意志とは違う意志
最初に奪われたのは、足だった。
「……?」
踏み出すつもりはなかった。
湖畔から離れるつもりも、誰かの元へ向かうつもりもない。
それなのに、右足が前に出る。
土を踏む感触が、はっきりと伝わってくるのが、余計に怖かった。
(違う。動くな)
命令する。
だが、身体は聞かなかった。
次の一歩が、自然な歩調で続く。
逃げようとする動きではない。
まるで、正しい帰路を思い出したかのような足取りだった。
「……やめろ」
声は、喉の奥で掠れる。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
胸の内側で、何かが軋んだ。
龍気が、血の流れに合わせて脈打つ。
――還れ。
今度は、はっきりとした声だった。
耳ではなく、骨に響く。
視界の端で、森の輪郭が歪む。
木々が、道を空けていく。
(……ぼくは、行かない)
思考だけが、必死に抗う。
だが、腕が自然に揺れ、呼吸が歩調に合って整えられていく。
恐ろしいほどに、合理的だった。
抵抗の仕方を、身体が忘れている。
足元に、昨夜見たのと同じ光の紋が浮かぶ。
だが今度は、輪ではない。
進行方向へ伸びる線だ。
踏み出すたび、その先が書き足されていく。
「……戻らなきゃ」
戻るべき場所が、どこなのか。
考えようとした瞬間、頭の奥が鈍く痺れた。
“ここ”と“帰る場所”が、同時に存在できなくなっている。
龍の血が、静かに告げる。
――選択は、もう済んだ。
違う。
違うはずだ。
ぼくは、何も選んでいない。
(なのに)
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
重力が、斜めに引かれる。
地面が、道になる。
空間そのものが、進行方向へ折り畳まれていく。
(……呼ばれてる)
理解だけが、遅れて追いついた。
足が止まらない。
心臓の鼓動が、別のリズムに書き換えられていく。
──このまま進めば、戻れない。
そうわかっているのに、身体は迷わない。
ぼくは初めて知った。
「抗えない」という感覚は、痛みよりも、恐怖よりも――静かなものなのだと。
その静けさの中で、
湖畔の気配が、遠ざかっていった。




