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片角の君へ  作者: 葉柚
9/21

会談後夜

 夜は、ひどく静かだった。

 鏡の谷夜は、思ったより静かだった。

 会談を終えたあと、里はいつも通りに息をしていた。

 焚き火の匂い。

 遠くで鳴く獣の声。

 誰かの笑い声。

――何も、変わっていない。

 それが、少し怖かった。

 ぼくは、与えられた部屋で一人、膝を抱えて座っていた。

 灯りは落としている。

 闇の中に身を沈めていると、身体の輪郭だけがやけに鮮明になる。

 父の声が、まだ耳に残っている。

「歪みだ」

 その言葉を、頭の中で何度も反芻する。

 怒りよりも先に浮かんだのは、納得だった。

 たしかに、ぼくは“正しい龍”ではないのかもしれない。

 龍の里で育ち、龍の理だけを教えられていたら、きっと今とは違う価値観を持っていただろう。

 それでも、歪んだ先で、ぼくは確かに生きている。

 誰かの背中を見送る痛みも、誰かに守られる心強さも、誰かを守りたいと願う気持ちも。

 すべて、ここで覚えた。

 翠兄様の、あの夜の横顔が浮かぶ。

 何も言わず、何も求めず、それでも、すべてを察したような目。

 ぼくは、あの視線に嘘をつきたくなかった。

 父に背を向ける選択が、正しかったのかは分からない。

 里を危険に晒す未来も、確かに存在する。

――怖くないわけがない。

 胸の奥が、じくじくと痛む。

 百年ぶりに再会した父は、相変わらず大きくて、遠くて、正しかった。

 それでも。

 あの場で「戻る」と言えなかった自分を、今のぼくは、嫌いになれなかった。

 選んだのは、逃げではない。

 覚悟だ。

 誰かに与えられた居場所ではなく、自分で守ると決めた場所に、立つという覚悟。

 夜風が、障子をわずかに揺らす。

 遠くで、誰かの足音がして、消えた。

 ――猶予。

 父が与えた時間は、優しさではない。

 試されているのは、ぼく自身だ。

 この里にいる意味を、この里を守る力を、そして――龍として、鬼の里に立つ理由を。

 ぼくは、ゆっくりと息を吐いた。

 まだ、答えは出ていない。

 でも、選び続けることだけは、決めた。

 夜は深い。

 けれど、夜明けは必ず来る。

 その時、胸を張って立っていられるように。

 ぼくは、目を閉じた。


──────


 夜は、結界の音がよく分かる。

 昼間は人の気配に紛れてしまう微細な揺らぎが、夜になると、まるで脈打つように伝わってくる。

 私は結界柱のそばに立ち、指先で術式の流れを確かめていた。

 鏡の谷から戻ったあと、里全体の防御を一段、組み替えている。

 龍王は、想定よりも慎重だった。

 強硬に出ることもできたはずだ。

 だが彼は、“父”の顔を前に出し、理で場を制した。

 あれは、敗北ではない。

 布石だ。

「猶予を与える」

 その言葉の裏にあるのは、

 次は“正しさ”を積み上げてくる、という宣言。

 外交。

 血統論。

 継承権。

 そして何より、「琥珀がここにいることで生じる不利益」。

 龍王は、必ず数値化してくる。

 感情ではなく、天秤で。

 私は、袖の中で小さく息を吐いた。

 厄介だが、悪くない。

 力を誇示しない相手は、対処ができる。

 問題は――琥珀だ。

 会談の席で、彼は震えながらも言葉を選び、

 誰かの用意した台詞ではなく、

 自分の意思として答えた。

 あれは、守られる子の態度ではない。

 “当事者”の顔だった。

 龍王が立ち上がった瞬間、私は確信した。

 彼は、琥珀を「奪う対象」から「交渉すべき存在」へと認識し直したのだと。

 それは、同時に危険でもある。

 龍王は、対等な存在には容赦しない。

 私は、結界の最奥に術式を一つ、追加する。

 里全体を覆うものではない。

 琥珀の“選択”に連動する、可変式の保護だ。

 彼が留まると選べば、守りは強くなる。

 去ると選べば、抵抗せず道を開く。

 檻にはしない。

 それが、私の答えだ。

 育てるとは、縛ることではない。

 それを今日、彼自身が証明してみせた。

 私は、夜空を見上げる。

 龍の気配は、まだ遠い。

 だが次は、必ず“数”で来る。

 里の弱点。

 交易路。

 人の心。

 すべて、守る必要はない。

 守るべきものを、選べばいい。

 ――琥珀を中心に。

 柘榴様は力で抑えるだろう。

 私は、理で支える。

 そして、琥珀自身が言葉を持つ。

 三者三様のやり方で、同じ一点を守る。

 それでいい。

 結界が、静かに安定した。

 夜の里は、眠っている。

 嵐の前の静けさだとしても、今は、これでいい。

 私は、袖を下ろした。

 次の一手は、もう打ってある。

から戻ったあと、村は何事もなかったかのように眠りについていた。

 けれど、ぼくの胸の奥だけが、ざわついていた。

 家に戻ると、灯りが一つだけ点いていた。

 翠兄様が、座敷に正座して待っている。

「……兄様?」

 声をかけると、翠兄様はゆっくりと顔を上げた。

「お帰りなさい、琥珀」

 微笑みは、いつも通りだった。

 けれど、その目は覚悟を宿している。

「……今日は、話をさせてください」

 そう言って、兄様は視線を落とした。

 ぼくは、頷いた。

「角のこと、覚えていますか」

 唐突な問いだった。

「左右で、長さが違う角です。あれは――生まれつきではありません」

 胸が、静かに軋んだ。

「鬼族の角は、力と存在を示す器です。成長とともに、霊力を循環させる“道”になる」

 翠兄様は、そっと右の角に触れた。

「ですが私は、その道を一度、断ちました」

「……断った?」

「ええ」

 声音は淡々としている。

 まるで、遠い出来事を語るように。

 「昔、この森の外で……“人に近づきすぎた”ことがあるのです」

 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「人の社会で生きるため、完全に“人の姿”を保とうとしました。角も、尾も、力も……すべてを抑え込んだ」

 橙佳様が言っていた言葉が、脳裏をよぎる。

 ――事情があって、できない。

「代償は、大きかった」

 翠兄様は、微かに笑った。

「霊力の循環が歪み、角の片方が砕けたのです。再生は、できませんでした」

「……そんな」

「人の姿を取れないのは、罰ではありません。“できない”のです」

 兄様は、静かに続ける。

「完全な人の姿は、鬼としての核を必要とする。その核を、私は失った」

 部屋の空気が、冷えた。

「それでも」

 翠兄様は、顔を上げた。

「後悔はしていません」

「……どうしてですか」

 問いかけると、少しだけ迷った後、兄様は答えた。

「その時、守りたかった人がいたからです」

 胸が、嫌な予感で締めつけられる。

「そして――」

 兄様の視線が、まっすぐにぼくを捉えた。

「今、同じことを繰り返しそうになっている自分がいます」

「……ぼくの、ことですか」

 翠兄様は、頷いた。

「琥珀が狙われていると知った時、真っ先に思ったのは、“この子を遠ざけなければ”でした」

 喉が、ひりつく。

「だから、夜に外へ出ました。結界の外側を、私なりに調べていた」

「兄様……」

「無茶だと分かっていました。柘榴にも、橙佳様にも、叱られるでしょう」

 少し、困ったように笑う。

「でも、怖かったのです。また――守れずに失うことが」

 ぼくは、立ち上がった。

「兄様」

 そして、翠兄様の前に膝をついた。

「今度は、一人で背負わないでください」

 翠兄様の目が、見開かれる。

「守るべきものができたって、ぼくは言いました。それは、里だけじゃない。兄様も、です」

 沈黙。

 やがて、翠兄様の肩が、小さく震えた。

「……あなたは、本当に……」

 声が、掠れる。

「ずるい人ですね」

 小さな、笑い声。

 そして、ぽたりと畳に落ちる雫。

 ぼくは、何も言わなかった。

 ただ、そっと手を伸ばす。

 翠兄様の額に、欠けた角が触れた。

 冷たくて、確かな感触。

「――今度は、失わせません」

 それは誓いだった。

 夜の外で、風が鳴った。

 けれど、その音はもう、脅威ではなかった。

 この夜、ぼくは知った。

 守るとは、代わりに傷つくことではない。

 共に、傷を引き受けることなのだと。

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