の袖を撫で、誰かが頬をむにむにとつまむ。
「あの、わたくしは、姫なのですが……」
「そうよね、お姫様のクマちゃんよね!」
「いえ、クマでは……」
「まあまあ、暑いでしょう。おやつを食べましょうね。干しいちじくと、砂糖菓子と、それから――」
(ち、違う。わたくしは人質で、真剣にご挨拶を……)
話が噛み合わない。気がつけば、シグリッドの両手には、お菓子が山盛りに積まれていた。
そのとき、柱の陰から二つの顔がのぞいているのが見えた。男の子が二人。年上のほうは腕を組み、偉そうにこちらを眺めている。もう一人は、目をまんまるにして、帽子の耳を凝視していた。
「あれが北の国の姫? ほんとにクマみたいだ」
「だからクマではありません!」
思わず叫んだら、中庭がどっと沸いた。
「こら、ザイド、ラシード。のぞき見はおよしなさい」
ジャミーラが笑いながら二人を叱り、それからシグリッドの肩に手を置いた。
「ごめんなさいね。陛下は視察で、しばらくお戻りにならないの。その間は、わたくしたちがあなたのお母さん代わりよ。仲良くしましょうね、シグリッド」
その手が、びっくりするほどあたたかい。
(お母さん、代わり……)
人質の自分が、そんなふうに言ってもらえるなんて思ってもみなかった。戸惑いながらも、シグリッドはほんの少しだけ口元をゆるめた。
もっとも、毛皮の中の暑さは、そろそろ限界だったのだけれど。
* * *
与えられた部屋は、庭に面した明るくて広い部屋だった。
入った瞬間、ほっと息がもれた。先に運ばれていた兄の小箱を窓辺に置くと、馬車の中と同じ、ひんやりした風がふわりと部屋を満たしたのだ。
「ありがとう、兄様……」
小箱をそっと撫でていると、後ろから、静かな声が呼びかけた。
「シグリッド姫様。ご挨拶に参りました」
振り向くと、三人の女性が並んで頭を下げている。声をかけたのは、落ち着いた年長のナジュマ。その隣に、くるくるとよく動く目をした、おしゃべり好きそうなユスラ。そしていちばん若く、さっきからお菓子の山に視線が釘づけのタミラ。今日から、シグリッドに仕えてくれる侍女たちだ。
シグリッドは、慌てて小箱から手を離し、背筋を伸ばした。
「シグリッドです。よろしくお願いします。わたくしのことで、皆様にはご迷惑を……」
「とんでもございません」
ナジュマがそう言って、運ばれてきたお茶を勧めてくれた。井戸水で冷やしたというお茶だったが、廊下を歩くうちに、すっかりぬるくなってしまっている。ユスラが「申し訳ございません、いつもこうなのです」と恐縮した。
部屋の中は快適でも、一歩外に出れば灼熱だ。それを何往復もして世話をしてくれる三人の額には、玉の汗が光っていた。
「いいえ。それより皆様こそ、汗をかいていらっしゃいます。少し、お待ちください」
シグリッドは、ポットとグラスに向けて指を立て、魔力を少し流した。
カラン、と涼やかな音がして、グラスの中に透明な氷が、ころころと落ちる。人数分、四つ。ついでにポットにも。
「どうぞ。冷たいほうが、おいしいと思います」
返事がなかった。
三人の侍女は、グラスの中を見つめたまま固まっている。
(あら。お行儀が悪かったかしら)
「ひ、姫様」
ナジュマの声が、うわずっていた。
「氷、でございますか? 今、お手から?」
「ええ。北の国では、水の力は氷になって出ることが多いのです」
「氷は、北の山の氷室から、少しずつ運ばせる貴重なものでございます。王宮でも、陛下のお飲み物や、重い病人の薬など、限られたときにしか使われません」
「わたし、氷なんて、遠くから一度見たことがあるだけです」と、ユスラが口を挟む。
シグリッドは、目をぱちくりさせた。
氷なんて、北の国では窓の外にいくらでもある。水の力を持つ者も多く、珍しいものではない。けれど南の国では、王宮でさえ、特別なときにしか手に入らない貴重品なのだという。
(わたくしの力は、ここでは、ずいぶん価値のあるものなのだわ)
知識としては知っている。『土地にとって当たり前のものが、別の土地では宝になる。交易とは、そういうものだ』と、兄たちがよく言っていた。それでも、毎日当たり前に出してきた力のことになると、いまひとつ実感が湧かない。
「そのような貴重なものを、わたくしどもがいただいてよろしいのでしょうか」
ナジュマが、グラスを前に恐縮している。
「どうぞ。いくらでも出せますから、遠慮なさらないでください」
いくらでも、という言葉に、三人が思わず顔を見合わせた。
「では……飲んでみてもよろしいですか」
タミラがおそるおそる手を挙げ、グラスに口をつけた。ひと口飲んで、その目がうるうると潤む。
「つめたい……。姫様、ここは天国です」
「ちょっとタミラ、大げさよ。……あ、本当に冷たい。こんなに冷たいお茶、初めて」
ユスラも、ナジュマも、ほうっと息をついた。氷がグラスの中でカランと鳴るたび、三人の頬がゆるんでいく。
「姫様、ありがとうございます。生き返りました」
ナジュマに深々と頭を下げられ、シグリッドは慌てた。
「そんな、お礼を言われるほどのことでは。わたくしは、氷を出せるだけですもの」
そう言いながらも、胸の奥がふわっと温かくなる。人質としてやってきた自分が、誰かの役に立てた。喜んでもらえた。
(これよ。こういうことから少しずつ、皆様と仲良くなっていけばいいんだわ)
その夜、シグリッドは日記に大きく書いた。
『作戦:氷で、仲良くなる』
* * *
翌日の午後、シグリッドは侍女たちを部屋に呼んだ。
「今日は、皆様にお礼をしたいのです。昨日は、とても親切にしていただいたので」
お礼という名目の、仲良し作戦である。
北の国には、冬になると、氷を削ってメープルシロップをかけて食べる、素朴なおやつがある。「かき氷」という。子どものころ、兄たちが氷の塊を削ってくれて、窓辺でよく食べた。削らなくても、氷を最初から細かく出せば、あれがここでも作れるのではないか。
「北の国のおやつを作ります。かき氷、といいます」
「かき氷……?」
タミラが、聞き慣れない名前に目を丸くした。
「リクエストをどうぞ。メープルと練乳があります。……二つしかありませんが」
「両方で! あと、たくさん!」
タミラが即座に手を挙げて、ナジュマに「ちょっと」とたしなめられた。
シグリッドは器を並べ、深呼吸をして、指先をかざした。まずは、シャワーのように氷を降らせてみる。
ざあっと音がして、器の中に、ごろごろと粗い氷の山ができた。
(……あら?)
思っていたものと、全然違う。ふわふわの氷というより、砕いた氷のかたまりだ。
「……失敗、です。これでは、おやつになりません」
シグリッドは、しゅんと肩を落とした。
「姫様、この氷は、お飲み物に入れてはいかがでしょう。昨日のお茶のように」
ナジュマがそう言って、氷をひとかけ、グラスに落としてくれた。カラン、と涼やかな音がする。
「これなら、わたしがかじりますよ」
タミラが氷をひとつつまんで、ガリガリと噛んだ。
「冷たくて、おいしいです」
「タミラ、そういうことではありません」
ナジュマにたしなめられて、タミラが首をすくめる。それを見て、シグリッドは、ほんの少し笑ってしまった。
「ありがとうございます。でも、わたくしが作りたいのは、これではないのです」
(もっと、細かく)
気を取り直して、今度は粉雪のように、ふわり、ふわりと降らせる。器の中に、小さな雪山ができた。
「あ……!」
ナジュマが目を見開いた。
「口の中で、すうっと溶けます。氷が、こんなに柔らかくなるのですね」
「北の国では、冬のおやつなのです。兄様たちが削ってくれたものより、ずっとふわふわになりました」
タミラは無言で食べ進め、一杯目を空にして、小声で言った。
「おかわり、いいですか」
「もちろんです! あの、今度は、もう少し細かいほうがいいですか? それとも、今くらい?」
「今くらいが、いいです」
「承知しました!」
気づけばシグリッドは、すっかり夢中になっていた。粒の大きさを少しずつ変えて、いちばんふわふわになる降らせ方を探す。侍女たちが横から、好き勝手に意見を言う。
「もっとふわふわで!」「でも、それだと溶けるのが早くなります」「練乳は、たっぷりで!」
(ふふ。皆様の意見を聞きながら作るのは、楽しい)
いえ、楽しんでいる場合ではない。作戦は、まだ途中なのだから。
* * *
それから三日後の午後、シグリッドは部屋で本を読んでいた。北から持ってきた星座の図鑑だ。南の国の夜空には、北の国では見えない星座があるらしい。
そこへ、廊下のほうから、どやどやと足音が聞こえてきた。それも、一人や二人ではない。
「姫様!」
ナジュマが、珍しく慌てて入ってきた。
「ライラ様と、ファリダ様、サフィヤ様が、お越しになりました。姫様に、お会いしたいと」
「側室の、皆様が?」
シグリッドの背筋が、しゃんと伸びた。
(来たわ。初めての、公式のお訪ね……! ここで失礼があってはならないわ)
急いで図鑑を閉じ、髪と裾を整える。ナジュマが無言で、背中の埃を払ってくれた。
「お迎えは扉の前で。礼は深く。お茶の用意と、それから……」
「姫様、そんなに緊張なさらなくても」
「だめです。きちんとしなくては」
扉の前に立ち、シグリッドはドレスの裾をつまんだ。
「ようこそお越しくださいました。ライラ様、ファリダ様、サフィヤ様。わたくしの部屋にお運びいただき、光栄に存じま――」
「シグリッド! かき氷があるって、本当!?」
いちばん前にいた、はつらつとした女性――ライラが、礼もそこそこに身を乗り出してきた。
「ユスラが、おしゃべりしていたの。雪みたいにふわふわで、冷たいお菓子だって!」
「ユスラが……」
そっと侍女を見ると、ユスラはにっこりと、悪びれずに笑っていた。噂の発信源は、完全に彼女だった。
(氷の力のことは、もう後宮中に知れ渡っているのね。ということは、わたくしの力を、見に来られたのかしら。試されているのかもしれないわ)
シグリッドは、ごくりと唾を飲んだ。
「はい。ぜひ、召し上がっていただきたく存じます。わたくしの力が、お眼鏡にかなうと、よいのですが」
「やった! お願い!」
「ちゃんと座って待ちなさい、ライラ。……ごめんなさいね、突然お邪魔して」
ゆったりした口調で言ったのは、蜂蜜色の肌をしたサフィヤだった。小さな壺を二つ、大事そうに抱えている。
「これ、わたくしのところの蜂蜜と、薔薇のシロップ。よかったら、氷にかけてみて」
「わたしは、これよ!」
ライラが合図をすると、お付きの侍女が籠を運んできた。いっぱいに盛られた、熟した黄金色の実が、甘い香りを放っている。
「マンゴーよ。今朝、後宮の門に届いたなかから、いちばん大きくて、いちばん甘いのを選んできたの」
もう一人、細い指にいくつも指輪をはめたファリダは、お菓子には目もくれず、部屋の中をきょろきょろと見回していた。何を探しているのだろう。
「ファリダ様?」
「ああ、気にしないで。お先にどうぞ」
首をかしげつつも、まずはお客様をもてなすのが先だ。侍女たちの手を借りて器を並べ、氷をふわりと降らせ、メープルと練乳をかける。サフィヤの蜂蜜と薔薇のシロップは、控えめに添えた。
ひと口食べたライラの目が、まんまるになった。
「なにこれ! ふわふわ! 口の中で、消えちゃう!」
「ほんと、すっと溶ける。蜂蜜とも合うわ」と、サフィヤ。
「……冷たい」と、ファリダもぽつりと言った。
三人の顔がほころぶのを見て、シグリッドはほっと息をついた。
(よかった。気に入っていただけたみたい)
「ねえ、シグリッド。これに、マンゴーをのせてもいい?」
「えっ。南の国の果物を、北のメープルや練乳と一緒にして、よろしいのですか? 失礼になりませんか?」
「どうして失礼になるの? 絶対おいしいわよ」
ライラは慣れた手つきでマンゴーを切り、氷の上にずらりと並べ、その上から練乳をとろりとかけた。そして、ひと口。
「…………」
スプーンを持つ手が、止まった。
「ラ、ライラ様? お口に合いませんでしたか?」
「おいしい……」
絞り出すような声だった。
「おいしい! これ、おいしい! マンゴーの甘酸っぱさが、練乳でまろやかになって、氷でひんやりして……! シグリッド、これ、すごいわ!」
シグリッドも、おそるおそるひと口食べてみた。
果実の香りが、舌の上にぱっと広がる。そこへ、練乳のやさしい甘さが追いかけてくる。
「……おいしい」
自分で考えたわけでもないのに、胸がいっぱいになった。南の国の果物と北の国の練乳が、ひとつの器の中で、こんなに仲良くしている。
「皆様、またいらしてください。毎日でも、ご用意いたします」
気づけば、そう口にしていた。
「毎日!? いいの!? やった!」
ライラの歓声に、サフィヤがくすくすと笑い、ファリダも小さくうなずく。
作戦は、大成功のはずだった。人質としての務めも、きっと果たせている。……なのに、さっきから頭の中は、次はどんなかき氷を作ろうかということばかりだった。
* * *
かき氷を出すようになって、十日ほどが過ぎた。
シグリッドの部屋には、毎日のように誰かがやってくる。そして来るたびに、何かしら新しい驚きを置いていった。
たとえば、サフィヤがメープルシロップの瓶を光に透かして、ため息をついたとき。
「不思議な甘さ。砂糖とは全然ちがうのね。森の香りがするわ」
「南の国は、砂糖が畑でたくさん採れるのでしょう? そんな国の方に褒めていただけるなんて、驚きです」
「砂糖はまっすぐな甘さ。メープルは、物語のある甘さよ。どっちも好き」
うまいことを言われて、シグリッドは頬を赤くした。
驚かされるのは、シグリッドも同じだった。ざくろは、割ると中にぎっしり赤い粒が詰まっていて、ルビーを集めたようだ。思わず見とれてしまう。ライチは、皮をむくと真っ白でぷるんとした実が出てくる。
「これは食べ物ですか? それとも、真珠?」
「食べ物です」と答えたタミラは、すでに三つ食べていた。
ざくろのシロップ、ライチ、砕いたピスタチオ。メニューは日ごとに増えていく。
ファリダが、シグリッドの髪留めに目を留めたのは、そんなある日のことだった。
「待って。その髪留め、見せてもらってもいい?」
北の国から肌身離さずつけている、銀の髪留めだ。雪の結晶と葉が絡みあう透かし彫りが、小指ほどの幅に、びっしり施されている。シグリッドにとっては、ただの普段使いの飾りだった。
「これですか? 国では、みんなが普段使いにしているものです。町の工房に、たくさん並んでいますから」
「普段使い!?」
ファリダが、がたんと立ち上がった。
「こんなに細かい線を、金属で!? どうやって!? 見て、この葉脈。ほとんど髪の毛よ!」
「冬が長いので、家の中でできる仕事として、発達したと聞いております」
「冬の、ために……」
ファリダは髪留めを両手で包み、しばらく考え込んでから、がばっと顔を上げた。
「お願い、シグリッド。北の職人さんに、わたくしの注文を取り次いでもらえない? わたくしの家の花紋、ジャスミンを、こんなふうに透かし彫りにした首飾りが欲しいの!」
「わたくしの故郷の職人に……よろしいのですか?」
「当たり前よ。こんな技術、放っておけるわけないじゃない!」
シグリッドは、胸が熱くなった。自分では特別だと思ったことのない、故郷のありふれた手仕事が、遠い国の人にこんなに真剣に認めてもらえている。
(兄様たちに、手紙を書かなくては)
そうして数日がたったころ、部屋の扉が、ばーんと開いた。
「クマ姫! かき氷、食べに来てやったぞ!」
「クマ姫ではありません!」
威張って入ってきたのは、第一王子のザイドだ。十二歳。母のもとへ通うついでに、噂のかき氷をのぞきに来たらしい。その後ろから、もう一人がひょこっと顔を出す。第二王子のラシード。シグリッドと同い年で、母のライラによく似た、くりくりの目をしている。
「おれにも、マンゴーのやつ! うんと大きいの!」
「うんとは無理ですが、大きめなら」
「どっちが早く食べ終わるか、勝負しようぜ、クマ姫!」
ラシードがにやりと笑って、器を二つ並べた。
「しません」
「逃げるのか?」
「……逃げません。受けて立ちます」
シグリッドの負けず嫌いは、ときどき思わぬところで顔を出す。
勝負は、一瞬だった。ラシードは猛烈な勢いでかき込み、そして頭を押さえて悲鳴を上げた。
「いってええええ! 頭が、キーンって!」
一方のシグリッドは、涼しい顔で最後のひと口を食べ終えた。
「北の国では、雪を食べる子どもが多いので、慣れているのです」
「ずるい!」
「ずるくありません」
ザイドがラシードの背中をさすりながら、腹を抱えて笑っていた。
* * *
その夜、シグリッドは兄たちに手紙を書いた。
氷がとても喜ばれたこと。かき氷を作ったこと。南の国には、ざくろやライチという不思議な果物があること。ファリダ様が、北の職人に注文をしたがっていること。
最後に、小さく付け足した。
『わたくしは元気です。皆様は、ときどきわたくしを「クマちゃん」と呼びます。人質の自覚が足りないと、お叱りでしょうか』
返事は、十日後に届いた。
ハーラルからは、一行だけ。『楽しそうで何よりだ。職人には必ず伝える』。
ビョルンからは、『ハーラル兄上は、お前の手紙を読み返したあと、しばらく窓の外を見て黙っていた。あれは嬉しいときの顔だ。職人たちも張り切っている。ファリダ様の花紋の注文は、工房総出で請け負うそうだ。無理はするな。せっかくだ、楽しめ』
シグリッドは、手紙をぎゅっと胸に抱いた。
(兄様……)
目の奥が、ちょっとだけ熱くなった。
* * *
ファリダの首飾りが届いたのは、それから二十日ほどあとのことだった。
部屋に駆け込んできたファリダは、いつもの落ち着きなどどこへやら、息を弾ませて細長い箱を差し出した。
「見て! シグリッド、見て!」
蓋を開けると、細い銀の鎖の先に、ジャスミンの花が咲いていた。花びらの一枚一枚が髪の毛ほどの線で透かし彫りにされ、中心には小さな粒が連なっている。ファリダの家に伝わる花紋が、そっくりそのまま、北の国の手仕事で銀の花になっていた。
「すごいわ……。花が咲いたまま、銀になったみたい」
ファリダは首飾りを胸に当て、ぎゅっとシグリッドを抱きしめた。
「ありがとう! 本当にありがとう! 一生大事にするわ!」
「わたくしは、手紙を書いただけです。作ったのは、職人たちですから」
「じゃあ、職人さんたちにも伝えて! ううん、わたくしが自分で手紙を書くわ!」
シグリッドは、自分のことのように嬉しかった。故郷の職人たちの腕が、遠い国でこんなに喜んでもらえている。
それからというもの、ファリダは毎日、胸元の銀のジャスミンを揺らして歩いた。かき氷の席でも、廊下でも、庭の散歩でも、誰かが首飾りに目を留めるたびに、うっとりと自慢を始める。
「ほら、見て。この花びら、一枚ずつ違うのよ」
「ずるいわ、ファリダ。わたくしにも、北の職人さんを紹介してちょうだい」
「わたくしも! 蜂蜜匙の柄に、花紋を彫ってほしいわ」
ライラとサフィヤまで身を乗り出してきて、シグリッドは、そのたびに手紙の用意をすることになった。北の国の手仕事が、南の国の人たちの暮らしの中へ、ひとつずつ入り込んでいく。それが不思議で、くすぐったくて、少し誇らしかった。
そんなある日の夕暮れ、ファリダがシグリッドを庭に誘った。
「今夜は風が涼しいから、中庭のランプに火を入れるの。シグリッドにも、見せてあげたくて」
日が落ちかけた中庭で、侍女たちが、梢や軒先に吊るしたランプへ、次々と火を灯していく。南の国のランプは、青や緑、琥珀色の色ガラスでできていた。火が入ると、石畳にも噴水の水面にも、色とりどりの光がこぼれて、ゆらゆらと揺れる。
「……わあ」
北の国の夜は、雪明かりと、橙色の灯火だけの、静かな世界だ。こんなにたくさんの色が夜に溶けているなんて、知らなかった。
「でしょう? 夏の夜のお楽しみなの」
ファリダの胸元の銀の花にも、青いランプの光が落ちて、花びらが水色に染まっていた。
「きれい……」
シグリッドは、いつまでも見上げていた。「どうしたの?」と聞かれて、「ずっと見ていたくて」としか答えられなかった。胸の奥で、何かがことりと動いた気がした。
翌日の午後のこと。
いつものように、シグリッドは侍女たちとかき氷を作っていた。陶器の素朴な器に、氷の山をふわりと盛る。窓辺に置いたひとつに、色ガラスの飾り窓を通った光が落ちて、白い氷が、うっすらと青と緑に染まった。
「……あ」
手が、止まった。
「姫様?」
ナジュマが首をかしげる。
「いいえ、なんでもありません。ちょっと、思いついたことがあって」
その夜、シグリッドは机に向かい、職人たちへのお願いを、丁寧に丁寧に書いた。ナジュマにこっそり頼んで、色ガラスの小さな欠片もいくつか分けてもらい、手紙と一緒に包んで、いつもの便に託す。
「姫様、何をお願いしたのですか?」
「内緒です。届いてからの、お楽しみ」
ユスラが「気になります!」と身をよじっていたが、シグリッドはにこにこと笑って、封蝋を押した。
* * *
いつのまにか、シグリッドの部屋は様変わりしていた。
窓際には、色とりどりのクッションが並んでいる。座りやすいようにと、皆があちこちから持ち込んだものだ。テーブルは三つに増え、壁にはユスラの書いたメニュー札が、ずらりと掛かっている。『メープル』『練乳』『マンゴー練乳』『ざくろの蜜』『ピスタチオと薔薇』『ライチ』。扉の脇には、ナジュマが作った順番待ちの木札まで置いてあった。
午後三時を回ると、決まって部屋の前に行列ができる。
「姫様、本日のお客様は、十二名です」
「十二名! ナジュマ、器は足りますか?」
「ファリダ様が、追加で十個、貸してくださいました」
シグリッドは、せっせと氷を降らせた。ふわり、ふわり。氷の山の高さも、今では目をつぶっていても揃えられる。
ライラはマンゴー練乳、サフィヤは蜂蜜と薔薇、ファリダは必ずメープルだけ。ラシードは毎日いちばん大きいのを頼んで、毎日頭を押さえている。ザイドは「おれはいい」と言いながら、最後に必ず注文する。タミラは、全種類。
ふと、自分の口から鼻歌がこぼれていることに気づいて、シグリッドは手を止めた。
(……あら。わたくし、今、歌っていたわ)
初日のことを思い出す。馬車の中で、挨拶を何度も何度も練習していた自分。失敗はできない、皆様に好かれなければと、肩に力を入れていた自分。
あの子は、どこへ行ったのだろう。
目の前では、ライラがマンゴーで口の周りを黄色くして、ラシードと言い争っている。サフィヤがのんびりと、二人の間に蜂蜜の壺を置く。ファリダは、胸元の銀のジャスミンを別の妃に自慢している。
「ぼうっとしているわね、シグリッド」
顔を上げると、ジャミーラが立っていた。いつから、いたのだろう。
「ジャミーラ様」
「楽しい?」
聞かれて、シグリッドは一瞬、答えに詰まった。
「わたくしは人質で、本当は、皆様のお役に立たなくてはいけない身です。ですから、ここでかき氷を……」
「ええ。人質ね。それは変わらないわ」
ジャミーラは、いたずらっぽく笑った。
「でもね、人質だろうとなんだろうと、ここにいるあいだは、わたくしたちの妹なの。……それとも、やっぱり『クマちゃん』のほうがいい?」
「それは、やめてください!」
真っ赤になって叫んだシグリッドの頭を、ジャミーラが笑いながら、ぐしゃぐしゃと撫でた。周りの皆も笑っている。
その笑い声の中で、シグリッドは気づいてしまった。
自分はいつのまにか、ここが好きになっていたのだ。
* * *
それから、数か月後。
南の国は、相変わらず暑かった。シグリッドはもう、毛皮は着ていない。皆に選んでもらった薄手の衣が、今のお気に入りだ。
その日の午後、後宮の門に、北の国から大きな木箱が届いた。受け取りに行ったタミラが、箱を抱えて駆け込んでくる。
「姫様! 北の国から、姫様宛てのお荷物です!」
シグリッドの心臓が、どきんと跳ねた。
(来たわ。ちゃんと、思い描いたとおりにできているかしら)
「なになに? シグリッド、何を頼んだの?」
「それは、開けてのお楽しみです」
ファリダを先頭に、部屋にいた皆が、わらわらと集まってきた。ナジュマが箱を開け、ユスラとタミラが、わらの中から包みをそっと取り出す。テーブルの上で包みがほどかれていくあいだ、シグリッドは息をするのも忘れていた。
現れたのは、脚のついた、大きなガラスの器だった。
澄んだガラスの鉢は、水を湛えたように透きとおっている。その縁と脚の付け根には、銀の透かし彫りの帯が、ぐるりと巡らされていた。雪の結晶と椰子の葉が、絡み合うように彫られた、繊細な細工だ。そして、その透かしの穴のひとつひとつに、青、翡翠色、琥珀色の小さな色ガラスが、宝石のようにはめ込まれていた。
窓からの光が差し込むと、鉢の中を、色とりどりの光が通り抜けた。テーブルの上に、雪の結晶と椰子の葉の影が、青や緑や琥珀の色をまとって、ゆらゆらと揺れる。
「……きれい」
誰かが、息を呑んだ。
「透かし彫りと色ガラスを、こんなふうに組み合わせるなんて……。シグリッド、あなたが考えたの?」
「はい。ファリダ様の首飾りと、あの夜のランプを見て、思いついたのです。職人たちには、無理を言ってしまいました」
「わたくしの花紋が、きっかけ……」
ファリダが、胸元の銀のジャスミンを握りしめて、涙ぐんでいる。北の国の職人の腕と、南の国の色ガラスが出会って、思い描いた以上のものになっていた。
箱の底には、ビョルンの手紙が入っていた。『頼まれたものは、できた。ガラスの鉢は、国いちばんの職人に吹かせた。お前が送ってくれた色ガラスは、ひとつ残らず使った。工房の皆の自信作だ。皆で使ってくれ』。隅には、ハーラルの署名もある。
「さっそく使いましょう!」
ライラが手を叩いた。
「そうね。最初の一杯は、シグリッドが」
ジャミーラに促されて、シグリッドは器の前に立った。
指先をかざし、氷をふわり、ふわりと降らせる。澄んだガラスの中に、白い雪の山がゆっくりと育っていく。その上に、マンゴーと、ざくろの赤い粒と、ライチをのせた。たっぷりの練乳に、メープルをひとさじ。
窓からの光がガラスを抜けて、氷をほんのりと青や緑に染めた。
「できました」
器が、テーブルの中央に置かれる。
ジャミーラも、ザイドも、ラシードも、ライラも、サフィヤも、ファリダも、ナジュマも、ユスラも、タミラも、器を囲んで、一斉にスプーンを手に取った。
「いただきます!」
ひと口、ふた口。
「おいしい」
「やっぱり、これよね」
「ラシード、マンゴーを独り占めしない!」
「してねえよ!」
「ざくろ、ひとつもらうぞ」
「あっ、兄上、それはおれの!」
にぎやかな声が、部屋いっぱいに響く。サフィヤはのんびりと蜂蜜の壺を回し、ファリダは、器の縁の透かし彫りを、うっとりと指でなぞっている。タミラは、いちばん大きなひと口を、幸せそうに頬張っていた。
シグリッドは、スプーンを持ったまま、その光景をゆっくりと見渡した。
故郷の職人の手仕事と、南の国の色ガラス。その器を囲んで、たくさんの人が笑っている。透かし彫りの影が、皆の頬や手や笑顔の上を、色とりどりにゆらゆらと渡っていった。
今も、人質であることに変わりはない。それは、これからも変わらないのだろう。いつかまた、北の国の空を恋しく思う日も、来るかもしれない。
けれど今、シグリッドの目の前では、二つの国が、ひとつの器の上で仲良く並んでいる。
(ここが、わたくしの居場所なのだわ)
そっと微笑んで、メープルのかかった氷を口に運ぶ。
冷たくて、甘くて、少しだけ、胸があたたかい。
窓の外では、南の国の太陽が、まぶしく輝いていた。




