幻術
鉤爪は座り込んでいた。
その全身は菌糸に覆われ、大きく成長した色とりどりの子実体が毒々しいまでに鮮やかに鉤爪の体を飾っていた。
上方に向かって成長を続けていた子実体が限界を迎えると、軽い音とともに弾けて胞子を撒き散らした。胞子は鉤爪の体に付着すると、さらに新たなアメーバが生まれて快適な居場所を求めて皮膚を這い回った。
今や鉤爪の体は無数の菌が這いまわり、皮膚に侵した菌糸が頭上に向かって伸び、胞子を撒き散らす子実体を育てる苗床と化していた。鉤爪自慢の爪も、その力を失ったように菌糸と花のような子実体に覆われていた。
鉤爪にはそう見えていることだろう。
菌に覆われて表情を見ることはできないが、つぶやかれる言葉がその奥から微かに聞こえていた。
陸は感心していた。
かってここまで陸の幻術に耐えられた者はいなかった。並のヴァンパイアであれば、もっと早い段階で心が壊れるか、泣いて許しを請うかのどちらかだった。鉤爪はまだ心を保っている。
とはいえ、もはや反撃する力は残っていないことは明白だ。ここからの逆転はない。
そもそも屋上には陸が先に来ていた。陸は決して肉弾戦が強いヴァンパイアではない。まともに鉤爪とやりあえば、ひとたまりもない。陸と鉤爪の戦い方は根本的に違う。陸の戦い方は、弱者の戦い方といってもいいだろう。
陸は気配を消し、鉤爪が現れるのをじっと待った。そして、鉤爪が現れると気づかれないように時間をかけて少しずつその精神に浸透した。強力なヴァンパイアに気づかれず、その精神に干渉するにはそれだけの時間をかける必要があったのだ。
そして鉤爪の精神を掌握したと確信できて、初めて鉤爪の前に姿を現した。鉤爪に姿を見せてからは、戦いが鉤爪主導で進んでいるように見せかけた。幻術をかけられていることに警戒を持たせず、より深く幻術の中に囚われるようにするためだ。幻術が解けることは、そのまま陸の敗北を意味していた。慎重に慎重を期して、陸は戦いを進めた。最初から鉤爪は幻の中にあった。
二人が顔を合わせた時点で、勝敗はほぼ決していたのである。
「頃合いだな」
陸は立ち上がって、コートの下から大振りの剣鉈を取り出した。肉厚の赤黒い刃がその身を外気に晒した。
幻術は強力だが、物理的な破壊力はない。最後に致命の一撃を与える必要があった。
陸は油断なく鉤爪に近づいた。獲物を仕留める瞬間が最も危険な時でもある。陸はそのことをよく知っていた。陸は狩人の家に生まれた。ヴァンパイアになる前からずっと狩りをしてきたのだ。
鉤爪はいまだ動かずにいた。目はどこを見ているかわからず、小声で何かをつぶやいていた。
陸は剣鉈を振り上げたが、ふいとその手を止めた。
「おっと、その前にあいつの食事だったな……」
陸は剣鉈を下し、左手を鉤爪に向けた。
平静なつもりでいるが、やはり大物を仕留める前は心が逸るな、と陸は自嘲した。
「起きろ。食事の時間だ」
陸がつぶやくと、陸の左手にうっすらとイバラが現れた。イバラはするすると鉤爪に向かって伸びていくと、大きく広がって鉤爪の体を覆った。
その時、陸の目が機動隊員を捉えた。隊員は正面のホテルのベランダでライフルを構えていた。
銃口の奥で火花が散った。
「しまった!」
陸は身をひねって弾丸を避けた。だが、気づくのが遅かった。
鉤爪を覆っていたイバラが陸を守るように広がったが、弾丸はわずかに軌道を変えただけで、イバラを突き破って陸に命中した。陸はもんどり打って倒れた。弾丸は陸の頭蓋骨を削り、屋上の壁を破壊して止まった。動かなくなった陸の周りに血が広がった。
陸の術は大変な集中力を必要とする。相手が強ければ強いほど、陸にかかる負荷も相応に増大する。
鉤爪は格闘だけでなく、精神においても並ではなかった。一方的な展開だったとはいえ、決して楽な相手ではなかった。気を抜くと術が解けてしまう。術が解けて格闘戦に移った場合、陸に勝ち目はなかった。陸は全ての精力を術に注ぎ込んでいた。傍から見れば、無防備に近い状態だったといえるだろう。それが徒となった。
陸の術が解けた。
鉤爪は我に返った。
鉤爪は自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。真っ暗な場所から急に明るい場所に放り出されたようだった。
鉤爪はきょろきょろとあたりを見回した。そしてすぐ傍に自分が戦っていたヴァンパイアが転がっているのを見つけた。
鉤爪は混乱したが、はっとして自分の自分の体を調べた。あれほど自分の体を侵していた菌はきれいさっぱり消えていた。その痕跡すらなかった。鉤爪は爪に変えた指を開いたり、閉じたりを繰り返した。何の異常もなかった。爪は鉤爪の知っている爪のままだった。
「幻術……」
鉤爪は幻術にかけられていたことを悟った。
「しかし、なぜ……」
鉤爪は陸に目を向けた。
「ぐっ!」
背中に衝撃を受けた。たたらを踏んでこらえると、さらに注射器のような弾丸が向かってくるのが見えた。鉤爪はそれを避け、屋上の出入り口に飛び込んだ。
「人間がいるのか?どこだ?」
焼けつくように痛む背中に手をやると、注射器が刺さっていた。
「なめた真似しやがって!」
鉤爪は注射器を床に叩きつけた。扉の影から外を窺うと、道路を挟んだ向こうのホテルにライフルを構えた機動隊員が見えた。
「あれか」
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「成功だ!」
笹島はガッツポーズを作った。
「下に降りる階段は塞いであるな?……よし、作戦は鉤爪の捕獲に移行。うかつに手を出すなよ。じっくりと時間をかけて弱るのを待てばいい」
興奮した様子で指示を出すと、笹島は無線機を置いた。
「しかし、さすがは鉤爪というところか。一発当てるのが限界か。できれば何発か当てたかったところだが」
「あれは無理ですよ。明らかに銃弾が見えてますね。二発目を避けたのを見ましたか?私には姿が消えたように見えましたよ」
控えていた溝口が溜息をついた。
体の大きな男で、遠距離狙撃を主体とする笹島隊にあって珍しく近接戦闘を専門としていた。笹島が部隊を立ち上げて以来、影に日向に笹島を支えてきた笹島の副官である。体を張ってヴァンパイアを止める姿に、隊員達からは笹島にはない尊敬を集めていた。
「これからアレを相手にするかと思うと気が重いですわ」
「なあに、まさかアレと正面から殴り合えとは言わないさ。心配するな。段取り通りやればうまくいく」
笹島は上機嫌に溝口の肩を叩いた。
「そう願いたいものです」
投光器により、鉤爪が潜んでいる屋上の出入り口を中心に光が当てられた。
笹島は溝口を連れて市役所の屋上に向かった。
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次回は2/10(土)に投稿予定です。