加護はいりません、ただあなたと恋がしたい〜輪廻を弾かれた探求者は、白銀の幻獣とまっさらな明日を選ぶ〜
1.十一度目の対面
森の霧は、十一度目になっても変わらず冷たかった。
ミレイユは外套の襟をそっと立て、白く煙る木々のあいだを歩いていく。足元の苔はしっとりと湿っていて、踏みしめるたびにふわりと柔らかく沈んだ。見上げれば、幾千の年月を重ねた古木が枝を絡めて空を覆っている。その隙間からこぼれる光は淡く、朝なのか夕なのかも判然としない。
小柄な体に、濃い栗色の髪。無造作に束ねただけの髪は、霧を吸って少し重たげに揺れている。指先にはいつものようにインクと土の汚れがあって、それを見るたびに、彼女は小さく笑ってしまう。
どれだけ姿が変わっても、こういうところだけは変わらない。
最初にこの森へ来たときは、入口でさえたどり着けなかった。二度目は、同じ倒木の前を三周して日が暮れた。三度目で、霧の切れ間に石の柱を見つけたとき、胸がどきりと跳ねた。あの感覚は、今でもよく覚えている。
(覚えているのは、私じゃなくて、魂のほうだけど)
そんな考えが浮かんで、ミレイユは冷えた指先をこすり合わせた。今の体は、あのときの体ではない。借り物の手足で、借り物の時間を歩いている。それももう、慣れてしまった。
ふいに、霧がほどけた。
目の前に開けたのは、天井の抜けた石造りの神殿だった。苔むした柱が静かに並び、崩れかけた石畳の隙間から、小さな白い花が顔をのぞかせている。見上げた空は淡い銀色で、そこから降りてくる光が神殿の中央だけをやさしく照らしていた。
その光の中に、彼はいた。
月光をそのまま織ったような、白銀の毛並みの大きな狼。ゆったりと伏せた体は神殿の石の一部のように静かで、それでいて、確かな存在感があった。淡い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
ミレイユは足を止め、息をひとつ整えた。
これまでなら、ここで背を向けられていた。一度目も二度目も、彼の視線は彼女を素通りした。四度目でようやく目が合い、五度目、六度目にかけて、遠くから頭を下げることだけは許された。それから先は、何度繰り返したか数えるのをやめている。
それでも、毎回同じ言葉を口にする。
「こんにちは、シルヴァ」
勝手につけた名前だった。彼が受け入れたかどうかも分からない。それでも呼び続けてきた。名前がなければ、この長い片思いに始まりも続きもない気がしたから。
狼は、動かなかった。
ただ、片方の耳がほんのわずかに揺れた。
ミレイユは、自分の鼓動が大きくなるのを感じた。
それから、ゆっくりと。本当にゆっくりと、大きな頭が静かに下がった。
「……え」
声が、間の抜けた形でこぼれた。
「いま、挨拶、返してくれた?」
答えはない。けれど、金色の瞳は逸れなかった。ミレイユは思わず口元を押さえ、笑ってしまいそうなのをこらえて、こらえきれずにへにゃりと表情が崩れた。
(十回。これまで十回通ってきて、十一度目の今回でやっと、だ)
千年分の疲れが、少しだけ軽くなった気がした。大げさな言い方だと自分でも思う。でも、ずっと拒まれ続けてきた者にとって、これは小さな奇跡だった。
「ありがとう。それだけで、十分すぎるくらい」
そう言って、ミレイユはゆっくりと神殿の中へ踏み出した。
足元の石畳に、古い文様が刻まれているのが目に入る。波のような線と、円と、見知らぬ文字。思わず膝をついて、首を少し傾け、指先でその線をなぞった。何が書いてあるのか、誰が刻んだのか。考えるより先に、手が動いている。
(これだけは無理ね)
止められない衝動。自嘲から小さな笑みがこぼれ出す。
気づくと、すぐそばで狼が静かにこちらを見ていた。
彼女ではなく、彼女の指先を。首を傾ける、その魂に刻まれた仕草を。
金色の瞳が、不思議なものを見つけたようにわずかに細められた。
2.同じ魂に気づく
狼は、しばらくのあいだ、ミレイユの指先から目を離さなかった。
風もないのに、神殿の白い花が小さく揺れる。月光の粒が石畳の上をゆっくり滑っていって、やがて狼の輪郭がふわりとほどけた。毛並みの銀が淡い霧になり、霧がひとの形に寄り集まっていく。ミレイユは膝をついたまま、それを息を止めて見ていた。人の姿を見るのは、これが初めてだった。
現れたのは、背の高い男だった。二十代の後半くらいに見える。腰まで届く白銀の長い髪が月の光をそのまま纏っているようで、動くたびにさらさらと静かな音を立てた。顔立ちは整っているのに、どこか表情の置き場所を知らない人の顔をしている。切れ長の目は金色で、光の加減で瞳孔が細い糸のように縦に狭まった。
足音が、しなかった。
男は石畳の上を、まるで水の上を歩くように近づいてくる。ミレイユの前で立ち止まり、そっと膝を折った。その仕草は人間の動きを真似ているのだと、見ていてすぐに分かった。
丁寧すぎて、ところどころが少しずつずれている。
「……お前は」
低く、よく通る声だった。使い慣れていない楽器を、おそるおそる鳴らすような話し方だった。
「前に来た人間と、同じ匂いがする」
ミレイユは、瞬きをした。
「同じ、匂い?」
「姿は違う。髪の色も、声も、背の高さも」男は一語ずつ、確かめるように言った。「けれど、魂は同じだ」
胸の奥で、何かがことりと音を立てた。
十回。
これまで十回の人生。
正確には、人生と表現していいものか分からない。それでも、体が変わり、名前が変わるたびに、必ずここに戻ってきた。シルヴァに会うために。
そして拒まれても、見向きもされなくても、通い続けてきた。
彼にとってはきっと、毎回「知らない人間」が来ているのだと、そう思い込んでいた。いや、そう思おうとしていたのかもしれない。
期待して、また無視されるのが怖かったから。
「気づいて、いたの?」
声が、少しだけ震えた。
「最初は、同じ人間が来ているのだと思っていた」
そう言って、男は静かに首を振った。
「魂が同じだったから。何度も来る、熱心な人間だと」
「それって、つまり」
「だが、あるとき、見た目が変わっていくことに気づいた。年老いた人間が来なくなり、若い人間が来た。その次は、別の人間が来た。同じ魂なのに」
男は少し間を置き、続けた。
「不思議だった」
淡々とした口調だった。感情を乗せることに慣れていない声は、けれど、不思議と冷たくはない。
ミレイユは、気づけば小さく笑っていた。
笑うつもりはなかったのに、頬が勝手にほどけてしまった。
千年のあいだ、誰にも見つけてもらえなかった。魂だけで漂っているあいだは誰にも見えなかったし、肉体を得てからも、すべてを一人で背負ってきた。
それなのに、この人は、姿が変わっても自分を見つけてくれていた。
「ありがとう」
「なぜ、礼を言う」
「見つけてもらえるのって、こんなに嬉しいんだなって、思って」
男は、わずかに眉を寄せた。理解できないものを前にした、獣のような目だった。それから、少し遅れて口の端をほんの少し持ち上げた。
笑おうとしたのだろう。けれど、その笑みは、話の流れとは噛み合わない位置に落ちた。
ミレイユは、思わず吹き出しそうになって、慌てて唇を噛んだ。
(笑うの、下手だなあ)
そんな感想がふと浮かんで、そして、それが妙に愛おしく思えて、自分で驚いた。
「あなたのこと、シルヴァって呼んでもいい? 前から、勝手に呼んでたんだけど」
「……シルヴァ」
男は、その名を口の中でゆっくり転がした。まるで、拾い上げた石を手のひらで温めるみたいに。
「構わない」
それだけ言って、彼はほんの少しだけ視線を逸らした。
3.「知りたい」以外の感情
それから、ミレイユは森の外れに小さな小屋を建てた。
丸太を組んで、屋根に杉の皮を敷いただけの簡素な小屋だ。壁には拾ってきた植物の標本を貼り、棚にはインクと羊皮紙と、持ち込んだ本を積み上げた。窓の外にはいつも霧が漂っている。朝の光が差すと、霧の一粒一粒が金色に光った。
昼間は調べものに没頭して、夕方になるとふらりと神殿へ向かう。それが日課になった。
シルヴァは、たいてい月光の差す場所にいた。狼の姿で伏せていることもあれば、人の姿で石の柱にもたれていることもあった。ミレイユが来ると彼は顔を上げて、少し遅れて「来たか」と言う。それだけの挨拶なのに、そのたびにミレイユの胸のあたりがじんわりと温かくなった。
「ねえ、聞いてくれる? 今日ね、小屋の裏で変わった苔を見つけたの」
「苔」
「うん。夜になるとほんのり光るの。たぶん、月の光を溜めてるんだと思う。で、その仕組みを調べたくて、朝から拡大鏡をのぞいてたんだけど」
早口で、身振り手振りを交えて、思いつくままに話す。彼女は昔からそうだった。知りたいことが頭の中から溢れ出してしまう。千年のあいだ、そうした話を聞いてくれる相手はいなかった。いたとしても、すぐに退屈そうな顔をされた。
シルヴァは、黙って聞いていた。
相槌は少ない。ときどき金色の瞳がゆっくり瞬くだけだ。それなのに、彼は一度も話の途中で目を逸らさなかった。
「……面白かった?」
話し終えてから、ミレイユはふと不安になって尋ねた。
「苔の、話が?」
「うん」
「よく分からなかった」
正直すぎる返答に、ミレイユは思わず肩を落とした。けれど、シルヴァは続けて静かに言った。
「だが、お前が話している顔は、見ていて悪くない」
「……え」
「楽しそうだ」
言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
悪くない。楽しそう。ただそれだけの、飾り気のない言葉。それなのに頬がじわじわと熱くなってきた。ミレイユは慌てて顔を背けて、足元の石ころを蹴った。
(なに、これ)
知識を得たときの高揚とは、まるで違う感覚だった。もっと知りたい、とは少し違う。もっとここにいたい。もっと、この人の声を聞いていたい。そんな気持ちが胸の奥から静かにせり上がってくる。
千年のあいだ、一度も感じたことのない感情だった。
(知りたいことなら、いくらでもあったのに)
自分の知らない自分がそこにいるような気がして、ミレイユは戸惑った。好奇心の延長のはずなのに、探求とは違う場所で心臓がとくとくと鳴っている。
「どうした」
「な、何でもない!」
慌てて首を振ると、シルヴァは小さく首を傾げた。その仕草が自分の癖とそっくりで、ミレイユはますます落ち着かなくなった。
神殿の天井から降りてくる月光は、今夜もやさしい。白い花が揺れて、石畳に淡い影を落としている。
その光の中で、二人の影はほんの少しだけ近かった。
4.老いと、弾かれた魂
その夜、シルヴァは珍しく自分から問いを投げてきた。
季節が一つ進んで、森の空気がきりりと冷たくなった頃だった。神殿の石畳には霜が薄く降りて、月光を受けた白い花が氷細工のように縁を光らせている。ミレイユは持ち込んだ毛布を肩にかけ、柱の根元に腰を下ろして、湯気の立つ薬草茶をすすっていた。向かいには人の姿のシルヴァが、背筋を伸ばして座っている。彼の吐く息は、不思議なことに少しも白くならなかった。
「ひとつ、聞いてもいいか」
「なあに? 珍しいね、あなたから聞いてくるなんて」
「お前は、なぜ何度も来た」
ミレイユは、カップを両手で包んだままゆっくり瞬きをした。
「姿を変えて、名を変えて、何度もこの森へ来た。普通の人間はそんなことはしない。生きて、死ねば、それで終わるものだと聞いている」
金色の瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。責めるでもなく、疑うでもなく、ただ純粋に分からないものを分かろうとする目だった。この人は本当に知らないのだと思う。千年のあいだ、自分がどんな場所を彷徨っていたのかを。
(話してもいいのかな)
ミレイユは、茶の水面に映る月を見つめた。
誰かに話したことは一度もない。話す相手がいなかった。話したところで信じてもらえるはずもなかった。それでも、この神殿の静けさと、この人の揺らがない眼差しが、ふと口を軽くさせた。
「長い話になるけど、いい?」
「時間はある」
「そっか。あなたは、そうだよね」
ミレイユは小さく笑って、毛布の端をたぐり寄せた。
「昔ね、私にも普通に人間だった頃があったの。今の私じゃなくて、もうずっと前の話。名前も顔も、もうあんまり覚えてないけど」
語り始めると、遠い景色が湯気のように立ちのぼってきた。
知りたいことが多すぎる子どもだった。空はなぜ青いのか。星はなぜ動くのか。草の根はどうして水のある方へ伸びるのか。大人に尋ねても誰も答えられなかった。
分からないままには、できなかった。
答えを知らないことが悔しくて、自分で確かめるために本を読み、土を掘り、星を数えた。
そうして気づけば、人生のほとんどを探求に費やしていた。
「増える疑問に時間が足りなかったの。人間の一生って短いでしょう? 一つ分かると、その先に十個、知らないことが出てくる。終わりなんて全然見えなかった」
「それで」
「心の底から願ったの。時間が足りない、もっと知りたいって。声に出して、何度も。そしたらね」
ミレイユは、少し言葉を探した。
「あるとき、誰かが応えてくれた。誰かっていうか、人間じゃない何か。姿はよく覚えてない。ただ、すごく強い気配がして、その気配が私の魂に何かを刻んだの」
「加護、だな」
「うん。あなたたちは、そう呼ぶんだよね」
茶を一口飲む。薬草の苦みが舌の奥にほんのり残った。
「最初は嬉しかった。これで満足するまで探求できるって信じてた。実際、疲れも飢えもあんまり気にならなくなって、夢中で調べ続けたの。一日が、あっという間に過ぎていった」
「それは、祝福ではないのか」
「そう思ってた。私も、最初のうちは」
風が吹いて、白い花が一斉に揺れた。
「ある日、鏡を見たら、おばあさんになってたの」
シルヴァの瞳孔が、わずかに揺れた。
「おかしいな、って思った。だって、加護をもらったのに。満足するまで探求できるはずなのに。まだ全然、満足してなかったのに。でもね、まだ続けられると思ったから、また没頭したの。次に気づいたときは、もう、起き上がれなくなってた」
言いながら、ミレイユは自分の声がひどく静かなことに気づいた。千年のあいだ、何度も思い返してきた記憶だった。だからもう涙は出ない。ただ、胸の奥に冷たい石が一つ沈んでいる。
「時間が全然足りない、って思いながら死んだの。何も終わらせられないまま」
「……死」
シルヴァは、その言葉を遠い国の言葉のように繰り返した。
「それで終わりのはずだった。普通はね、魂は輪廻の輪に入って、浄化されて、授けてもらった加護も消えて、まっさらになってまた生まれ変わるんだって。でも、私はそこから弾かれちゃったの」
「弾かれた?」
「魂に刻まれたのが、そういう加護だったみたい。だから、魂は浄化されず、行き場もなくなったの」
ミレイユはカップを石畳に置いて、両手を膝の上に重ねた。
「しばらくは世界を漂ってた。体がないからどこにでも行けるの。山も海も、誰かの家の屋根の上も、全部見て回れた。それは、ちょっと楽しかったな。束縛のない探求、っていうか」
でもね、と小さく転がすように呟く。
複雑な思いを秘めながら、話を続けた。
「実際に試せないの。確かめたくても、触れられない。知識が増えるだけで何もできない。それがすごく、もどかしくて」
言葉が少し早くなった。自分でも分かっていたけれど止められなかった。
「そんなとき、命の消えた、お母さんのお腹の中の赤ちゃんを見つけたの。生まれる前に魂だけがふっと抜けて空っぽになっていた体。そこに引き寄せられて、気づいたら入ってた。それで、そのまま生まれたの」
「他人の、胎に」
「うん。ひどい話でしょう? でも、あのときはそうするしかなかった。体があれば、また探求できるから」
ミレイユは肩をすくめて、困ったように笑ってみせた。
「それを何度も繰り返してきた。生まれて、探求して、死んで、漂って、また別の体に入って。最初の数回は嬉しかったんだ。終わらなくていいや、って思ってた。でも、だんだん終わりがいつ来るのか分からなくなってきて」
「いつから」
「千年くらい、かな」
神殿に沈黙が落ちた。
月光だけが石畳の上を静かに移動していく。シルヴァは何も言わなかった。ただ膝の上で組んだ指先が、ほんのわずかに強張っているのが見えた。ミレイユはそれに気づいて、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
(引かれたかな)
千年という数字は、人間にとっても重すぎる。幻獣にとってはどう響くのだろう。
異なる理を持つ存在。理解の範疇を超えた存在。
分からなかった。それが少し怖かった。
「それで、俺のところに来た」
やがて、シルヴァが低く言った。
「うん。加護はより強い存在の加護で上書きできるって、魂で漂ってるときに知ったの。それなら、あなたみたいな強い幻獣ならって思って。それが、この森に来た理由」
「……なるほど」
シルヴァはゆっくりと瞼を閉じた。
しばらくして彼は目を開き、ミレイユの肩のあたりをじっと見つめた。
「お前の魂には、別の匂いが染みついている」
「え?」
「最初に会ったときから気になっていた。他の者の匂いだ。ひどく古くて、濃い」
眉がほんのわずかに寄った。それは不機嫌というより、獣が嫌な匂いに鼻を鳴らす顔に近かった。
「気に入らない」
短い一言だった。それなのに、ミレイユの心臓はどくんと大きく跳ねた。
(それって、どういう意味で)
聞き返そうとして口を開いたけれど、言葉が出てこなかった。シルヴァはそのまま黙ってしまった。自分が何を言ったのかを、彼自身がよく分かっていないような顔をしていた。
冬の気配を含んだ風が、神殿をそっと通り抜けていく。
ミレイユは冷めかけた茶を両手で包み直した。さっきまであんなに重く感じていた過去の話が、少しだけ軽くなっているのが不思議だった。
5.加護の食い違い
初雪は、予告もなく降ってきた。
ミレイユが目を覚ましたとき、小屋の窓は真っ白に曇っていた。袖で拭ってのぞくと、霧に混じって細かな雪が音もなく舞っている。木々の枝は薄い白に縁取られ、地面の落ち葉はすっかり隠れてしまっていた。
あたりに響くものは何もなく、世界がひとまわり小さくなったような静けさだった。
「うわあ、積もってる」
厚手の外套を羽織り、手袋を探して、ついでに温めた薬草茶を水筒に詰める。扉を開けると、冷たい空気が頬をぴしりと打った。思わず首をすくめて、それから足を止めた。
小屋の前に、シルヴァが立っていた。
白銀の髪に、雪の粒がいくつも絡んでいる。けれど、肩にも髪にもひとつも溶けた跡がなかった。体温が低いせいだろう。長身の彼は降りしきる雪の中でも、輪郭だけがくっきりと浮かんで見えた。
「え、シルヴァ? どうしたの、こんなところまで」
神殿から出てくること自体が珍しい。彼が森の外れまで来たのは、これが初めてだった。
「冷えると、お前は動かなくなると聞いた」
「誰に?」
「木々が、そう言っていた」
真顔でそう答えるので、ミレイユは思わず吹き出した。木々が自分のことを噂している。想像するとおかしくてくすぐったくて、胸のあたりがふわりと温かくなった。
「心配してくれたの?」
「……確かめに来ただけだ」
シルヴァはわずかに視線を逸らした。その耳がほんの少し赤い気がしたのは、雪のせいだろうか。
ミレイユは水筒を差し出して、並んで小屋の軒下に腰を下ろした。雪は二人の足元に静かに降り積もっていく。しばらくのあいだ、どちらも何も言わなかった。茶を回し飲みして、白い息だけがミレイユの口元から立ちのぼる。シルヴァの口元からは、やっぱり何も出なかった。
「ねえ」
ミレイユが、ぽつりと口を開いた。
「この前の話の続きなんだけど。あなたが言ってた、気に入らない匂いって」
「ああ」
「それ、私が最初にもらった加護の匂いだよね。たぶん」
「そうだろう」
「その子……っていうか、その誰かは、どうして私にあんなことをしたんだろう」
問いというより、独り言に近かった。千年のあいだ、何度も胸の中で転がしてきた疑問だった。答えが返ってくるとは思っていなかった。
「気に入ったからだろう」
シルヴァは、あっさり言った。
「気に入った?」
「お前のことを。尽きない探求の熱を。それを、見ていて心地よく思ったのだろう」
ミレイユの手が、水筒の上で止まった。
「だから加護を与えた。気に入った者に自分の印を付けるために」
「印」
「そうだ。それに、お前が望んでいたのだろう。もっと知りたいと。時間が足りないと」
「……望んでた」
「だから、叶えてやることにしたのだ。望みを叶えれば相手が喜ぶ。喜ぶ姿を見れば、こちらも満たされる」
淡々とした声だった。そこに悪意はひとかけらもなかった。彼は、ただ当たり前のことを話しているだけだった。
だからこそ、ミレイユの喉の奥がぎゅっと締まった。
「満たされる、って」
声が、少しだけかすれた。
「千年だよ。千年、輪廻の輪にも入れないで、何度も何度も生まれ直して、そのたびに一人ぼっちで」
「…………」
「それが、気に入ったから? 喜ぶと思ったから? それって」
言いかけて、唇を噛んだ。
それは呪いだ。そう言い切ってしまうのは簡単だった。けれど、目の前の人は、加護を与える側の存在だった。そのことを、今さらのように意識した。
彼が悪いわけではないと頭では分かっている。分かっているのに、胸の奥で渦を巻いたものが言葉になってこぼれ落ちそうだった。
「……あなたたちにとっての『贈り物』は、人間にとっての『呪い』にもなるんだよ」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも小さかった。
シルヴァは、ゆっくりとミレイユを見た。
金色の瞳が雪明かりを受けて淡く光っている。縦に細くなった瞳孔が困惑するみたいに、かすかに揺れた。
「呪い、とは」
「望んだことと、幸せになることは違うってこと」
「望みを叶えれば、幸せになるのではないのか」
「ならないこともあるの。望んだせいで苦しくなることだってある」
「……理解できない」
正直な返事だった。彼は取り繕うことをしない。分からないものは分からないと言う。ミレイユはその素直さに、少しだけ救われた気がした。同時に、どうしようもなく遠い人だとも思った。
(そうだよね。理が、違うんだもん)
人と幻獣は見ている景色が違う。同じ言葉を使っていても、同じ意味では受け取れない。それが、千年かけてようやく見つけた「より強い存在」の、本当の姿だった。
ミレイユは膝を抱えて、雪の降る空を見上げた。
「ごめん。怒ってるわけじゃないの。ただ、ちょっと悲しくなっちゃって」
「悲しい」
「うん。あなたと私は同じものを見てるのに、違う意味で受け取ってるんだなって」
しばらく返事はなかった。
雪が軒先でさらさらと音を立てた。やがて、シルヴァが低く口を開いた。
「お前の言うことは分からない」
「うん」
「だが」
彼は少し言葉を探すように間を置いた。
「お前が苦しかったことは、分かった」
ミレイユは、はっと顔を上げた。
シルヴァはまっすぐ前を見ていた。横顔は相変わらず感情が読めず、けれど膝の上で握られた手がほんの少しだけ強張っていた。理解できないものを理解しようとしている人の手だった。
(……この人は)
胸の奥がずきんと痛んだ。その痛みは悲しさとも嬉しさとも違った。名前を付けられない感情が、静かに、静かに胸の中に降り積もっていく。
まるで、この雪のように。
「ありがとう」
そう言うと、シルヴァは不思議そうにこちらを向いた。
「何に対する礼だ」
「分かろうとしてくれたこと」
「分かっていない」
「うん。それでも」
ミレイユが笑うと、シルヴァはまたほんの少し遅れて口の端を持ち上げた。笑うタイミングはやっぱり少しずれている。けれど、その不器用な笑みが雪の白さの中で、なぜかひどく温かく見えた。
小屋の軒先で、二人はしばらく並んで雪を眺めていた。
加護とは何か。望みとは何か。祝福と呪いの境目はどこにあるのか。答えはまだ出ない。けれどミレイユは、初めてそれを一人で考えなくてもいいのかもしれないと、そう思った。
6.願いの行き先
雪は、その冬のあいだ何度も降っては溶けた。
小屋の暖炉には毎晩火が入り、棚の本は少しずつ増え、窓辺には干した薬草が束になって揺れていた。ミレイユは相変わらず調べものに没頭していたし、夕方になれば神殿へ通った。表向きは何も変わらない日々だった。
ただ、ミレイユ自身だけが変わってしまっていた。
(上書きしてもらえたら、人間として輪廻に戻れる)
それが、千年のあいだ、たった一つの願いだった。まっさらになって、何も知らない赤ん坊として生まれて、ごく普通の人間として老いて死ぬ。それだけでよかった。それが叶うなら他には何もいらないと、本気で思っていた。
そのはずなのに。
(輪廻に戻ったら、私は、全部忘れるんだ)
雪の夜、本のページをめくる手がふと止まった。浄化を受ければ魂は真っ白になる。記憶も、癖以外の何もかもすべて消える。千年の疲れも、探求の日々も。それから、この森で過ごした時間も。
神殿の月明かりも、苔の話を聞いてくれた金色の瞳も、不器用な笑みも。
(忘れたくない、なんて)
ミレイユはページの上に額を押し当てた。インクの匂いがやけに遠かった。ずっと願ってきたことのはずなのに、いざ手が届きそうになった途端、足がすくんでいる。そんな自分が情けなくて、可笑しかった。
神殿へ行く足取りが、少しずつ重くなっていったのはその頃からだった。
ある夕暮れ、柱の根元に座って、ミレイユはぽつりと言った。
「シルヴァ。私ね、上書きしてほしいって、ずっと思ってたの」
「知っている」
「でも、最近、分からなくなってきた」
白い花がそよ風に揺れた。シルヴァはいつもの場所で静かにこちらを見ていた。
「お前の望みは、何だ」
「それが、分かんないんだよね」
笑ってみせたけれど、うまく笑えなかった。
「人間として、普通に生まれ変わりたい。これは本当。でも、あなたと、もっと一緒にいたい。これも本当。どっちも、嘘じゃないの」
「……二つ、あるのか」
「うん。しかも、どっちも叶えようとすると、片方が壊れちゃう」
シルヴァは少しのあいだ黙っていた。瞳孔がゆっくり細くなって、また広がる。言葉を探しているときの癖だと、ミレイユは最近知った。
「では、決まるまで待つ」
「え?」
「望みが定まらぬうちは、与えない。お前が答えを出したとき、俺は叶えたいと思うだろう」
当たり前のことのように彼は言った。
「急ぐ必要はない」
(急ぐ必要は、ない)
千年、急いで生きてきた。時間が足りない、足りないと、ずっと追われてきた。そんな自分に、この人はゆっくり悩めと言っている。
「……ありがとう」
声が震えた。
それからミレイユは、神殿へ通う回数を少しずつ減らしていった。
幕間 シルヴァ(一)
風が、梢を渡った。
神殿の天井から、薄い月が見える。白い花は、今夜も同じ場所で咲いている。石畳の霜は昼のあいだに溶けて、また夜に凍った。もう、何度目の繰り返しか。
俺は、月の下で伏せていた。
待つことは、苦ではない。
木々のざわめきが耳のあたりに触れる。言葉ではない。ただ、気配が寄り集まってひとつの問いの形をとる。
――まだ、来ないのか。
来ない。
――いつ、来る。
分からない。
――待てるのか。
待てる。
俺はそう答えた。いつものようにそう答えたつもりだった。
木々がざわりと揺れた。笑っているのだと気づくまでに、少しかかった。
――前とは、違うな。
何が違うのか。
――お前は、以前は、月の数など数えなかった。
……数えている、のか。
気づけば、昨日の月の欠け方を覚えていた。その前の日も。霜の降りた朝の数も。あの人間が来なくなってから、何度、夜が明けたかも。
俺は、ずっと待つことに慣れていた。数百年、数千年。一人で、この神殿にいた。時間はただ流れるものだった。数える必要などなかった。
だのに、今は数えている。
(なぜ)
答えは出ない。出ないまま、小屋の方角へ耳が向いている。煙の匂いがする。インクの匂いがする。あの、少し早口な声が風に乗って届かないかと、無意識に待っている。
待つことが苦ではないのは、同じだ。
だが、前とは確かに違う。
俺は目を閉じた。
月が、少しずつ傾いていく。
7.春の入口で
春は、足音もなく訪れた。
雪解けの水が森のあちこちで細い流れをつくり、苔の緑が日に日に濃くなっていく。枝の先には小さな芽がふくらんで、朝の霧に混じって甘い匂いが漂った。ミレイユは小屋の窓辺で、ぼんやりその景色を眺めていた。
手元の羊皮紙は、真っ白なままだった。
(今日で、どれくらいになるかな)
神殿へ行かなくなってふた月近くが経つ。会いたくないわけではなかった。むしろ会いたくてたまらなかった。
会えばきっと顔に出てしまう。
迷いも、揺らぎも、気づかれてしまう。
何より、会うほどに答えが遠のいていく気がした。
(一緒にいたい。それは、本当)
指先で机の木目をなぞる。
(でも、シルヴァは幻獣だ)
何度、同じことを考えただろう。彼の理は人間とは違う。時間の流れも、感じ方も、愛し方も。もし共にいることを望んだとして、与えられるのはきっと人の理を外れた加護だ。それはまた千年を超える時間を生きるということかもしれない。
千年の孤独を、知っている。
それでも、誰かと一緒なら。
(違う)
ミレイユは首を振った。
一人ではないことと、耐えられることは別だ。共に生きる時間があまりに長ければ、いつか自分は自分でなくなってしまうかもしれない。そのとき、隣にいる彼は何を思うだろう。
未知だった。何もかも。
怖かった。
気づくと外套を羽織って外に出ていた。足が勝手に神殿へ向かっていた。
霧の道をいつもよりゆっくり歩く。ぬかるんだ土が靴の裏に張りついた。やがて石の柱が見えて、白い花が見えて、月光の落ちる場所にシルヴァが座っているのが見えた。
彼はゆっくり顔を上げた。
「来たか」
「……うん。ごめんね、ずっと来なくて」
「構わない」
いつもの答えだった。それが胸に痛いほど染みた。
ミレイユは彼の隣に腰を下ろした。肩と肩のあいだに拳ひとつ分の距離があった。その距離が近いのか遠いのか、自分でも分からなかった。
「ねえ、聞いてもいい?」
「ああ」
「もし私が、あなたとずっと一緒にいたいって望んだら。あなたは叶えてくれる?」
声が小さくなった。
「叶える」
即答だった。
「お前がそう望むなら。そのときはそうする」
「それってどういう形になるの? 私はどうなるの?」
「……分からない」
シルヴァはまっすぐ前を見たまま静かに言った。
「俺の理で叶えれば、お前は人の理から外れるだろう。それがお前にとって祝福になるのか、呪いになるのか、俺には分からない」
正直な言葉だった。
彼は嘘をつかない。取り繕わない。だから、ミレイユは泣きたくなった。
「そっか」
「お前をまた苦しませるかもしれない。それを、俺は嫌だと思う」
「……え」
「だから与えない。お前が迷っているうちは」
彼はゆっくりとミレイユを見た。金色の瞳が霧の淡い光を受けて静かに揺れた。
「待つ。それだけだ」
ミレイユは膝を抱えて顔を埋めた。涙は出なかった。ただ、胸の奥がひどくあたたかかった。千年ぶりに誰かに待っていてもらえている。急がなくていいと言ってもらえている。
(それなのに)
答えは、まだ出なかった。
幕間 シルヴァ(二)
人間は、来なかった。
一日、二日、三日。数えるのをやめたはずなのに数えている。
神殿の白い花がひとつ、またひとつ散っていく。代わりに新しい蕾が石の隙間から顔を出した。春だ。木々はそう教えてくれた。
――来ないな。
来ない。
――心配か。
心配、とは何だ。
――胸のあたりが落ち着かないのだろう。
俺は黙った。
確かに落ち着かなかった。胸の奥に何か冷たいものが沈んでいる。足元から少しずつ体温が奪われていくような感覚。毛並みの下にすきま風が吹き込むような心細さ。
この感情の名を、知らない。
ただ、あの小屋の方角から煙の匂いが昇っているうちは、まだ耐えられた。生きている。そこにいる。それが分かるだけで息ができた。
――もし、来なくなったら。
木々がそう言いかけてやめた。
もし、あの人間が来なくなったら。
人間は死ぬ。あの者はそう言っていた。老いて、衰えて、消えるのだと。そしてすべてを忘れて、また生まれるのだと。
俺は魂で見分けられる。何度生まれ変わっても必ず見つけられる。
だが。
(この、今の、あの者は)
一度、消えるのだ。
苔の話を早口で語るあの声が。首を傾けて石の文様を指でなぞるあの仕草が。何でも不思議そうに見つめる灰青の瞳が。
消えて、また別の何かになる。
俺は胸のあたりに爪を立てるようにして息を詰めた。
これが何なのかまだ分からない。
千年を生きてきた者でも知らないことはあるのだと、初めて知った。
夜が更けていく。
小屋の方角で扉の開く音がかすかにした。
俺は顔を上げた。
霧の向こうからぬかるみを踏む、小さな足音が近づいてくる。
8.まっさらな私で
その夜、霧は薄かった。
空には雲がなく、満ちかけた月が森の梢の上で静かに光っていた。ミレイユはぬかるんだ道をゆっくり歩いた。足の裏に湿った土の感触がある。いつもなら気にも留めないそんな感覚が、今夜はやけに鮮やかだった。
靴が土を踏む音、遠くの沢の水音、夜風に混じる若葉の匂い。
ひとつひとつが指のあいだからこぼれ落ちる砂のように愛おしかった。
(全部、忘れちゃうんだな)
歩きながら、そう思った。
思ったら胸の奥がきしんだ。けれど足は止まらなかった。迷い続けた冬と春のあいだに、少しずつ、少しずつ心の底に沈殿してきたものがあった。それが今夜、ようやく透き通って形になったのだ。
神殿の石柱が月光の中に浮かび上がる。白い花の群れが風に揺れている。その中央にシルヴァがいた。人の姿で、いつもの場所に、いつものように。
ただミレイユが現れた瞬間、彼の肩がかすかに揺れたのを彼女は見逃さなかった。
「来たか」
「うん。来たよ」
声が、思ったよりも穏やかに出た。
ミレイユはシルヴァの前まで歩いていって、少しのあいだ何も言わずに立っていた。彼もまた何も言わなかった。月光の中で、二人の影が石畳の上に並んでいる。
「ずっと来なくて、ごめんね」
「構わない」
「構うでしょ、さすがに」
小さく笑うと、シルヴァはほんの少し視線を落とした。耳のあたりがわずかに強張っているように見えた。
「……お前が来ないあいだ、数えていた」
「何を?」
「夜を」
ミレイユは息を呑んだ。この人がそんなことを自分から言うなんて。
「そっか。待たせちゃったんだね」
「待つ、と言った」
「うん。ありがとう。あなたが待っててくれたから、私、やっと答えが出せたの」
言ってから、自分の心臓が大きく鳴っているのに気づいた。ミレイユは胸の前で両手を握りしめ、深く息を吸った。
「聞いてくれる?」
「ああ」
シルヴァはまっすぐ彼女を見た。金色の瞳が月の光を静かに映している。瞳孔が細く、細く狭まった。
「私ね、探求の加護がかかってたとき、いつも時間が足りないって思ってた。人間の一生は短すぎる、もっと長ければいいのにってずっと願ってた。でも、いざ時間が無限になってみたら、全然、幸せじゃなかったの」
「…………」
「終わりがないと、大事なものがどんどん薄まっていくんだよ。どれだけ綺麗な景色を見ても、どれだけ嬉しいことがあっても、次があるって思うとありがたみが分からなくなる。千年生きて、一番分かったのはそれ」
ミレイユは、ゆっくりと笑った。
「だからね、私、終わりのある時間が欲しいの」
シルヴァの指が、ぴくりと動いた。
「人間として生まれて、泣いたり笑ったりして、老いて、ちゃんと死にたい。それが私にとっての本当の望み。永遠よりも、一回きりの有限の時間のほうが、ずっと愛おしいって思えたから」
言葉が夜の空気に静かに溶けていく。
神殿に風が吹いた。白い花びらが数枚ふわりと舞い上がった。シルヴァは何も言わなかった。ただ立ち尽くしていた。その横顔は相変わらず感情を映さなかったけれど、握りしめられた拳がかすかに震えているのをミレイユは見た。
「でも、もうひとつあるの」
「……もうひとつ」
「あなたと、離れたくないっていう望み」
声が少しだけ震えた。
「どっちも本当で、どっちも捨てられなくて、ずっと悩んでた。でもね、ふと思ったの。私が忘れても、あなたは覚えててくれるんじゃないかって」
「……俺は、魂で見分けられる」
「うん。だから」
ミレイユはシルヴァの目を、まっすぐ見つめた。
「次は、何も知らない私で、あなたに会いたい」
声が神殿の石壁に小さく反響した。
「記憶も、癖以外の何もかも全部まっさらになった私で。あなたのことを知らない私で。もう一回、最初からあなたに会って、恋をしたい。それが、私の答え」
言い切った瞬間、頬を温かいものが伝った。泣くつもりはなかったのに涙が勝手にこぼれていた。千年ぶりの涙だった。
「ごめんね。わがままで。あなたに辛い思いをさせるって分かってるのに」
シルヴァは動かなかった。
長い、長い沈黙が二人のあいだに落ちた。月光が石畳の上をゆっくりと移動していく。その光がシルヴァの足元に届いたとき、彼はようやく口を開いた。
「……お前を、手放したくない」
低く、かすれた声だった。
「そう、思った。今、初めて」
ミレイユは、はっと息を呑んだ。シルヴァの金色の瞳が揺れていた。縦に細くなった瞳孔が、ゆっくりと丸く開いていく。それは、獣が何か大切なものを失う瞬間に見せる目だった。
「失う、というのは、こういうものか」
独り言のように彼は呟いた。
「胸が、潰れるようだ」
「シルヴァ……」
「だが」
彼はゆっくりと目を閉じた。長い睫毛が月光の中で静かに影を落とす。ひとつ深く息をして、それから目を開いた。もう揺れてはいなかった。
「待つ、と言った。お前が答えを出すまで」
「…………」
「お前は、答えを出した」
シルヴァは一歩前へ出た。そしてためらいがちに冷たい手を伸ばして、ミレイユの頬の涙を指の背でそっと拭った。
その指先は驚くほど優しかった。
「分かった」
それだけの言葉だった。
短くて、飾り気がなくて、けれどどんな言葉よりも重かった。ミレイユは彼の手に自分の手を重ねて、堪えきれず声を上げて泣いた。シルヴァは何も言わず、ただそこに立って彼女の涙を受け止めていた。
夜の神殿に、白い花びらが雪のように舞っていた。
月がゆっくりと高く昇っていく。二人の影がひとつに重なって、石畳の上に長く伸びていた。
9.何も縛らないもの
加護が与えられたのは、それから三日後の夜明け前だった。
ミレイユはいつもよりずっと早く目が覚めた。小屋の窓の外はまだ群青色に沈んでいて、遠くで鳥が一羽だけ鳴いている。顔を洗って髪を丁寧に束ね直し、指先についたインクを時間をかけて落とした。落としきれなかった土の跡がほんの少し残った。
それでいいと、思った。
神殿へ向かう道は露を含んだ草の匂いがした。霧はいつもより淡く、梢のあいだから白んでいく空が見える。足を運ぶたびに胸の奥で小さな鼓動が跳ねた。怖くないと言えば嘘になる。それでも足は止まらなかった。
神殿の中央に、シルヴァは立っていた。
人の姿のまま、月の名残が溶けていく空を静かに見上げている。白銀の髪が夜明け前の薄い光を拾って淡く輝いていた。ミレイユが近づくと彼は振り返り、わずかに目を細めた。
「来たか」
「うん。来たよ」
「怖くはないか」
「ちょっと、怖い」
正直に答えると、シルヴァはほんの少し遅れて口の端を持ち上げた。笑うタイミングはやっぱり少しずれている。それなのに今朝の笑みは、不思議なほど柔らかく見えた。
「与えたい、と思った」
「うん」
「お前の望みが定まったからだ。お前が望んだから叶えたい。それだけだ」
淡白な言い方だった。彼らしい、と思った。それなのに胸の奥がじんわりと熱くなる。
「どんな加護になるの?」
「前の加護を消す。それだけだ」
「それだけ?」
「永遠も、目印も、特別な力も付けない。お前を縛るものは何も付けない」
シルヴァは一歩前へ出た。
「お前は縛られすぎた。だから、今度は何もない加護にする」
ミレイユは息を止めた。
縛られない。それは千年のあいだ焦がれてきたものだった。上書きしてもらえば輪廻に戻れる。それは知っていた。けれど、その上書きが「何も縛らない」という形をとること。それがどれほどの贈り物なのか、言葉にならなかった。
「ありがとう、シルヴァ」
「礼は、まだ早い」
彼はゆっくりと手を伸ばした。冷たい指先がミレイユの額にそっと触れる。そこから静かで澄んだ何かが流れ込んでくる。
光が、生まれた。
淡い、銀色の光だった。朝焼けの空よりもずっと静かで、ずっとやさしい。光はミレイユの体を包み込んでゆるやかに揺れた。耳の奥で、鈴のような音が澄んでかすかに鳴った。
(あっ……)
何かがほどけていく。
魂の奥にずっと貼りついていたものが薄く剥がれていく。古くて濃くて重たい、誰かの匂い。千年のあいだ決して離れなかった、あの鎖のような加護。それが光に溶けて、ほろほろと崩れていくのが分かった。
涙が頬を伝っていた。
悲しくはなかった。苦しくもなかった。ただずっと背負っていた重い荷物をようやく下ろせたような、不思議な軽さがあった。
肩が、息が、指先が羽のように軽い。
光がゆっくりと収まっていく。
気づけば朝日が神殿の天井から差し込んでいた。白い花の一つひとつが金色に輝いている。ミレイユは自分の両手を見つめた。何も変わっていない。いつものインクの染みと、土の跡と、細い指。けれどここにあるのは、紛れもなくただの人間の手だった。
「……終わった?」
「ああ」
シルヴァは静かに頷いた。そしてわずかに顔を近づけて、ミレイユの髪のあたりでゆっくりと息を吸った。
「気に入らない匂いが消えた」
低く、満足そうな声だった。
「今は、お前の匂いしかしない」
ミレイユは思わず笑った。笑ったらまた涙がこぼれた。笑いながら泣いて、泣きながら笑って、そのままシルヴァの胸に額を預けた。彼の体はひんやりとしていたけれど、不思議と冷たくは感じなかった。
それは、千年ぶりに迎える本当の朝だった。
10.人としての日々
それから、ミレイユは人として生きた。
はじめの年は何もかもが新鮮だった。朝、目が覚めてお腹が空いてパンを焼く。その当たり前のことが驚くほどおいしくて、思わず声を上げてしまった。夜になればちゃんと眠くなる。疲れて、肩が凝って、膝が痛む。そのたびにミレイユは楽しそうに笑った。
「見て、シルヴァ。指がちょっと赤くなってる。霜焼けだって!」
「……喜ぶことか?」
「喜ぶことだよ。だって生きてる証拠でしょう?」
不思議そうに首を傾げる彼に、ミレイユは霜焼けの指を差し出して得意げに見せた。シルヴァはそれを壊れ物を扱うような手つきで包み込んだ。彼の手はいつだって冷たかった。けれど、その冷たさが心地よかった。
小屋は少しずつ広がった。
窓が増え、棚が増え、薬草の束が梁からぶら下がって、あたりにはいつも草の匂いが漂っていた。シルヴァは頻繁に小屋を訪れるようになり、いつしか暖炉のそばの椅子が彼の定位置になった。ミレイユが調べものをしている横で、彼は静かに本のページをめくる。人間の仕草を真似るように。
「その本、面白い?」
「分からない。だが、お前が読んでいたから」
「それ、答えになってないよ」
笑いながら、ミレイユは彼の隣に腰を下ろした。肩と肩が少し触れる。拳ひとつ分あった距離は、いつの間にかなくなっていた。
探求は続けた。
光る苔の仕組みが分かったのは三年目の秋だった。月の光を溜めるのではなく、夜露に含まれる何かが苔の内側で反応しているのだと分かったとき、ミレイユは嬉しさのあまり真夜中の森を駆けて神殿まで走っていった。息を切らして飛び込んできた彼女をシルヴァは驚いた顔で迎え、それから静かに笑った。今度はちゃんと笑うタイミングが合っていた。
「……今の、すごくいい顔」
「そうか」
「うん。すごく、好き」
言ってしまってからミレイユは真っ赤になった。シルヴァは一瞬固まって、それからそっと視線を逸らした。耳の先がわずかに赤い。二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
季節はゆっくりと何度も巡った。
春には神殿の白い花が咲き乱れ、夏には蛍が霧の中を漂った。秋には木々が金色に染まり、冬には雪がすべてを静かに覆った。ミレイユはその一つひとつを見逃さなかった。
千年のあいだ「時間が足りない」と急いできた彼女はもういなかった。
ひとつの季節を、ひとつの朝を、ひとつの夕暮れを、ゆっくり丁寧に味わった。
髪に白いものが混じり始めたのはいつだっただろう。
目尻に小さな皺が刻まれた。指の節が少しずつごつごつしてきた。階段を上がるのが少し辛くなって、薬草を摘む腰が痛むようになった。それでもミレイユは変わらず笑っていた。
「ねえ、シルヴァ。私、おばあちゃんになってきたでしょ」
「……ああ」
「どう? がっかりした?」
「いや」
シルヴァは少し考えて静かに答えた。
「お前は、昔より綺麗になった」
「えっ」
不意打ちに、ミレイユはスプーンを落としそうになった。シルヴァは真顔のまま続けた。
「時間が、お前の中に積もっていくのが見える。それがいいと思う」
「……もう。そういうこと、さらっと言うんだから」
頬が熱くなって、ミレイユはわざとらしく咳払いをした。窓の外では夕暮れの光がゆっくりと傾いていく。それを眺めながら、彼女はふと思った。
(この人は知らなかったんだよね。老いていく姿をそばで見るってこと)
彼は変わらない。出会ったときと同じ姿のまま、同じ金の瞳でミレイユを見つめている。それなのに少しずつ、確かに何かが変わっていった。笑い方も、話し方も、手の温度さえも、ゆっくりと人間に近づいていく気がした。
それが何を意味するのか。ミレイユはあえて口にしなかった。
11.月の神殿で
最期の季節は、春だった。
小屋の窓辺で、ミレイユは揺り椅子に深く腰を沈めていた。膝には薄い毛布。机の上には読みかけの本と、半分だけ減った薬草茶。窓の外では霧の向こうで梢の若葉がやわらかく揺れている。
息が、少し浅い。
体の芯から力が抜けていくのが分かっていた。怖くはなかった。ただ不思議と静かだった。千年のあいだ何度も死を経験してきたはずなのに、こんなにも穏やかな気持ちで迎える死は初めてだった。
「シルヴァ」
呼ぶと、暖炉のそばの椅子から彼がゆっくりと立ち上がった。人の姿の彼は今日も変わらず、白銀の髪を揺らして静かにこちらを見ている。その瞳がかすかに揺れていた。
「神殿に、連れていって」
「……ああ」
短い返事のあと、彼はそっとミレイユの体を抱き上げた。軽くなった体はまるで羽のようだった。シルヴァの腕は冷たくて、けれど揺るぎなく確かだった。
小屋を出ると、空は淡い薄紅色に染まり始めていた。霧が夕日に透けて金色の粒となって舞っている。ミレイユは彼の肩に頭を預けたまま、懐かしい道を一歩一歩運ばれていった。
神殿は、変わらずそこにあった。
苔むした柱。崩れかけた石畳。白い花の群れ。天井の抜けた空には、まだ明るい夕空とぼんやりとした白い月が並んでいる。
シルヴァは月光が差し込む神殿の中央へ進み、静かに膝をついた。
そして彼の体が、ふわりと霧のようにほどけた。
現れたのは、白銀の大きな狼だった。出会った日と少しも変わらない、月光のような毛並み。淡い金色の瞳。ミレイユは柔らかな毛並みの中にそっと身を横たえた。ふかふかで、あたたかくて、少し森の匂いがした。
(あったかい)
冷たいと思っていた彼の体は、今、驚くほど温かかった。
「……ふふ」
小さく笑いがこぼれた。
「どうした」
狼の姿のまま、低い声が胸の奥に響く。
「あなた、いつの間にあったかくなったの」
「……分からない」
「そっか。いつの間にか、だね」
空がゆっくりと群青色に染まっていく。白い月が輝きを増していく。神殿の石畳に銀色の光が降り注いで、白い花が淡く光り始めた。ミレイユはその光景をぼんやりと見つめていた。
「ねえ、シルヴァ」
「ああ」
「私、幸せだったよ」
声がかすれた。それでも言葉ははっきりしていた。
「千年、いろんなことがあったけど。最後のこの時間が一番幸せだった。あなたがそばにいてくれたから」
「…………」
「ありがとう。待っていてくれて。見つけてくれて」
狼の金色の瞳がゆっくりと潤んだ。幻獣の瞳から一筋の雫が毛並みに落ちた。ミレイユは震える手を伸ばして、その頬をそっと撫でた。
「泣かないで」
「……泣いて、いない」
「うそつき」
笑うと胸が少し痛んだ。けれどそれも心地よかった。
「ねえ。私、全部忘れちゃうけど」
「…………」
「それでも、また会えるんでしょう?」
「見つける」
即答だった。低い声が震えていた。
「必ず見つける。何度お前が忘れても。何度お前の姿が変わっても。俺はお前を見つける」
「うん」
「約束する」
「うん。信じてる」
ミレイユは満足そうに目を閉じた。まぶたの裏にこれまでの景色がゆっくりと流れていく。
霧の森、苔むした石柱、白い花、雪の朝、光る苔、暖炉の火、そしていつも隣にいたあの金色の瞳。
(ああ)
全部、愛おしかった。
「またね、シルヴァ」
それが最後の言葉だった。
ミレイユの手がゆっくりと毛並みの上に落ちた。穏やかな寝息のような息が、ひとつ静かに止まった。月光が彼女の顔を柔らかく照らしていた。笑みを浮かべたまま眠るような、安らかな顔だった。
白い花が一斉にふわりと揺れた。
その瞬間、彼女の体から淡い光がゆっくりと立ちのぼった。小さな、白い、澄んだ光。魂だった。それは迷うことなくまっすぐに空へ昇っていく。どこにも弾かれず、なにものにも縛られず、まるで帰るべき場所を最初から知っているように。
輪廻の輪へ。
シルヴァは顔を上げて、光が空の向こうに消えていくのを最後まで見送った。
天井の抜けた神殿に夜の風が吹いた。狼は動かなかった。ミレイユの亡骸をそっと抱くように長い体を丸めて、ただそこにいた。
夜明けまで。そして、夜明けのあとも。
白い花が朝日を浴びて、静かに揺れていた。
終章 はじめまして
森の入口に、小さな足跡がひとつついていた。
春の終わりの、よく晴れた朝だった。ふもとの村からはとうに朝餉の煙が上がっていて、畑では大人たちが鍬を振るっている。その誰の目にもとまらないように、ひとりの少女がそっと村の外れを抜け出していた。
七つになったばかりの小さな女の子だった。
栗色の髪を短い三つ編みにしている。大きな灰青の瞳がきらきらと好奇心に光っていた。擦り切れた靴は泥だらけで、スカートの裾にはすでに草の種がいくつもくっついている。
「大人は森には入っちゃだめっていうけど」
少女は誰にともなく小声で言った。
「わたし、まだ大人じゃないもん」
そう理屈をつけて、彼女は霧の立ちこめる森の中へとためらいなく足を踏み入れた。
霧はしっとりと冷たかった。木々は見上げてもてっぺんが見えないほど高く、苔むした幹には古い傷跡のような模様が刻まれている。足元の苔はふかふかと柔らかく、歩くたびに小さな音を立てて沈んだ。少女は何度も立ち止まって、不思議そうに周りを見回した。
不思議なことに、ちっとも怖くなかった。
霧が濃くなっても道が分からなくなっても、足が勝手に前へ進んでいく。まるで行き先を知っているみたいに。
少女自身もそれをおかしいとは思わなかった。ただ、なんだか胸のあたりがぽかぽかしていた。
途中、苔に埋もれた朽ちかけの小屋の骨組みの脇を通り過ぎた。四十年という年月が丸太の一本一本を緑に染めている。少女はちらりと目をやっただけで、そのまま先へ進んだ。
どれくらい歩いただろう。
ふいに、霧がふっとほどけた。
目の前に開けたのは、天井の抜けた古い石造りの神殿だった。苔むした柱が静かに並び、崩れかけた石畳の隙間から、白い小さな花がいくつも顔をのぞかせている。見上げた空は真っ青で、そこから降り注ぐ陽の光が神殿の中央をやさしく照らしていた。
少女は思わず息を呑んだ。
その光の中に、白銀の毛並みの大きな狼が伏せていた。
怖いとは思わなかった。
狼は、とても静かにそこにいた。まるで長い時間をずっとここで過ごしてきたような、不思議な静けさだった。淡い金色の瞳が、まっすぐに少女を見つめている。その目はなぜか泣き出しそうに揺れていた。
少女は首をこてんと傾けた。
「……こんにちは」
小さな声でそう言った。
狼は動かなかった。ただ片方の耳がほんのわずかに揺れた。
それから、ゆっくりと。本当にゆっくりと、大きな頭が下がった。
「あっ」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「いま、挨拶してくれた!」
嬉しそうに神殿の中へ駆け込んでいく。石畳の隙間に咲く白い花をひとつひとつ覗き込みながら、少女は狼のすぐそばまで近づいた。そして足元の石に刻まれた古い文様を見つけて、ぴたりと止まった。
波のような線と、円と、見知らぬ文字。
少女はその場にしゃがみ込んで、首を少し傾け、小さな指先でそっとその線をなぞった。
狼の呼吸が、かすかに止まった。
——ああ。
金色の瞳がゆっくりと大きく見開かれる。長い年月の向こうで何度も見た仕草だった。
何度姿を変えても、何度名を変えても、決して変わらなかった、あの魂の癖。
「これ、なんて書いてあるのかなあ」
独り言のように少女が呟く。その声は幼くて澄んでいて、あのころの声とは少しも似ていなかった。それなのに胸の奥がきゅっと痛いほどあたたかくなった。
狼はゆっくりと体を起こした。
月光のような毛並みがふわりとほどけて霧になり、ひとの形に寄り集まっていく。少女が驚いて顔を上げたとき、そこには背の高い、白銀の髪の男が静かに膝をついていた。
「わあ」
少女は目を丸くした。
「おおかみさん、人になれるの?」
「……ああ」
低い声だった。少しだけかすれていた。男は少女の前でゆっくりと息をして、それからそっと口の端を持ち上げた。笑うタイミングはやっぱりほんの少しずれていた。
「ずいぶん、遠くまで来たな」
「うん。迷子になったんだと思う。でも、ここ、すごくきれい」
少女がきょろきょろと神殿を見回して、また男の顔を見た。それから首を傾けて不思議そうに言った。
「ねえ、おにいさん。わたし、あなたに会ったことある?」
男の指がわずかに強張った。
「……いや」
「そっか。そうだよね。でも、なんでかな。はじめて会った気がしないの」
少女はえへへと笑った。その笑顔は、遠い昔、雪の朝に見た笑顔とかすかに重なった。男はしばらくのあいだ何も言えなかった。胸の奥から込み上げてくるものを静かに飲み込んでいた。
あの人の魂が弾かれず、人間の理に従い、輪廻の輪に組み込まれていくのを見届けてから、四十年を待った。幻獣にとっては瞬きほどの時間のはずだった。
数えるのをやめたはずなのに、数えていた。月の数も、季節の数も、年の数も。そして、ようやく見つけた。
「……はじめまして」
男は静かに言った。
「はじめまして!」
少女は元気よく答えた。
「わたし、リゼっていうの。おにいさんは?」
「俺は」
言いかけて、男は少し考えた。
名前はあった。あの人が勝手につけた名前。ずっと大切にしてきた名前。けれど今、それを口にするのは少し違う気がした。この子は何も知らない。何も知らないまま、まっさらな心で、もう一度自分と出会おうとしている。それを尊重したかった。
「……お前の好きに呼べ」
「え、いいの?」
「構わない」
少女はうーんと首をひねった。それからぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、シロ!」
「…………」
「だって髪も、狼のときの毛も、真っ白なんだもん。ぴったりでしょ?」
誇らしげに胸を張る少女を見て、男が一瞬固まった。
『シロ』。
あの人が勝手につけ、ずっと大切にしてきた『シルヴァ』という名ではなく、この子が新しく呼んでくれたその短い響きは、不思議と彼の胸の奥の冷たさを優しく溶かしていくようだった。
シロと名付けられた男は、肩を小さく震わせて、低く笑い声を漏らした。今度は、笑うタイミングがちゃんと合っていた。
「……そうか」
「あれ、気に入らなかった?」
「いや」
否定の言葉と共に、男はゆっくりと手を伸ばした。
小さな頭にそっと冷たい指先を乗せる。少女はびくりとしたけれど逃げなかった。男は金色の瞳を静かに閉じて、短く呟いた。
「健やかであれ」
淡い光がふわりと灯った。
それはとても小さな、とても軽い、ささやかな光だった。永遠も、目印も、特別な力もそこにはない。ただほんのりとあたたかい祈りのようなもの。少女の栗色の髪が光の粒をまとってきらきらと揺れた。
「あったかい」
少女はきょとんとして目をぱちぱちさせた。
「なんだか、お日さまみたい」
「そうか」
「うん。ありがとう、シロ!」
無邪気な笑顔だった。シロと呼ばれた男はほんの少しだけ目を細めて、しばらくその笑顔を見つめていた。
白い花が風に揺れる。陽の光が神殿の石畳にやわらかく降り注いでいる。
遠くで鳥が鳴いた。
霧はすっかり晴れて、森のどこにも暗い影は見当たらなかった。
「そろそろ帰らないと、お母さんが心配する」
「送っていく」
「ほんと? やった!」
少女はとことこと歩き出して、神殿の出口で振り返った。
「ねえ、シロ。またここに来てもいい?」
シロは少しの間、答えなかった。
季節が四十回巡った。その一つひとつの夜を、自分はここでひとりで過ごしてきた。それでも後悔は少しもなかった。この日のために待っていたのだから。
「ああ」
静かに、けれどはっきりと答えた。
「何度でも来い。俺はここにいる」
「やったあ!」
少女は嬉しそうに駆け出していった。その小さな背中を、シロはゆっくりと追いかけた。一歩、また一歩。足音はしなかった。けれど影は確かに少女の影のすぐ隣に寄り添っていた。
神殿の天井から淡い光が降り注いでいた。
白い花は風に揺れて、まるで新しい物語の始まりを静かに祝福しているようだった。
番外編 雪の日のシロ
リゼが神殿へ来なくなって、三日が過ぎた。
冬の初めの冷え込みの強い朝だった。神殿の石畳には霜が白く降りて、天井から差し込む光を受けるたびに細かな粒がちらちらと瞬いている。シロはいつもの月光の差す場所に、人の姿のまま座っていた。膝の上で組んだ指先はじっと動かない。ただ視線だけが、さっきから何度も霧の向こうの道へ向いていた。
――来ないな。
木々のざわめきが耳のあたりをくすぐる。
「……分かっている」
――昨日も、そう言っていた。
「…………」
――おとといも。
梢がさわさわと揺れた。笑っているのだと、もう分かるようになっていた。シロはむっとしてほんの少しだけ眉を寄せた。そうすると、またざわりと葉が鳴る。数千年を生きた古木たちは、人間の子どもよりもずっとおしゃべりで、ずっと意地が悪い。
――風邪、だそうだ。
「風邪」
――小さな人間は、冷えると熱を出す。
シロは立ち上がった。
自分でもどうして立ち上がったのかはよく分からなかった。ただ胸のあたりに冷たくてもぞもぞしたものが居座っていて、座ったままではいられなかった。それはずっと昔に一度だけ知った感覚によく似ていた。
誰かが来なくなったときの感覚。
(待つのは、苦ではない)
そう思おうとした。思おうとして、でも足はもう神殿の外へ向かっていた。
霧の道を静かに歩く。足音はしない。苔の匂いと、凍てた土の匂いと、遠くの村から流れてくる薪の煙の匂い。その道のところどころに、小さな靴の跡が凍った土に残っていた。リゼが通った跡だ。一つひとつ、まだ形が崩れずに残っている。
シロはその跡を踏まないように避けて歩いた。
森の外れで足が止まった。
朽ちかけた小屋の骨組みが、苔に埋もれてそこにあった。かつて窓辺に干された薬草の束が風に揺れていた場所だ。梁にぶら下がっていた緑の束。机の上の湯気の立つ薬草茶。
(熱が出たら、これを煮出して飲むの。体がじんわり温まるから)
不意に遠い声が耳の奥で蘇った。早口で、少し得意げな声。何でも知っている顔をして指先で草の葉をなぞっていた。
シロは小屋の跡の裏手へ回った。
霜の下に、細い緑の葉がひっそりと息づいていた。あの人が毎年摘んでいた草。今も変わらずそこに生えていた。シロはしゃがみ込んで、慎重に一本ずつ摘み取った。指先がかじかむ。凍えるような冷たさのはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。
それから神殿へ戻って、石畳の隙間に咲く白い花を一輪だけ手に取った。
小さな村の端に一軒の家があった。煙突から細い煙が立ちのぼっている。シロはその家の裏手の窓辺までそっと近づいた。人間の家に入ることはできない。入ってはいけないと、なぜかそう思った。
窓の向こうから小さな咳の音が聞こえて、胸の奥がきゅっと縮む。
窓辺に薬草の束と白い花を並べて置いた。
花の下に、少しだけ考えて、指先でほんのりと淡い光を灯す。
「健やかであれ」
とても小さな声だった。光はすぐに花びらの中へ溶けて消えた。何も変わらない。けれど、それで十分だった。
シロは足音を立てずにその場を離れた。
* * *
リゼが神殿へやって来たのは、それから二日後のことだった。
「シロー!」
霧の向こうから元気な声が飛んできた。栗色の三つ編みがぴょんぴょんと跳ねている。厚手の外套にくるまって、顔が半分マフラーに埋もれていた。まだ少し鼻が赤い。けれど足取りはすっかり軽かった。
「治ったのか」
「うん! ばっちり!」
リゼは胸を張ってえへんと笑った。それからふと首を傾げて不思議そうに言った。
「あのね、不思議なことがあったの」
「……何だ」
「熱が出てずっと寝てたとき、窓のところにお花と草が置いてあったの。お母さんが煮出してくれたらすごく体がぽかぽかして、すぐ元気になったんだよ」
「そうか」
「でも、お母さんも知らないんだって。誰が置いてくれたんだろうね」
「……さあな」
シロはそっぽを向いた。耳のあたりがじわじわと熱くなる。リゼはじーっとその横顔を見つめた。それからにんまりと笑った。
「シロでしょ」
「違う」
「うそだあ。だってあのお花、神殿のとこにしか咲いてないもん」
「…………」
「それに、あの草ね。うちの村の誰も知らない草だったの。お母さんが『こんな効き目のいい薬草、初めて見た』ってびっくりしてた」
シロは黙った。何も言い返せなかった。リゼはすっかり得意げな顔になって、石畳の上をくるくると回った。
「ありがとう、シロ。すっごく嬉しかった!」
まっすぐな笑顔だった。あまりにもまっすぐで眩しくて、シロは思わず視線を落とした。
「……礼は、いらない」
「ううん、いる。だからわたしからもお礼があるの」
「お礼?」
リゼは外套のポケットから何かを取り出した。
細長くてところどころがぼこぼこしていて、色も白と灰色がちぐはぐに混ざっている。端のほうは毛糸がほつれてぴょんと飛び出していた。
「……何だ、これは」
「マフラー! お母さんに教わって自分で編んだの!」
リゼは両手でそれを広げて誇らしげに掲げた。
「ちょっと変な形になっちゃったけど。でもね、シロ、いつも手が冷たいから。これ巻いたらちょっとはあったかくなるかなって」
シロはそのマフラーをじっと見つめた。
不格好でいびつで幅も長さも揃っていない。それなのにどうしてだろう。目が離せなかった。
「巻いてあげる。しゃがんで」
「……ああ」
言われるまま片膝をつく。リゼは背伸びをして小さな手でシロの首にマフラーをぐるぐると巻きつけた。毛糸の端が頬にちくちくと触れる。リゼの手は小さくて温かくて、指先がほんの少しだけ冷たかった。
「できた!」
リゼは一歩下がって満足そうに頷いた。
「うん、似合う! すごく似合う!」
「そうか」
「あったかい?」
シロは答えようとして言葉に詰まった。
首元に毛糸の柔らかさがある。その下で胸の奥がじんわりと広がるようにあたたかくなっていた。体温ではない。もっと奥のほうの名前のつけられない場所が、ゆっくりとほどけていくような感覚だった。
ずっと昔、同じ感覚をどこかで知っていた気がする。
雪の朝の軒先で。暖炉の火のそばで。月光の降る石畳の上で。
「……ああ」
小さく答えた。声が少しだけかすれた。
「あたたかい」
「よかったあ!」
リゼはぱっと顔を輝かせた。それからシロの隣にちょこんと腰を下ろした。マフラーに半分顔を埋めたまま空を見上げる。
「あ、雪」
シロも顔を上げた。
天井の抜けた空から白いものがふわふわと降りてきていた。今年の最初の雪だった。月光の中をゆっくりと舞って、白い花の上に、石畳の上に、二人の肩の上に静かに積もっていく。
「きれいだねえ」
「……ああ」
「ねえ、シロ。わたし、大きくなってもここに来るね」
リゼは空を見たままぽつりと言った。
「どうして、そう思うんだ」
「うーん、分かんない。でもね、そう思うの。ずっとここに来たいなあって」
シロは返事をしなかった。ただ隣の小さな肩のぬくもりをそっと感じていた。リゼが首を傾けて足元の石に刻まれた古い文様を指先でなぞる。その仕草に、胸がまたひとつあたたかくなった。
雪は静かに降り続けた。
日が暮れるころ、二人は並んで神殿を出た。リゼはシロに手を引かれて霧の道を歩いていく。雪の上には小さな足跡がぽつぽつと続いていた。
「あれ?」
ふいにリゼが立ち止まった。
「シロの足跡もついてる」
シロは足元を見た。
確かにリゼの小さな足跡の隣に、大きな足跡が並んで続いていた。足音のしないはずの彼が、今日は雪の上にちゃんと跡を残していた。
「ほんとだ。初めて見た!」
「……そうだな」
「なんだかうれしいね」
リゼはにこにこしながらまた歩き出した。シロは並んだ二つの足跡をもう一度だけ振り返った。
降りしきる雪が、すぐにその上に薄く積もっていく。それでも二人が歩いた道は、ずっと向こうの村の灯りのところまで、確かに続いていた。
番外編2 かぞえる季節
シロは、季節を数えるようになった。
それはずっと昔、ある人間が森の外れに小屋を建てたころから少しずつ身についた癖だった。花が咲いて、散って、雪が降って、溶ける。数千年のあいだただ流れていくだけだったものが、いつの間にかひとつずつ手のひらに乗るようになっていた。
八つの冬。
いびつなマフラーを巻いた首元があたたかかった。リゼは神殿の石畳に座って、買ってもらったばかりの木の笛をへたくそに鳴らしていた。音は外れていたけれど、シロは最後まで黙って聞いていた。
十の夏。
霧の中を蛍が漂っていた。リゼは目を輝かせて小さな手を伸ばした。逃げていく光を追いかけて石柱のあいだをくるくると走る。転びそうになるたびシロの手がそっと背中を支えた。「ありがとう、シロ!」と笑う声が夏の夜に溶けた。
十二の秋。
神殿の石畳に刻まれた文様を、リゼが一日かけて紙に写し取った。「これ、なんて書いてあるのか、いつか絶対に読めるようになる」と鼻息荒く言った。首を傾けて指先で線をなぞる。その仕草を見るたび、シロの胸の奥は静かに波立った。同じ癖だ。けれど、今はそれだけではない何かが混じっている気がした。
十四の冬。
リゼが神殿へ来る日が少しずつ減った。村の手伝いが増えたのだという。シロは「そうか」とだけ言った。言ってから、霧の道をひとり長いあいだ眺めていた。木々が梢を揺らして笑った。うるさい、と思った。
十六の春。
村の薬師に弟子入りするのだとリゼは報告に来た。あの日、窓辺に置かれた不思議な薬草のことがずっと忘れられなかったのだと言う。「だからね、あれをちゃんと育てて、みんなが元気になれるようにしたいの」。シロは少し黙ってからひとつだけ言った。「あの草は、森の外れの古い小屋の裏に生えている」。リゼは目を丸くして、それから花が咲くように笑った。
十八の秋。
リゼは大きな町の薬師の学び舎へ出ていった。別れの日、彼女はマフラーを巻いたシロの胸を拳でこつんと叩いた。「ちゃんと、待っててね」。シロはうなずいた。うなずきながらふと思った。待つことは苦ではない。それなのに、どうしてこの日だけはこんなにも胸の奥が重いのだろう。
* * *
二年が、過ぎた。
季節は一つひとつ確かに数えた。春が二度、夏が二度、秋が二度、冬が二度。そのあいだ、神殿の白い花は咲いては散った。シロは月の下で静かに座っていた。いつものように。いつもより少しだけ、霧の道に目を向けながら。
――来るぞ。
木々がざわりとそう告げた。
シロは顔を上げた。
霧の向こうから足音が聞こえてきた。ゆっくりとした、落ち着いた足取り。昔のような跳ねる音ではない。それでもその足音を聞いた瞬間、胸の奥がとくりと大きく鳴った。
霧が、ほどける。
現れたのは、背の高い若い女だった。栗色の髪は肩のあたりで緩く編まれている。灰青の瞳は昔と同じようにまっすぐで澄んでいた。薬草の匂いがした。町へ出て着るようになった少し大人びた外套を羽織り、けれどその首元には見覚えのある毛糸のいびつな色が覗いていた。
「ただいま、シロ」
二十歳になった、リゼだった。
シロは立ち上がろうとしてうまく立てなかった。膝の力がふっと抜けるようだった。それを悟られまいと座ったまま静かに言った。
「……おかえり」
「なにその顔。久しぶりなのに、全然変わらないんだから」
リゼはくすくすと笑って神殿の中へ入ってきた。その笑い方は、あの人とは少しも似ていなかった。あの人は早口で息を弾ませてはじけるように笑った。リゼの笑いは、ゆっくりとあたたかく広がっていく。
(ああ)
シロはふいに気づいた。
自分はこの二年のあいだ、リゼの中にあの人の面影を探していなかった。
探して、いなかった。
思い返せば、もうずっと前から。木の笛を鳴らす音。蛍を追いかける背中。薬師になると言った目の輝き。それらはすべてリゼだけのものだった。あの人の記憶の上に重ねて見ていたわけではない。ただ、目の前のこの人のことを見ていたのだ。
「ねえ、シロ」
リゼが隣に腰を下ろした。肩と肩のあいだに拳ひとつ分の距離があった。
「そのマフラー、まだ持ってたの?」
「……ああ」
「もうボロボロでしょ。ほつれてるし」
「構わない」
「ふふ。相変わらず、それ」
リゼは笑って、それからふっと真顔になった。
「町にいる間ね、ずっと思い出してたの」
「何を」
「ここのこと。神殿とか、霧とか、白い花とか。それから、シロのこと」
言葉の終わりが少しだけ小さくなった。リゼは膝を抱えてそっと目を伏せた。
「会いたかったなあ、って」
シロは息を止めた。
夜の神殿に風が吹いた。白い花がさわさわと揺れる。月光が石畳の上を静かに滑っていく。二人の影が拳ひとつ分離れて並んでいた。
待つことは苦ではなかった。
そう思っていた。それはきっと半分は本当だった。けれど、もう半分は違っていた。待つこと自体は苦ではない。ただ、待っている先にこの人がいるから待てたのだ。この人がいなければ、数える季節に何の意味もなかった。
(これは)
胸の奥がじんわりと熱を持った。ずっと昔、雪の朝の軒先で一度だけ知った感覚。誰かの笑顔を見て、世界が少しだけ明るくなるような。
(これは、待つのとは違う)
シロはゆっくりと口を開いた。
「俺も」
声がかすれた。それでも言葉ははっきりと出た。
「お前に、会いたかった」
リゼがぱっと顔を上げた。
灰青の瞳が大きく見開かれて、月の光をたっぷりと映している。頬がじわじわと赤く染まっていく。それは雪の朝に見たあの照れた顔とは違う、もっと柔らかな淡い色だった。
「……え、あの」
「待つ、というのは少し違った」
「う、うん」
「お前が来るかもしれないと思っていた。毎日。毎晩」
シロはまっすぐリゼを見た。
「会いたいと思っていた。それを、今、やっと知った」
リゼはしばらく何も言えなかった。口を開けて、閉じて、また開けて、それから両手で顔を覆った。耳まで真っ赤だった。
「……もう。そういうこと、さらっと言うんだから」
どこかで聞いたことのある言葉だった。シロは不思議そうに首を傾けた。リゼは指のあいだからこっそりこちらを覗いて、堪えきれずに吹き出した。
「なに、その顔。わたし変なこと言った?」
「……いや」
「でも、嬉しい」
リゼは顔を覆っていた手をそっと下ろした。そして少し照れくさそうに、けれどまっすぐにシロを見た。
「ねえ、シロ。わたしね、町でいろんな人に会ったの。みんな素晴らしい人だった。でも、帰ってきたかったのはここだった。どうしてかはうまく言えないんだけど」
「…………」
「たぶん、ここにシロがいるからなんだと思う」
神殿の天井から月光が静かに降り注いでいた。霧は薄れて星がいくつも瞬いている。白い花の群れが淡い光を帯びてやさしく揺れていた。
シロは返事の代わりにゆっくりと手を伸ばした。
拳ひとつ分の距離をそっと埋める。冷たい指先がリゼの手に触れた。リゼは驚いたように肩を小さく跳ねさせて、それからそっとその手を握り返した。リゼの手は昔と同じようにあたたかくて、指先がほんの少しだけ冷たかった。
笑うタイミングが、ちょうど合っていた。
シロもリゼも、同じ瞬間に同じように笑っていた。
季節はまた巡っていく。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。シロはこれからも数えるだろう。けれど、その一つひとつは、もうひとりで数えるものではなかった。
月がゆっくりと高く昇っていった。




