日雇いは毎日が異世界なのです
俺は目を覚ました。
ずっと長いこと夢を見ていたような気がする。
全身が痺れたように硬直していて、起き上がることが出来ない。
しかも辺りは暗く、よく見えない。
とりあえず病院ではないことは確かだ。
……ぶりゅぶりゅぶりゅ!
なっ、なんだ?
生温かいミンチのようなものが俺の顔面のすぐ側に落ちてきた。
くっ、くさい!
謎の物体を押しのけようとするが、手が言うことを聞かない。
なんだ、なにが起きているんだ…ここが地獄か?
現世を地獄の業火で燃やし尽くす悪魔になってやろうと決心した時、扉が開く音がした。
地獄の扉ではなく、現実の扉だ。
光が差し込み、視界が広がる。
まず俺の前に広がったのは「馬」だった。
そう、あの「馬」だ。
戦国時代では武将と共に、現代では騎手と共に、領土や賞金を懸けて戦う人類の相棒だ。
いや、厳密にいうと馬の肛門だ。人類の相棒の肛門が目線を少しズラすとハッキリ見える。
俺は仰向けに寝転がっていて、すぐ近くに馬が立っている。
ここは馬小屋だった。
馬がひしめき合って並び、そこに俺が寝転がっている。
扉を開けて入ってきたのは十代中盤ぐらいの少女だった。
白いバンダナを巻き、質素な服で、大きいフォークのような道具を持っている。
少女は俺に目もくれず、道具でおがくずを取り分け始めた。
一輪の台車におかくずを積み上げていく。
が、載る量は少なく、あの量をいちいち運び出すとしたら何時間掛かるか分からない。
少女は暗い顔で台車を動かし、行ったり来たりしている。
事態が飲み込めず少女の動きを見ていると、突然喉に強烈な違和感が生じ、激しく咽せた。
のど飴が飛び出す。
真上に飛んで、俺の鼻と口の間に落ちて、くっ付く。
匂うとまだかすかにスースーする。
「あ……あっ」
小さいながらも声が出た。
俺は少女に話しかける。
「おい……おい! ちょっと!」
少女は無視して作業を続けていたが、一瞬だけこっちを見た。
憐みの目だ。
子役顔負けの、まるで犬猫の赤ん坊が病気で死にゆく様を見つめている表情だ。
「いや……ちょっと! 助けてくれって!」
少女はやはり無視する。
このガキ……。このガキは何なんだ。ここで働いているのか?
ガキ…、仮の名前として「馬娘」と呼ぼう。
馬娘はひたすらおかくずを運び出している。
なんだこの作業は。
土の山をわざわざ小分けにして数メートル離れたところに置く日雇いをしたことがあるが、それに近い。
意味があるのか分からない行動だ。
そして、馬娘はとてつもなく暗い表情だ。全てを諦めたような表情……。
こいつ……もしかして、日雇いか?
馬娘は台車を運んでいる途中で、一輪が引っ掛かり、転んだ。
ゆっくり起き上がり、また一からおがくずを載せ始める。
馬娘は一瞬だが鼻をすすり、目を指で拭った。
ははーん、さてはこいつ…初日だな?
日雇い初日は大体のやつが泣くんだよなぁ。
人生で経験したことがないほどの孤独が襲い掛かり、まるで世界中から無視されているような気分になる。
「おいっ、大丈夫か?キツいんだろ?なあ、助けてくれよ、俺もその仕事手伝うからさ」
馬娘がこちらをまっすぐ見つめる。
涙はすっかり乾いている。
馬娘は疲れたように汚いバケツにホースで水を入れ、俺の近くに置く。
そしてまた作業に戻る。
……は?
「あのっ、俺馬じゃないんですけどー! 急にこんなとこいて意味分かんないんですー!」
「…………」
「あのー、聞こえてます?あのー、すいませーん」
「…………」
「…………」
「おいブス!聞こえてんだろ!返事ぐらいしろ!」
馬娘が憤怒の表情で俺を見る。
ホースを持って俺に向け、発射。
ばしゃばしゃばしゃ!
「ちょっ!ちょっ!冷たっ!やっ、やめて!」
「あなたが悪いんでしょ!?話しかけないでください!」
「えっ、なんて!?水!水止めて!」
馬娘は水を止め、俺に詰め寄る。
「あなたが悪いんでしょ!今更開き直っても無駄ですよ!大人しくしてください!」
「なにが!?悪いことなんかしてねぇだろ!たしかに借金は五十万ぐらいあるけど毎月ちゃんと返してんだろ!取り立てたって無駄だぞ!俺はもう金ないからな!」
「ふざけないでください!あなたがボスの言うことを聞かないからでしょう!当然の報いですよ!」
ボスだぁ?俺は日雇いのくせに一丁前に仕事したみたいに缶コーヒーを飲むやつが世界で一番嫌いだ。
「知らねぇよ!俺は日雇いだ!ボスなんていねぇ!これは不当だ!私は今不当な扱いを受けている!警察だ!警察を呼べ!」
俺はここに監視カメラがあるテイで叫んだ。
誰かが異常に気付くだろう。
馬娘はこれでもかと眉間に皺を寄せ、俺を見ている。
何やら考え込んでいるようだ。
「ふざけんじゃねぇぞ!解放しろ!こんな非人道的行為が許されてたまるかぁ!」
「……ほんとにここにいる理由が分からないんですか?」
「そうだって言ってんだろ!」
「……もしかしたらそういう罰なのかな」
「はぁ?なに?」
馬娘はブツブツと何か言っているが、よく分からない。
またも真剣に何か考え込んでいる。
さっきは勢いでブスって言っちゃったけど、コイツよく見たら割と可愛い顔してんなぁ。
未成年なのが惜しい。
いや、今はそんなことどうでもいい。
「もしほんとに分からないのなら教えてあげます。けど、辛くなるだけだと思いますよ?」
「この状況より辛いことなんかないだろ、何でもいいから教えてくれ。それとこのウンコを早く掃除してくれ」
「……あなた、名前は?」
「はぁ?名前だぁ?名前なんか……」
あれ、俺の名前……なんだっけ?