父の思惑
冷たい霧が山脈を包み、龍神族の都――蒼環の上空を、鈍い光が走った。
玉座の間に響く足音は重く、ひとつひとつが床を叩くたび、空気が震える。
その主は、怒りとも焦燥ともつかぬ気配を纏っていた。
龍王・玄麟。
琥珀の父であり、蒼環を束ねる龍神族の頂点に立つ存在。
彼の前に跪く影は、琥珀を探しに出され、鬼の村の結界に触れた者たちだった。
報告は淡々と、事実だけを並べる。
「……結界を、破れなかったと?」
低く抑えられた声。
静かでありながら、雷鳴のような圧を孕んでいた。
「は……橙佳と名乗る者の結界が、あまりにも強固で……侵入は困難かと……」
「困難?」
玄麟は、ゆっくりと息を吐いた。
「我が子一人、取り戻せぬ程度の力で――よく龍神族を名乗ったものだ」
影は震え、額が床に触れるほど深く頭を垂れる。
だが、玄麟の胸の内にあったのは、単なる怒りではなかった。
――恐れ。
龍神族の血が、弱まりつつある。
ここ数十年、出生率は下がり、力を受け継ぐ子はさらに減った。
力を持って生まれても、成熟に至る前に失われる者も少なくない。
そんな中で生まれたのが、琥珀だった。
幼い頃から、純度の高い龍気を宿し、誰の目にも明らかな才能を持っていた。
将来は一族の柱になる――玄麟は、初めて心から喜んだ。
だが、成長するにつれ、琥珀は都の空気を嫌うようになった。
龍神族の儀式にも、父が与えようとした役目にも、距離を取った。
「自由に生きたい」
そう言い残し、幼い体で山を越え、忽然と姿を消した。
あの時、探し出せなかった自分を、玄麟は誰よりも責めている。
そして数年後。
琥珀が“成龍”の気配を纏いながら、結界の奥深くに留まっているという報せが届いた。
龍神族では、成人前に力の制御を始めるなど、数百年に一度あるかないかの逸材だ。
そんな存在が、龍神族の庇護も役目も捨て、他種族の地に縛られている。
――許されるはずがない。
「このままでは、琥珀は外の種族に“奪われる”」
玄麟の呟きに、臣下たちは息を呑んだ。
龍神族には、古い掟がある。
――龍気を持つ者は、必ず龍族の地で成熟させねばならない。
悪用されれば、どの種族であろうと、勢力図を覆しかねない。
ましてや、龍神族の血を引く者が異種族の庇護下で育ち、その地に根を下ろせば――琥珀は、龍神族ではなく「村」に属する者になってしまう。
それだけは、避けねばならなかった。
「……あの村には、琥珀を迎え入れる“意図”を持つ者がいる」
玄麟の目が、鋭く細められる。
柘榴。
橙佳。
そして――翠。
玄麟が独自に調べさせた中で、翠の存在はひときわ厄介だった。
正体不明の力。
角の異質さ。
穏やかすぎる気配の奥に潜む、明確な“欠落”。
(……あれは、どこかで壊れた者だ)
長年、数多の種族を見てきた龍王の直感が、警鐘を鳴らしていた。
あの男の隣に、琥珀がいるのは危険だ。
理屈ではなく、本能がそう告げている。
「琥珀を、必ず連れ戻せ」
玄麟は、静かに命じた。
「手段は問わぬ。……あれは、我が子であり、この一族の未来だ」
その声は鋼鉄のように冷たかったが、底には確かに父の焦りがあった。
怒りでも、支配欲でもない。
――失いたくない。
ただそれだけの、歪で、不器用な愛情。
しかし、その思いが、やがて村と龍神族の双方を巻き込み、より大きな渦へと変わっていく。
この時、まだ誰も気づいていなかった。
琥珀を巡る争いが、“父の思惑”だけで終わるはずがないことを。




