第二の使者
影が揺らいだのは、夕刻の空が群青に沈みきる、ほんの直前だった。
風がひときわ冷たくなり、森の奥から――羽ばたきにも似た、微細な龍気が散る。
ああ、来やがったな。
オレはそう確信した。
庭先で灯籠に火を入れていた橙佳が、手を止める。
静かに顔を上げ、空を見た。
「……来ますね。あれは、先日の者とは違います」
声は穏やかだが、張りつめた糸みたいな気配が走る。
オレは屋根から飛び降り、土を踏みしめながら刀を肩に担いだ。
「龍気の圧が強ぇ。まず間違いなく“本職”だな」
「いえ……“本気”を出している、と言うべきでしょう」
橙佳の否定は静かで、やけに重かった。
次の瞬間、結界の縁が淡く波打ち、空気が裂ける。
一筋の光が降りてきて――そこから、男が歩み出た。
黒い鱗を羽織ったような長身。
深い紅の瞳。
誇りと威圧を隠そうともしない、龍神族の気配。
「……あなたが、琥珀殿を匿う地の守り手か」
低い声が落ちた瞬間、空気が一段重くなった。
胸の奥が、じり、と鳴る。
こいつ、間違いなく玄麟の“手足”だ。
橙佳は一歩前に出る。
衣の裾がさらりと音を立てた。
「私は橙佳と申します。この里の結界を司り、外より来る御客様の応対を務めております。まずは、遠路はるばるお越しいただいたことに礼を」
丁寧すぎるほどの挨拶に、男――蒼鱗は眉をひそめた。
余裕を侮辱と受け取るくらい、気が立ってやがる。
「礼は不要だ。我らは龍王の命を受けただけ。琥珀殿を、速やかに引き渡していただこう」
オレは鼻で笑った。
「“いただこう”だと? 随分な言い草だな」
蒼鱗の赤い眼が、ぎらりと光る。
次の瞬間、オレの足元に細かなひびが走った。
(……龍気だけで、地面を割りやがった)
やっぱり本物だ。
だが橙佳は、微笑を崩さない。
「蒼鱗殿。琥珀自身の意思は、お聞きになりましたか?」
「……龍族に選択はない。血筋に従い、力に従い、王に従う。それが我らの掟だ」
「掟、ですか」
橙佳はまぶたを伏せ、ほんの一拍、考えるように間を置いた。
「その掟が、いかに重くとも――“本人の望みを無視してよい”理由にはなりませぬ」
蒼鱗の表情が、僅かに揺れた。
反論されるなんて、想定外だったんだろう。
「……育ちの良い理屈だ。だが、王はお怒りだ。息子が消息を絶ち、帰還を拒み、血気を外へ捨て置いている。今すぐ連れ戻せと命じられた」
橙佳は、春の日差しみたいな声で言った。
「父の怒りを理由に、子を力ずくで連れ戻す。それが“王”の御心に相応しいと、あなたは本気でお考えですか?」
蒼鱗は、一瞬、言葉を失った。
そこを逃すほど、オレは律儀じゃない。
「橙佳に口で勝てると思うなよ。オレでも無理なんだ」
「柘榴。余計なことは言わないでくださいな」
苦笑しながらも、橙佳の視線は蒼鱗から逸れない。
やがて蒼鱗は苛立つように空を仰ぎ、
「……交渉の余地はない。ここを力で破る」
そう、静かに宣言した。
その瞬間だった。
橙佳の瞳から、柔らかさが消えた。
「それは困りますね。ここには、守るべき子どもたちがいます」
低い音が、大気を震わせる。
橙佳の足元から、金と橙の光が立ち昇った。
薄い結界の膜が、幾重にも重なり、花が咲くように広がっていく。
(……ちっ、何度見ても反則だ)
「この密度……まさか、あなたが“橙の結界師”……」
「ええ。ですから、どうか武力はお控えくださいませ。あなたほどの方が傷を負うのは、私としても本意ではありません」
優美な声。
だが、拒絶は絶対だった。
蒼鱗が舌打ちし、結界に拳を触れた――その瞬間。
「……っ、ぐ……!」
身体ごと、弾かれた。
龍気をまとったはずの体が、紙みたいにしなったのを、オレは見逃さなかった。
橙佳は静かに頭を下げる。
「どうぞ、お帰りください。再びこの地の結界を害さぬ限り、我々も争うつもりはございません。王へもお伝えください。“琥珀は無事である”と」
蒼鱗は悔しげに唸り、龍気を爆ぜさせると、黒い影となって空へ消えた。
……ようやく、静寂。
オレは肩を回した。
「橙佳……やっぱり、怒ってんだろ」
「怒る、というほどではありませんよ。ただ……」
橙佳は星の薄い夜空を見上げる。
「子が、親の力で引き戻されようとするのは。見ていて、あまり気持ちの良いものではありません」
「……あの父親の気迫、やべぇぞ。次は、もっとヤバいのが来る」
「でしょうね。だからこそ、急ぎましょう」
橙佳は、結界の火が揺れる方へ歩きながら、声を落とした。
「琥珀と、翠の件を整えねばなりません。翠は、何かを抱え込んでいる」
オレは眉をひそめる。
「隠してる、ってことか?」
「はい。あの子は嘘をつくのが下手です。だからこそ、黙ってしまう。それが、危うい」
横顔は静かだが、瞳は深い湖みたいに揺れていた。
「政治が動きます。龍神族が本格的に“こちら”へ手を伸ばす前に。この里の均衡を、守らねばなりません」
オレは、ゆっくりと息を吐く。
「……動くんだな。本気で」
「ええ。この里を、そして琥珀を守るために」
穏やかで、揺るがない声。
こうして夜は、さらに深く影を潜め、オレたちを取り巻く“何か”が――確かに、動き始めていた。




