鏡の向こう
鏡台のたれ布をめくると、鏡の向こうから私が私を見ていた。妻の遺品だ。
足元に散らばった原稿用紙やら本やらを足で除け、私は更に一歩鏡台へと歩み寄った。鏡面は恐ろしく透明で、私の皺や白髪までくっきり明瞭に映し出す。残酷だ。月日というものは。戯れに鏡面に手をあてがうと、手応えがない。
見れば私の手の先は鏡の向こうに沈んでいた。そこで私は合点が行った。そうか。ここを通れば向こう側に行けるのだ。それは鳥が鳥であるように、空が空であるように余りにも明快な事実だった。
私は一歩を踏み出した。
鏡の向こうの世界はとろりとした空気の流れがあった。水流にも似たそれはしかし私の呼吸を苦しくはせず、寧ろ清涼な心地さえ覚えた。赤い金魚やら錦鯉やらが宙を泳いでいる。尋常ならざることもこの空間ではさもありなんと思う。私はインクの染みと、浮いた肌の染みを見た。黒と薄茶は何とも見栄えのしないものではあったが、いつもは苦々しく思うそれらをこの空間は感じさせない作用をもたらすようであった。
一生の中で一番なくらいに、私の心は解放感に満ち溢れていた。きらきらとした微細な泡が私の周囲を舞って、それは私の口にまで入り込み甘い余韻を残してゆく。余りに自然に私はこの異様を受け容れていた。それこそが異様であった。だが私は思ったのだ。鏡の向こうに行けば逢えると。誰に。誰かに。妻だろうか。確かにあれが逝ってしまった時には私は深沈とした悲しみに耽ったが。人影がある。
……何だ。やっぱりお前か。
ある早春の日、文豪と名高い作家の訃報が世にもたらされた。
奇妙なことにその作家は、鏡台を抱くようにして亡くなっていたという。
書きかけの原稿用紙の表題には、ただ「鏡の向こう」とだけ書かれていた。
明夜明琉さんに捧ぐ。