琥珀の変調
最初の違和感は、ほんの些細なものだった。
朝、目を覚ますと、身体が重い。疲れているわけではない。むしろ眠りは深かったはずなのに、骨の奥に熱が残っているような感覚があった。
「……妙だな」
無意識に手を伸ばすと、指先に微かな光が滲んだ。
黄金色。
普段なら、意識して抑え込んでいるはずの龍気が、勝手に浮き上がっている。
慌てて呼吸を整える。
だが、光はすぐには消えなかった。
――呼ばれている。
理由も根拠もないはずの感覚が、胸の底から込み上げる。
外に出ると、森の気配が変わっていた。
風が、流れを変えてぼくを導く。足元の土が、進むべき方向を示すように、かすかに脈打つ。
(……龍脈)
鬼の村の地下にも、微弱ながら龍脈は流れている。
だが、これは違う。
もっと深く、もっと古い――逃げ場のない呼び声。
無視しようとした瞬間、頭の奥が軋んだ。
視界が一瞬、歪む。
「琥珀?」
名を呼ばれて振り返ると、翠兄様が立っていた。
「顔色が――」
言葉が途中で止まる。
兄様の瞳に、はっきりとした恐れが浮かんだ。
「……龍気が、漏れています」
その指摘で、ようやく気づく。
ぼくの足元に、淡い光の紋が浮かび上がっていた。
「大丈夫です。少し、制御が乱れているだけで……」
そう口にしながら、胸の内がざわつく。
制御できない。
その事実こそが、何よりも恐ろしかった。
その日の午後。
帳簿の数字が、頭に入ってこない。
文字が龍文に見え、意味が勝手に書き換わる。
――還れ。
紙の上に、確かにそう浮かび上がった。
息が詰まる。
「……幻覚、か」
否定しかけた瞬間、耳鳴りが走った。
低く、長い音。
遠くで、何かが鳴いている。
龍の声だ。
夕刻、橙佳様が訪れた。
「……兆候が、始まりましたか」
その一言で、隠す意味はなくなった。
「龍血の“呼び戻し”です」
橙佳様は静かに告げる。
「王の血を引く龍は、成龍後しばらくすると、龍脈との同調を強め始めます」
「拒めば……どうなるんですか」
自分でもわかるほど、声が震えていた。
「身体的には衰弱。精神的には――分断」
「……分断?」
「守りたいものと、自分自身を、切り離してしまうのです」
胸が締めつけられる。
翠兄様は、黙って拳を握りしめていた。
「止める方法は」
柘榴様の低い声が、場を引き締める。
「完全に止めることはできません」
橙佳様は、はっきりと言った。
「ですが、遅らせることは可能です。結界と、調律によって」
「……代償は」
「結界を維持する側に、相応の負荷がかかります」
翠兄様が、即座に顔を上げた。
「私がやります」
「兄様!」
「角が欠けていても、調律なら可能です」
橙佳様はしばし沈黙し、それから首を振った。
「翠。あなた一人に背負わせるつもりはありません」
視線が、ぼくに向けられる。
「琥珀。これは、あなた自身の問題です」
「……はい」
「選ばねばなりません」
静かな声が、逃げ道を断つ。
「抗い続けるのか。それとも、一度“還り”、自分の意思で戻る道を探すのか」
還る。
父の元へ。
龍脈の中心へ。
そして――再びここへ戻れる保証は、ない。
夜。
ひとり、湖畔に立つ。
水面に映る自分の瞳は、もはや隠しきれず金色に染まっていた。
瞬きをするたび、光が揺れる。
「……ぼくは」
言葉にしようとした瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
呼吸が乱れる。
龍の血が、囁く。
――役目を思い出せ。
――還れ。
耳を塞いでも、声は内側から響いてくる。
逃げ場はない。
守りたい。
その想いだけが、かろうじて自分を人の形に繋ぎ止めている。
だが――。
湖の底で、何かが応えた。
水面が、波紋もなく持ち上がる。
龍脈が、確かにここへ伸びてきている。
「……まだだ」
震える声で、ぼくは呟いた。
だが拒絶の意思とは裏腹に、足元の土が淡く光り始める。
知らない紋様が、円を描く。
自分の意思とは無関係に、“還るための道”が、形を取り始めていた。
この変調は、警告ではない。
猶予でもない。
――開始だ。
ぼくが選ぶ前に、世界のほうが動き出してしまった。




