出逢い
草むらから抜けた瞬間、視界いっぱいに光があふれだした。
太陽を映してきらきらと揺れる湖面。澄んだ水の縁には菜の花と菖蒲が咲き乱れ、瑞々しい緑がそれらを包み込んでいる。さらに奥、空を貫くようにして、一本の大樹が悠然と立っていた。
花も、木も、水も、空も──まるで世界そのものが、「ここに在る」ことを祝福しているかのようだ。
(……ここは、聖域だろうか)
思わず、胸の奥でそんな言葉が零れた。
龍人の里にも、これほど澄んだ場所はない。
「聖域なんて、里にもないのに……」
少しだけ、休ませてもらおう。
そう思って歩みを進めた、そのときだった。
風の流れが、ほんのわずかに変わった。
耳元をかすめる、規則正しい呼吸音。
視線を向けると、木陰に人影があった。──『鬼』だ。
左右非対称の角。左の角だけが、短く欠けている。
(お、おに……!?)
心臓が跳ね、反射的に一歩退く。
鬼は、龍人族に次ぐ戦闘力を持つとされる種族だ。敵に回せば、軽傷では済まない。
だが、その鬼は静かに眠っていた。
緊張よりも、なぜか好奇心が勝ってしまい、気づけばそっと近づいていた。
薄く開いた唇から、穏やかな寝息が漏れている。
安堵とともにしゃがみ込み、寝顔を見つめた。
艶やかに光る黒髪。黄緑の着物の襟からのぞく白い肌。長い睫毛に縁取られた顔立ちは、驚くほど整っている。
(……綺麗な顔だな)
龍人族であるぼくが、そう思うのだから間違いない。
彼──いや、この鬼は、美しい。
それにしても、これだけ近づいても起きる気配がない。警戒心がなさすぎる。
(ぼく、そんなに存在感ないのかな……)
小さくため息をつき、背を向けかけた、その瞬間、いきなり強い力で腕を掴まれた。
「っ!?」
抵抗する間もなく引き寄せられ、次の瞬間には抱きしめられていた。頭上から聞こえてくるのは、「すー、すー」という変わらぬ寝息。
(え、どういう状況……)
軽く引っ張ってみてもびくともしない。眠っているはずなのに、逃げられない。
(どれだけ力が強いんだよ……)
諦めて、そっと体を預けた。
風に揺れる黒髪が頬をくすぐる。
陽光を浴びた肌は淡く透けるように白く、片方だけ短い角が、欠けた月のように見えた。
体の奥から、じんわりと温もりが広がっていく。太陽のせいなのか、この鬼の体温のせいなのかは分からない。
やがて、抗えない眠気が意識を包み込んだ。
(……途中で起きれば、大丈夫だよね)
そんな甘い考えとともに、意識は闇に沈んだ。
──────
体が揺れる感覚に、ふっと意識が浮上する。
まぶたを開けた瞬間、視界いっぱいに顔があった。
「おはようございます。すみません、寝惚けていたとはいえ、抱き枕にしてしまって。苦しくなかったですか?」
「え、あ、だ、大丈夫です……」
「それは良かったです」
柔らかな声が耳に心地よく残る。
顔が熱を持っていくのが、自分でも分かった。
「顔が赤いですね。風邪でしょうか? 少し失礼しますね」
ぐっと顔が近づいてきた。
(ち、近い……)
目をぎゅっと閉じた瞬間、「こつん」と軽い音がした。
(おでこ……!?)
理解が追いついた頃には、羞恥で頭が真っ白になっていた。
そのとき、低く澄んだ声が割り込んだ。
「こら、翠。そのへんにしてやれ」
振り向くと、赤茶の髪を後ろで束ねた男が立っていた。
「あ、柘榴様。どうかされましたか?」
「どうかも何も、お前を探してたんだ。……まったく、予想通りここか。じいさんが心配してる。早く帰るぞ」
「それは申し訳ないですね。……あの、この子を連れて帰ってもよろしいですか?」
「ああ、いいぞ」
“この子”と呼ばれたことが、なんとなく癪に障った。
それに、この男の底知れない実力も。
「そんなに睨むなよ。取って食うわけじゃねぇ。な、龍人族の坊主」
「ぼくには“琥珀”っていう名前がある。坊主でも、お前でもない」
「はは、悪い悪い。俺は柘榴。そこにいる翠の兄みたいなもんだ」
そう言って、柘榴は軽やかに背を向ける。
その背中を追うように、翠が一歩を踏み出したが、ぼくの方へと振り返り微笑んだ。
「琥珀さん、よければ一緒に来ませんか?」
その微笑みが、なぜかまぶしく見えた。
──こうして、ぼくは鬼の村へと足を踏み入れることになった。




