琥珀の異変
最初に感じたのは、不快な静けさだった。
夜の結界は、音がないわけではない。
虫の羽音、風の流れ、地脈の微かなうねり、それらが重なって、常に“在る”気配を保っている。
だが今、それが抜け落ちている。
(……薄い)
結界の内側が、削がれていくような感覚。
護っているはずの輪郭が、どこか一点に引き延ばされている。
翠は、無意識のうちに立ち上がっていた。
「琥珀……?」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が嫌な音を立てる。
返ってくるはずの微弱な応答が、ない。
代わりに、引きずられるような龍気の流れが、地下から走った。
(龍脈……動いた?)
あり得ない。
龍脈は、人の都合で流れを変えるものではない。
それでも、確かに“向き”がある。
湖畔へ――いや、湖畔を起点に、外へ。
翠は歯を噛みしめた。
(遅れた)
結界が破られたわけではない。
むしろ逆だ。
内側から、正しく解かれ始めている。
これは侵入ではない。
召喚でもない。
“回収”だ。
その認識に至った瞬間、背筋が冷えた。
翠は、即座に調律符を掴む。
欠けた角の奥が、鈍く疼いた。
(まだ……繋がっている)
微かだが、琥珀の気配はある。
完全に飲み込まれてはいない。
だが、安定している。
それが、何よりも異常だった。
暴走ではない。
拒絶も、混乱もない。
“従っている”流れ。
「……っ」
符を走らせた瞬間、反応が返ってきた。
だが、繋がったのは琥珀ではない。
さらに深い層。
龍脈の――基音。
(触れるな)
直感が、警鐘を鳴らす。
だが同時に、兄としての焦りが、判断を押し流した。
「琥珀、待って……!」
名を呼ぶ。
だがその声は、結界に吸われて消えた。
次の瞬間、湖畔の方角で、地脈が一段、沈んだ。
道が、確定した。
翠は、その意味を理解してしまう。
追えば、結界を裂く。
止めれば、琥珀は還る。
選択肢は二つ。
だが――時間は、ない。
拳を握り締める。
欠けた角が、ひび割れるように痛んだ。
(……間に合って)
願いは、祈りに近かった。
翠は、結界の内側から、走り出した。




