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Rの証明  作者: 蒼井ふうろ
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1.アール

 ちがう、こんなはずじゃなかったのに。

 はぁっ、はぁっ、はぁっ。自分の呼吸音が荒すぎて、聞いているだけでしんどくなってくる。喉と手首とこめかみの三か所に心臓があるみたいに激しい鼓動を感じる。きつくてきつくて立ち止まってしまいたいのに、後ろから聞こえてくるもののせいでそれすら許されない。

 ひたひた。静かで、そのくせやけにはっきり聞こえるそれは足音だ。

 いつだったか、日本語のオノマトペは静かさを表すことができる特異なものだと聞いた。英語ではうまく表現できないその言葉は体験して初めてわかるのだと。そうだ、昨日の国語の授業だ。担任がムカつくくらい楽しそうに話しているから、ちょっとした嫌みのつもりで「そんなの体験しなくてもわかるでしょ」と言ったら、そいつは少し困ったような顔で笑った。それがまた癪に障る態度だったから、ハァ? と短く一音だけで答えてあとは無視してやった。一つ息を吐いて、何事もなく授業が再開される。こんなときに思い出す事ではないのに、なぜかその記憶が頭にこびりついたように離れない。

 角を曲がる。あともう少し走れば家に帰れる。そこまで遅い時間でもないのに、やけに住宅地は人気がなかった。門灯のついた家々が続く道を走り続ける。結構な速度で走っているのに足音が離れる気配もない。一瞬すら惜しくて振り返ることすらできなかった。

 そうだ、とまた思い出す。

ムカついていたのだ、あの女に。善意を顔に張り付けたみたいな、いかにも「私はいい人です」みたいな顔をしたあいつ。いくら自分が馬鹿にしても雑に扱っても気にした様子もなく接してくるあの教員が、ムカついてムカついて仕方がなかった。穏やかな口調で名前を呼ばれるのも、諭すように話されるのも、嫌いなものを無理やり口の中に詰め込まれた時のような嫌悪感を誘発した。生理的に嫌い、というのが適切な表現だったかもしれない。


「雛岸さん、それ、危ないかもしれないわ」


 眉を下げた心配そうな顔が脳裏にちらつく。ああ、今日の放課後のことだった。あの時自分はなんて答えたのだっけ。相変わらず腹の立つ話し方だと思って、そして、聞こえるように舌打ちをした後に作戦を変えたのだ。


「別にあなたに心配してもらう筋合いないのでぇ」


 近づかないでもらえます? と意識して厭味ったらしく声を出す。周りにいるクラスメイト達がぎょっと目をむくのが見えたけど、それも気にならなかった。あんたたちはこいつに媚びないと学校で生きていけないのかもしれないけど、自分は違う。こいつに媚びなくても自分の力だけでやっていける。子供のご機嫌取りして生きてるこんなシケた女に管理される気なんてさらさらないし。


「……本当にそう?」


 だから、いつもなら困ったような顔をして笑うだけのこいつが、急にまじめな顔になってそう言ったことに少なからず驚いた。けど一度口から出した言葉が戻るわけでもないし、何よりこいつの言葉で自分の考えを変えるというのも腹立たしいからそのまま無視することにした。無視はいい。相手を自分にとって存在しないものにしてやることで、自分の優位性も保てるし、相手が逆上すればさらに攻撃する機会にもなる。もっとも、この女がそれで噛みついてきたことなどなかったけれど。

 ちがう、今はそんなことを考えている場合じゃない。一刻も早く家に帰らなきゃいけないのに。どうしてこんなに変なことばかり思い出すのだろう。


「……あっ!」


 一瞬の思考の合間に足がもつれる。体勢を整えようとしたが間に合わず、そのまま前向きに転倒する。空気の足りていない頭が強く揺さぶられて視界がくらくらと揺れた。目の前の景色が白黒に明滅して距離感が掴めなくなる。立たなきゃ、立って走らなきゃ。だってもう家のある通り、あとほんの十数秒走れば家の中に逃げ込める。鍵を開ける手間だけはかかるけど、それと同時にインターフォンを鳴らしておけば親が先に出てくるかもしれない。そうすれば、そうすれば相手だって追いかけるのを——


「ねえ」


 全身の毛が逆立った。逃げなきゃ。頭の中がその思いだけに支配される。これから離れなければ、一刻も早くこの場から去らなければ。

 そう思うのに体に力が入らない。声も出ない。見てはいけないと思うのに、操られているかのように頭が動いて、振り向いた。


「——……!」


 悲鳴は出ず、高い音で空気が漏れただけだった。目の前の存在がなんなのか認識できない。逃げ始めた時はそれが何かをわかっていたはずなのに、今はただただ恐ろしいということしかわからない。

街灯の光が白刃に乱反射した。それはゆっくりとこちらに近づいてくる。今立てば逃げられる、悲鳴を上げれば誰かが助けてくれる。パニックになる脳内で、冷静な自分がそう指示を出す。無傷では逃げられないかもしれないが、相手が人であれば虚を突いて逃げ出すこと自体はできるかもしれない。

ぶわり。目の前のそれが膨らみ、形を変える。


「……え?」


 悲鳴はどれだけやっても出なかったのに、誰にも聞こえないような呆けた声だけは口から漏れ出た。阿呆のようなその声を恥じることすらできない。目の前のそれに目も思考も奪われる。


「なに……なによ、それ……!」


 それはまたゆっくりと近づいてくる。ずりずりと後ろ手に這いずりながら距離を取ろうとするが、それで間に合うわけもない。一歩分下がる間に向こうは数歩分近づいてくる。距離が詰まる。白刃が迫る。


「ねえ」


 再び声がした。地の底から響くような恐ろしい、それでいてどこか甘ったるいような気だるい声。それが目の前の者から発されていると認識するのにそう時間は必要なかった。


「ねえ、どうして逃げるの?」


 本能的な恐怖を揺さぶられるその声に歯がガチガチと震えだす。返事なんてできるわけもなかった。背中が固いものに当たる。後退するうちに街灯にぶつかってしまったらしい。人工の光に照らされて、それの姿はよく見えた。

 それは、ヒトのように見えて、しかし明らかにヒトではなかった。


「……は、はは、あははは、あひっ、ひひひひひっ」


口からは全く意図しない笑い声が零れ、それと同時にしょろしょろという水音がして下半身が濡れていく感覚がした。人間は恐怖が最高潮に達すると悲鳴を上げることができなくなる代わりに笑うようになるのだという。それをこんな形で体験することになるとは思わなかった。夜間に引きつった笑い声をあげているのだから周囲の家の人間が気付いてもよさそうなものだったが、あたりは異様な静けさで満ちていた。


「うぜえよなーあいつ」、自分の声が脳内にこだまして「いいじゃんミナト、やっちゃいなよー」、誰かの声が耳の奥で響いて、「どうせあいつ、あたしのこと気に食わないから難癖付けてるだけでしょ」、ゲラゲラと笑う声に教室の風景が映りこむ。それを皮切りに様々な光景が展開されて、ふと、ああ、さっきまで見ていたものも含めてこれを走馬灯と呼ぶのだな、と納得してしまった。


「はは、ひひゃひゃ、はーっはっは、あーはははは!」


 無様に引きつった笑い声だけが口からほとばしり続ける。涙が、鼻水が、よだれが出て止まらない。水にまみれたぐちゃぐちゃの顔をそれが掴んだ。目を閉じることもできず、ただゆっくりと振り下ろされる白刃を凝視することしかできない。

 そして刃はゆっくりと——少女の腹部に突き刺さった。


◆ ◆ ◆


「“赤ずきん連続殺人事件”?」


 形の良い眉を吊り上げて霊山寺琴子は問い返す。その向かいに座る阿良々木らあらはそうみたいだよぉ、と間延びした返事をした。


「ココはあんまり佐々熊のほう行かないんだっけ?」

「佐々熊……ああ、あなたの高校よりいくつか先の駅のあたりでしたか。であればわたしの行動圏外ですわね」

「今あの辺は大変なのさ」


 ケーキを一口大に切っていたフォークを琴子に向け、らあらは大真面目な顔でそう言う。行儀が悪いわ、とそれとなく制しながら琴子は続きを促した。


「佐々熊市女性連続殺人事件ってのが一応の名前らしいけど、マスコミとか近隣の人たちは“赤ずきん連続殺人事件“って呼んでる。一カ月くらい前からかな。被害者はわかってる限りでそろそろ二桁の大台に乗る。十代から四十代ごろの女性だけなんだよね」

「……なぜそれが赤ずきんと?」

「すべての遺体がね、死因は色々だけど、腹を裂かれたあとその中にぱんぱんになるまで石を詰めてあるんだ。おまけに丁寧に縫合までされてるのと、被害者がなにかしら「赤いもの」を身に着けてたらしい」

「ああ、だから赤ずきんですの」

「そ。正直最後の一つがなければ狼の殺し方と言っても過言ではないんだけどね」


 けらけらとらあらが笑う。琴子は緊張感のない彼女の様子に若干眉根を寄せたが、口に出すほどではなかった。あまりにも執拗で猟奇的なそれを大真面目に扱って場の空気を凍らせるほど、普段のらあらが愚かではないと思っているからだ。

狼の殺し方、というのはもちろん現実の話ではなく、童話に共通してみられるキャラクターとしての話だ。有名なものなら先に出た『赤ずきん』や、『おおかみと七匹のこやぎ』があがるだろう。腹を裂き、中に石を詰めて縫合までやってのけるなど常人の神経でできることではない。童話から着想を得た猟奇殺人犯か、或いは。


「あなたが話を振ってくるということは、つまり“依頼”になるようなものですのね?」

「ご明察」


 ニィッと口角を上げたらあらはそのまま残っていたケーキを口に放り込む。行儀が悪いわ、ともう一度同じ言葉で制して、琴子は紅茶を口にした。


「正式な依頼文書はおりてきていますの? 先ほどは受け取りませんでしたけど……。この場合はどういった内容になるのかしら……そういえば支援型の依頼は受けたことがありませんでしたわね」

「あらぁ、ちょうど今渡しにきたところよ〜」


 おっとりとした声と共に二人の少女に影がかかる。艶然という形容表現がよく似合う笑顔を浮かべた女性、黒本透は琴子とらあらの間に一つのファイルを置いた。


「マスター」

「トールちゃん」


 透は「さっきはファイリングが終わりきってなかったのよ〜、ごめんなさいね」と軽く謝ってから二人に向き直る。


「別に。滅多にない依頼ですもの、それくらい丁重にしてもらったほうがいいですわ」

 慰めているのか馬鹿にしているのかわからない口調でそう言った琴子を気にする様子もなく、透は言葉を続ける。先ほどよりも幾分か硬い、真面目な声で。


「黒本依頼所所長黒本透から“アール”に、退魔の依頼よ」



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