前哨
朝靄が、村を包んでいた。
霧は音を吸い、気配を鈍らせる。
けれど、あの日の空気は――重かった。
結界が「揺れている」のではない。
「測られている」。
そう感じさせる、嫌な静けさだった。
柘榴様は、朝から村の中央に立っていた。
普段は冗談交じりに笑うその人が、この日はほとんど表情を動かさない。
視線は結界の外、森のさらに向こうを睨み続けている。
橙佳様は、その少し後ろ。いつもと変わらぬ落ち着いた佇まいだが、袖口には淡い光が灯っていた。
結界を“維持”しているのではない。常に、細かく“読み替えて”いるのだと分かる。
「……来ているのです」
橙佳様が、静かに告げた。
「第二の使者は退きましたが、龍神族は引いておりません。今回は“武”ではなく、“理”で来るようですね」
「理、ねぇ」
柘榴様が鼻で笑う。
「要は、正面から殴れねぇから、言葉で縛りに来るってわけだ」
橙佳様は咎めるでもなく、小さく頷いた。
「龍王は賢明なお方です。力ずくが失敗した以上、次は“正当性”を整えてくるでしょう」
正当性。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
「……ぼくは、連れ戻される“所有物”なんですか」
気づけば、口をついて出ていた。
柘榴様がこちらを見る。
橙佳様も、ゆっくりと振り返った。
「いいえ、琥珀」
橙佳様の声は、いつもよりわずかに低い。
「あなたは、誰の物でもありません。だからこそ、彼らは“会談”を望むのです」
「会談……?」
「ええ。龍神族、鬼族の里、そして――あなた」
胸が鳴った。
三者。
ぼく自身が、交渉の“席”に着く。
柘榴様が腕を組む。
「向こうの狙いは単純だ。“父と子”って構図を前に出して、情で縛る」
「情は、理よりも厄介ですからね」
橙佳様は淡々と言う。
「龍王は、“父としての権利”を主張なさるでしょう。養育、血統、継承。どれも、拒むには覚悟が要る言葉です」
ぼくは、拳を握った。
父の顔を思い出す。
厳格で、冷たく、けれど――どこか誇らしげだった背中。
「……断れば、どうなるんですか」
柘榴様は即答した。
「圧力が来る。外交、交易、情報。直接殴らなくても、締め上げる方法はいくらでもある」
「だからこそ、こちらも“形”を整えねばなりません」
橙佳様は、袖の中から一枚の書状を取り出した。
封蝋には、橙色の紋。
「これは、会談の場を定めるための草案です。中立地――古き誓約の残る“鏡の谷”を指定しています」
「……ずいぶん、古い場所を選んだな」
柘榴様が目を細める。
「ええ。あそこは、力の誇示が禁じられた土地。龍神族であろうと、鬼族であろうと“言葉のみ”で向き合わねばならない」
息をのんだ。
つまりそこでは、逃げ場も、力も、誰かの庇護もない。
「琥珀」
橙佳様が、まっすぐにこちらを見る。
「会談の席では、あなたは“守られる子”ではありません。一個の意思を持つ存在として、扱われます」
「……怖いです」
正直に言った。
「ええ。当然です」
橙佳様は、柔らかく微笑む。
「ですが、恐れを知った上で席に着ける者は、強い。あなたには、それができます」
柘榴様が、ぼくの肩を軽く叩いた。
「一人で戦わせるつもりはねぇ。だがな、最後に“どうしたいか”を言うのは、お前だ」
その言葉が、胸に重く、そして温かく残った。
その日の夕刻。
森の向こうから、白い龍気が一筋、空へ昇った。
――正式な会談要請。
龍王は、盤を整え終えたのだ。
そして、ぼくは知る。
これから始まるのは戦ではない。
言葉で互いの未来を奪い合う、静かで、逃げ場のない争いだということを。




