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片角の君へ  作者: 葉柚
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鏡の谷

谷に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 音が、薄い。

 風は吹いているのに、葉擦れの音すら反響しない。

 ここは“鏡の谷”。

 力の行使が禁じられ、虚偽が重くなる土地。

 谷の中央には、円形の石座が三つ。

 すでに一つには、白銀の衣を纏った男が腰掛けていた。

――父だ。

 龍王。

 龍神族の頂点に立つ存在。

 その姿は、記憶の中と少しも変わっていなかった。

「……来たか」

 声は低く、静かだった。

 だが、その一言だけで、場の主導権を握ろうとする圧がある。

 柘榴様が一歩前に出る。

「随分と気の早いことで。席を温める趣味があったとは知りませんでしたね、龍王殿」

 父は視線を動かさず、淡々と応じた。

「鬼族の長に挨拶をする義務はない。だが、形式は尊重しよう」

 橙佳様が、静かに一礼する。

「本日はお時間を賜り、感謝いたします。

 鬼族を代表し、橙佳と申します」

 その所作は、あまりに自然で、洗練されていた。

 父の視線が、わずかに揺れる。

「……噂に聞く“結界の主”か」

「ええ。この谷が静かであるのと同じように、この場も、穏やかに進むことを願っております」

 含みのある言い方だった。

 穏やかでなければ、こちらもそれなりの手段を取る。

 そう告げている。

 父は、ようやくぼくを見た。

「琥珀」

 名を呼ばれただけで、胸が締めつけられる。

「百年だ。便り一つ寄越さず、よくも――」

「父上」

 遮った。

 声が震えないよう、必死だった。

「今日は、感情の話をしに来たのではないはずです」

 一瞬、谷が沈黙する。

 柘榴様が、口角を上げた。

「いい度胸だな。……龍王殿、これが“今の琥珀”ですよ」

 父は、ゆっくりと息を吐いた。

「変わったな。だが、それは“歪み”だ」

「歪み?」

「龍は、龍の中で成熟すべき存在だ。異種族の里で成龍を迎えれば、本来あるべき龍脈との繋がりが薄れる」

 それは、理屈としては、正しい。

 橙佳様が、静かに口を開く。

「龍王殿。それは“可能性”のお話でしょうか。それとも、“確定した事実”でございますか?」

 父の眉が、わずかに動いた。

「……可能性だ」

「であれば」

 橙佳様は微笑む。

「可能性のみを理由に、本人の意思を無視して連れ戻すことは、理に適うとは申せません」

 父の視線が鋭くなる。

「意思、か。子の意思を尊重するのが、親の務めだと?」

「ええ」

 橙佳様は、迷いなく頷いた。

「育てるとは、己の価値観を押し付けることではなく、“選ぶ力”を与えることだと、私は考えております」

 柘榴様が、低く唸った。

「はっ。耳が痛ぇだろ、龍王殿」

 父は、しばし沈黙した後、ぼくを見る。

「琥珀。お前がここに留まることで、この里が狙われる可能性は理解しているな?」

「……はい」

「それでも、残ると?」

 石座の冷たさが、足裏から伝わる。

 息をするたび、冷えた霧が胸の奥に沈んでいく。

 ぼくは、翠兄様の顔を思い浮かべた。

 穏やかな微笑。

 震える手。

 それでも、何も言わずに背を向けてくれた夜。

 だから、ぼくは――

「守られるために、誰かを犠牲にする選択はしません。でも、“守りたい場所”を捨てることもしない」

 父は、目を細めた。

「……強情だな」

「父上に似たんでしょう」

 柘榴様が吹き出しそうになるのを、橙佳様が視線で制した。

 長い沈黙の後。

 父は、ゆっくりと立ち上がった。

「よかろう」

 その一言に、空気が張り詰める。

「猶予を与える。だが、次に選択を迫る時は“里ごと”になる」

 それは、脅しではない。

 宣告だった。

 橙佳様は、深く一礼する。

「承知いたしました。その時まで、琥珀は我々が預かります」

 谷の空に、風が通った。

 会談は終わった。

 だが、決着はついていない。

 これはただの“本番”ではない。

 取り返しのつかない選択へ向かう、第一手だ。

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