離反
空気が、変わった。
冷えたわけでも、澄んだわけでもない。
ただ、薄い。
息を吸うたび、肺に入ってくる量が減っている気がした。
(……境、か)
足は、まだ止まらない。
だが、歩いているという感覚が消え始めている。
地面を踏んでいるはずなのに、重さがない。
代わりに、胸の奥に圧が溜まっていく。
心臓の鼓動が、二重になる。
ひとつは、今まで通りの速さ。
もうひとつは、遅く、深いリズム。
龍の拍動だ。
(まだ……聞こえる)
耳鳴りの向こうで、微かに別の音が混じっている。
水を切るような、風を裂くような――懐かしい音。
父の気配。
名前も、姿も思い出せない。
それでも、“在り方”だけは、確かに覚えている。
視界の端が、金色に滲む。
光ではない。
色としての世界が、塗り替えられていく。
(戻れ……)
言葉にしようとすると、喉が閉じる。
音になる前に、意味がほどけていく。
足元の光の線が、円を描き始めた。
昨夜見た紋様とは違う。
これは、門だ。
境界の内と外を、区切るためのもの。
一歩、踏み出せば――終わる。
そう理解しているのに、恐怖は薄い。
代わりに、静かな納得が広がっていく。
(……選んでないのに)
理不尽だと思う。
怒りも、悔しさも、確かにある。
それでも、身体の奥では、「正しい位置に戻る」感覚が、確信に近づいている。
視界の向こうで、結界の縁が揺れた。
誰かが、追ってきている。
(翠兄様……)
名前を思い浮かべただけで、胸がきしむ。
繋がりが、ここで切れると理解してしまう。
その瞬間、胸の奥で、何かが反転した。
守りたい、という感情だけが残った。
理由も、記憶も、言葉もいらない。
それだけが、最後まで剥がれなかった。
「……待って」
自分の声が、遠い。
誰に向けたのかも、わからない。
光の円が、完全に閉じる。
次の一歩が、空を踏んだ。
落ちる感覚は、ない。
ただ、ほどける。
身体と、名前と、役割が、
順番に、静かに、外されていく。
(……ぼくは)
思考が、そこで途切れた。
境界の向こう側で、龍脈が、確かに――応えた。




