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片角の君へ  作者: 葉柚
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不穏な影

その夜は、風がいつもより冷たかった。

 秋の終わりを告げるように木々がざわめき、

 湖面に映る月の光が、波紋の中で揺れている。

 翠兄様の家の外、茂みの奥に、何かがいた。

 黒い影。

 息を潜め、こちらを窺う気配。

 その目に宿っていたのは、露骨な欲望と焦燥、そして何かを恐れているような不安だった。

 その存在が誰を狙っていたのか、当時のぼくには分からなかった。

 けれど、胸の奥がざわついていた。

――これは、ただの人ではない。

 直感だけが、そう告げていた。

 家の中では、いつもと変わらない穏やかな灯りが揺れていた。

 翠兄様は静かに茶を淹れ、ぼくは窓際で帳簿を眺めている。

 それなのに、外の空気だけが、ひどく異質だった。

 後になって知ったことだが、あの夜、村の外から入り込んだ存在は――“結界を破った”のだという。

 この村には、二重の結界が張られている。

 半径五キロに及ぶ、外界の者を拒む防護の層。

 そして、その内側二キロには、橙佳とうか様自らが敷いた、強力な結界がある。

 通常なら、それを越えることは不可能だ。

 無理に踏み込めば、命すら危うい。

 それでも、その夜は違った。

 翠兄様の家の茂みにまで、何者かが入り込んでいた。

 つまり、それほどの力を持つ存在だったということだ。

 柘榴様は、その気配を感じ取ると、すぐに動いた。

「近頃な……同族みてぇな影が、ちょくちょく出てやがる」

 低い声で、そう告げられた。

 その目的は、おそらく琥珀――ぼく自身だろう、と。

 理由は単純だった。

 龍人族の血と力。

 それを欲する者は、決して少なくない。

 成龍となり、力を制御できるようになった今、それは“守れる力”であると同時に、“狙われる理由”にもなる。

「お前が思うより、この森は静かじゃねぇ」

 そう言って、柘榴様は眉間に皺を寄せた。

 その時、翠兄様は黙っていた。

 けれど、手のひらの中で湯呑みが、わずかに震えていた。

 誰よりも穏やかで、優しい人だ。

 その兄様が、あんな表情を浮かべるのを、ぼくは初めて見た。

(……怖いのだろうか。それとも、何かを知っている?)

 その晩、兄様は珍しく言葉少なだった。

 そして翌日から、兄様の様子は、少しずつ変わっていった。

 朝早くに家を出て、夜更けに戻る。

 時には、椅子に腰を下ろしたまま動けず、深いため息を吐くこともあった。

 声をかけても、返ってくるのは柔らかな微笑だけ。

 理由は、何ひとつ語られなかった。

 その沈黙が、何よりも不安を煽った。


 数日後、村の中に再び不審な影が現れた。

 結界が揺らぎ、森の奥で小さな衝撃が起きたという。

 柘榴様と橙佳様が即座に対応し、侵入者は跡形もなく消えた。

 後に橙佳様から聞いた話では、その影の正体は、龍神族だった。

 そして、その指示を出していたのは、他ならぬ“ぼくの父”だという。

――息子を、連れ戻せ。

 返事もよこさず、帰ってこないことに業を煮やし、龍神族の使いを送り込んだのだと。

 橙佳様は淡々と語ったが、翠兄様の顔は、見る見るうちに青ざめていった。

「これ以上、琥珀を狙う影が現れれば、村も危うくなる」

 そう言って、橙佳様と柘榴様は結界をさらに強化した。

 大きな被害は免れたものの、村から緊張が消えることはなかった。

 兄様は、それからもずっと、何かを抱えたまま動き続けた。

 夜の外出が増え、時折、右の角を押さえて顔をしかめる姿も目にした。

 声をかけようとするたび、胸の奥に引っかかるものがあり、言葉を飲み込んだ。

 兄様が何を思い、何と戦っているのか。

 あの頃のぼくには、まだ分からなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 あの夜、茂みに潜んでいた影は、この穏やかな日々に、取り返しのつかない“ひび”を入れた。


 ――それが、すべての始まりだった。

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